もんく [とある南端港街の住人になった人]

渋滞に参加

朝、道路がいつもより渋滞していることがある。それも交差点2つ分も多めに渋滞している。その場合、100%の確率で絶対におまわりさんが手信号で交通整理をしている。逆におまわりさんがいないと渋滞はそれほどでもない。多分1/5程度で済む。

おまわりさんは信号機を無視してあっちから来る車をずっと流し続けたかと思うとこんどはこっちを流し続ける。悪い場合には高速道路にも長い渋滞の列を作ってしまう。それでも2日に1回か3日に1回はかならず白バイで来て交差点に立つ。早朝からとても良く働く人たちだ。

彼らは自分たちがこの交通渋滞をどうにか緩和していると思っているだろう。だけれど、彼らが来る日は渋滞が発生していて、彼らが来ない日はそれほどでも無いので彼らには自分たちがいない日がどうなっているか知るよしも無い。残念ながら。

つまりおまわりさんは渋滞を緩和しようとどうにかしているつもりだけれど、おまわりさん本人がそれに参加しているとは思っていないのだ。


電気の回路に流れる電流を正確に測定しようとして電流計を線のどこかにつなげる。電流計には電流の値が表示されるけれども、それは実際に電流計が無かった時の電流を測っているわけではない。電流計が入るとどうしても電流計が邪魔をしてしまって元の電流の値は結局わからないままになってしまう。電流計はおまわりさんに似た働きをしていると言える。


山に登って良い景色を眺めようとするけれど、最近ではなかなか良い景色のある場所まで行くのはたいへんらしい。なぜならみんなが良い景色を求めて山に登るとだんだんそこが自然の環境とは言えなくなってしまうからだ。前に行った上高地もそうだった。バスで簡単に行ける大自然なんて実は無いのだなあと思い知らされた。


山に行かなくてもいろいろなことに我々は不満を持つ。個人的な事でも社会についてでもいろいろ不満が出てくる。法律を守るのが面倒だとか、税金を払いたくないとか、年金を払いたくないとか、隣人がどうだとか、この街はとか、あいつは...とかそう言った不満はたくさんある。それらは全部"自分"と言うものの"外"の事だ。環境とか社会とかそう言う外にあるものが何でも悪いと思うのだ。

でも、実は自分は交通渋滞を緩和しようとして頑張りながらもその逆の効果をあげてしまっているおまわりさんだとは、ほんのちょっとも言えないだろうか。あの人が悪いと思えるのはもしかしたら自分がそうさせてしまっている可能性は無いだろうか。社会がこんなに不快なのは自分がそこに参加していて何かをしないとか、またはしているせいではないだろうか。

たまには自分が何をしているのか、おまわりさんでないだろうかと考えてみようと思う。
(考え始めると心苦しくなってしまうのは仕方ない。それでも死にはしないが。)
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「まさか、マレーシア!」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事