この災害時に食料の奪い合いも強奪もなく、世界から絶賛された日本ではあるけれども、後でこうして責任論・罪のなすりあい・集団吊るし上げ・トカゲの尻尾切と言ういつもの事になるのは世界の評価に対して申し訳ないと言いたくなる部分ではある。
こう言うのを見ると「日本人とは仕事したくないなあ」と、いつも思う。
「誰が」と言うのは今直面しているオブジェクトとは何の関係もない。「この問題をどう解決するか」とは何の関係もない。この現状をどうやって乗り切ろうか、そして今後はどうして行こうかと言うことについての議論は軽んじられるかまたは行われない。「原発への対応はまずかったね、だから代表者の首を切って次の人に替えよう」でだいたい話は終わる(はず)。
今後の原発の運用をどうすべきなのか、技術的な問題、行政の問題、監視の問題など具体的な事は表面に出ずに終わるだろう。
これは特に社会全体と政府が絡んでいる大きな問題だから特別にこうなっているわけではない。
ある仕事が上手く行かない、特にお客様に迷惑をかけてしまうような事態が発生しているとまず出てくるのが「責任者は誰だ」と言う言葉。その後にはちょっとした組織変更や連絡網の再構成のような事は日本企業では必ず起こる。だからと言ってそれで問題が解決するわけでも良い方向へ向かうわけでもない。現場は新しい上司や連絡先に対してゼロから事態を説明しなければならなくなるとか、圧力をかけてくる人間が増えることを認識するだけの事で具体的な方法論がどこから示されるわけでもなく混乱をきたすだけになる。
そう考えると、マスコミやその他一般の人のこうした責任論は物事を良い方向へは持っていかないだろう。いくら東電社長に謝罪させても経営陣が交代してもきっと何も変えることはできない。きっと安全でないかもしれない原発をこのまま未来永劫運転しながら電気を安定供給させ続けることになるだろう。
東電に責任があると思うなら、その前にもっと身近な"そもそも"を考えてみたらどうか。電気は安定供給されるものだと普通に思っているからジャンジャン使う自分はどうか。ジャンジャン使いたいからそれを実現するためにインフラ整備に税金を投じることを約束する政治家に投票するが、その時にその元が原発なのかその他の方法なのかは考えない自分はどうか。エネルギー政策で脱石油が必要と、東電に原発を造らせる政治家に投票する自分はどうか。CO2排出抑制、かつ豊富な電気の供給を両立させるのを喜ぶ自分はどうか。また、こうした事を放っておいて(投票を棄権するなど)社会から受け取るものだけ受け取っているだけの自分はどうか。
そしてもし自分に責任があるとわかったなら、自分は謝罪とともにこれまでの自分と言う生き方を辞めるのかと言うことだ。
「責任」と言う言葉を個人の人格に結びつけて考えるのはどうやら日本人のクセらしい。もうそれも止めたらどうか。それより肝心なオブジェクトについての議論をしてはどうか。
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