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もんく [とある南端港街の住人になった人]

本を読まずに考える自由と夫婦別姓や性的マイノリティのこと

昨日の「14歳からの哲学」の自由のところ、どうにも納得がいかないので買ってちゃんと読むべきだったかな?とちょっと思ってはいるが、でもなあ・・・

「自分がよいと思われるからする」というところの「よい」とは何だろう?すぐに「悪い」が対義語で出てくるから善悪の問題なのかとも考えられる。そして「よいと思ってしていても実は悪いことだった・・・」というのが出てきてつまりは実は自由にやっているつもりが自由でなかったとなると、自分が認知できていないところまで責任を持たないと自由は無いことになってしまう。

今、よいと思ってやっていたら実はそれが地球環境には悪いことだったと後でわかるというようなのは常にあるし、悪いと思っていたことが実はよいことだったみたいなのもある。人間がこれまで環境によくないことをしていたと反省してよくしようと頑張って行動を変えたとする。それでもまだダメで、よくよく考えたら人間が滅びるのが最もよいとわかったら滅びる選択をするのが自由ということになってしまったりはしないだろうか?

人間の多くは何らかの宗教を信じているから善悪感はその影響を受けているかと思う。するとある人が絶対善と信じていることが他の人から見れば悪ということも考えられる。ならば自由の範囲はその宗教の範囲に収まっていなければならないから、それは本当に自由なのか?ということもある。

なんとなく、定義のところから掘り進んでいかなとすぐに行き止まりになってしまうようだ。と、読んでいない本について考えていても仕方ない。次回やっぱり買ってこようか?けれど、その前に読む本がまだあるからなあ。




前日に続いて牛スピーカーの話だが、やっぱり良いと思う。誰かに聴いてもらって感想を言ってもらいたいところだが、そういう機会を今のところ持つことができない。困った。




夫婦別姓や性的マイノリティについて世間でいろいろ言われている中で反対意見でよくあるのが子供の姓や伝統や何やかやだが、そのことにいちいち反論することはできるししている人も多い。それは真面目な態度としてやっているのでとても良いと思う。

でも、よく考えてみると、その話の内容は「認めない」と強硬に言い張っている人の話なのだ。つまり、それに論理を交えて反証してもあまり意味がないのではないだろうか?つまり同じ平面で議論をしても相手の正に対する別の正をぶつけているだけで火花が散って終わりだろう。

本当ならばもっと別の平面に移動して言う必要があるのかもしれない。例えば、最近は医学的に外見上の性別と本人の認識する性別が異なってしまう人がある一定数いるとわかってきたことを踏まえれば、その少数の人が社会で不利にならないように考慮してあげることが人間として正しい選択なのではないか?というような言い方だ。これは医学的にそういう人がいるということに限らない。それが科学で証明できない単なる趣味かもしれないとしても、そうした希望がある人がいるのであればそれとて認めるというより、あるものとして考えてその人たちの自由を尊重するという態度が必要ではないかということだ。

一つの地域の中にお祭りに参加する人もいれば参加したくない人もいるのと同じことで、伝統を守りたい人もいればそれ以外の価値を重視する人もいる。ただそれだけのことなのだと。そして我々はまだ生まれてきていない子供や選挙権のない子供のことを考えて政治に参加するのと同じようにマイノリティの権利も考えて参加すれば自ずとどの選択肢を選ぶかは決まるだろう。
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