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もんく [マレーシアで働いて13年→2022猫を連れて日本]

他人の死の可能性にリアリティはありますか?

TinyQueryはほぼ8割は書き換えてしまったのでかなり別物になってきている。完成にはまだ時間がかかりそうだ。

昨日のヒープメモリーの問題は読み込んだファイルの中の情報を処理の為に一度分割して、それを再度元に戻そうとしたために発生していた事が判明。なのでそう言う処理は諦めた。



この間の事故の件でミーティングがあった。どうせ大した事はないと思っていたが予想通りだ。

と言うのは、発生させた部署は「大した事ない」にしたいし、周囲は「自分の事じゃない」からだ。今回はラッキーで人が怪我したり死んだりはしなかった。が、ちょっと状況が違ったら1人位は死んでいたと思う。そんな中でまだ自ら再発防止に向けて動こうとはしないと言う事だ。

こう言う事が起きる前にも逃避経路の問題も設備へのアクセスも毎日見ていれば問題があるのはわかるし、他人に指摘されてもいたのに何もしていなかった。そして今回も、その事故直前に現場管理の者がそこを通り、見て、作業員に話しかけてもいるが、その目の前の状況を見てさえも作業の危険さと間違いを正さずにいた。しかもそのやり方はずっと以前に何回も指摘していてよもや忘れたとは言えないレベルであるにも関わらずそうなっている。

そして今回の対策案の中では「作業員にトレーニング」のようなボヤけた事を言って終わりにしようとしている。トレーニングするとしても、その危険を目にしながら通り過ぎ者がやる事になるだろう。全ては作業員に被さってくる。

人が死ぬと言うリアリティはなかなか持つ事ができない。できないと言うよりは誰もそんなものは感じたくはない。できれば遠ざけていたい。自分の親兄弟が不慮の死を遂げる事でもあれば否応なく感じざるを得ないが、職場の他人でありしかも今回はラッキーにも逃げられた。もし以前あったように人事が正しい靴を支給しなかったり、濡れた床で足を滑らせた、逃避口のドアを開けるのに手間取ったりしたら、死んでいた可能性は大きい。

にも関わらず、まだ「作業員のせい」であり、自分らは指示していないとか、前からずっとそうやっていたとか、使い方を忘れているなどと言う嘘を言い続けて遠ざける。もし一歩間違って死んでいても、そうして嘘をついて一生を生きるのか?それを放置すると言うのか?生き続ける事に何の呵責も無いのか?
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