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もんく [とある南端港街の住人になった人]

差別する心

今朝までつぶあんはリビングの掃き出し窓の外で寝ていた。

最初は洗濯機の横に置いているダンボール箱を1/3の高さに切った猫ベッドで寝ていたのだけれど、自分がリビングに寝て見える位置に移動させた。弱っているので置かれるがままにそこで寝た。夜中に何度か見るとどうやら普通に寝返りを打ちながら寝ていたので安心した。

ただ、普通、つぶあんは夜行性なので夜間にずっと寝ていたりはしない。まだ身体に力が入らないのだと思う。朝、仕事に出かけて来たあと、奥さんからメッセンジャーでつぶあんの写真が何枚か送られてきた。最初は家の表の小さな花壇でおくさんの足元にいるところ、その後はキッチンの外側の(マレーシアではウェットキッチンと言う)隅で丸まって寝ているところだった。

そうして普通にいつものように居てくれると、それだけで安心する。うちには子供がいないけれど、小さな子供の親と言うのは自分なんかが感じるよりずっとずっとこう言う気持ちが強いのだろうな、と思う。"こう言う気持ち"?、そう、こう言う気持ち。


こう言う気持ちが強く感じられれば感じられるほど、感じられない場面の方もあるのがわかる。感じる場面と感じられない場面、内に感じられる気持ちと外と思う気持ち、親近感と拒否感などなど。


20年も前、インドネシアにいた時の事。インドネシア人は初めて会った人に必ず出身地を聞く。けっこう詳しく聞く。XXXと言う街の出身とか、XXXの出身だけど△△で働いている、XXXには君と同じ○○○出身の人がいて友達だとか。何かと言うと、位置的な情報の中に共通点や接点を探すのだ。そうして近い方が親近感が湧く。遠めの人より近めの方がより友達として認識し易い。

共通点が何も無いとその人との関係が遠いと感じる。近いものがあると関係が深いと感じる。それは単に気持ちの持ちようと言ったらそれまでだけれども、気持ちは重要。オリンピックで戦っている相手の国の人より自国の選手を応援するのと同じようなものだ。それをもっっと具体的に、深くしたものと思えば良い。


人間の脳みそはそう言う風に何かと何かを差別するようにできている。より近いものに親近感を、遠くなったところにその反対を感じる。本当はその近さ遠さには何の合理的な理由も無いのだけれど。


お腹の中にあるウンチは自分の一部だけれど、出たとたんに汚いものになる。鼻くそや鼻水、ツバなんかもそう。物理的には体内にあるのと外に出た時とで何の違いも無い。外国の人、宗教が違う人には共感し難かったりするけれど、それも客観的には合理性が無い。

うちの"つぶあん"とこの前よく来ていた"ママレード(猫の名前、1月11日のタイトル写真参照)"、単にどっちも猫だけれど、自分の中では全然違うものとして認識している。それが自分の中ではあたりまえになっていて、つぶあんが寝ているだけで涙が出そうになったりする。
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