続・俺がハムになるまで語り明かそう

旅行でかかった費用や素直な感想など、旅の記録を書いていきます。色々無知なところもありますがゆるーく見てください

'19カンボジア旅 16 S21 トゥールスレン虐殺博物館その②

2021-02-27 09:10:00 | 海外旅行
注意:今回グロ写真(モザイクつき)が出てきます

続いてB棟へ向かいましょう。
ここトゥールスレン博物館にはAからD棟まで4つの建物があり、当時使われていた道具などがそのまま保管されていたり写真の展示スペースになっていたりします。

A棟からB棟へ行く間にこんな展示がありました。
これは看守が囚人(とされた人)を尋問するときに使ったものです。
横の看板に英文で説明があったので翻訳しました。

【翻訳】
「ケーブルが取り付けられたこのポールは、生徒が運動を行うために使用されていました。 クメールルージュはこの場所を尋問室として利用しました。 尋問者は囚人の両手をロープで後ろに縛り、囚人を逆さまに持ち上げた。 囚人が意識を失うまで、彼らはこのようにしました。 それから彼らは囚人の頭を臭い汚い水の瓶に浸しました。そしてそれは彼らが通常外のテラスで作物のための肥料として使用しました。 そうすることで、被害者はすぐに意識を取り戻し、尋問者は尋問を続けることができます」

ここでいう汚い水とは糞尿のことです。

横にある鉄棒がここが学校だったということを思い出させる。

さて、B棟1階は写真の展示になっており、いかにしてこのS21が作られたかなどの説明などがありました。

この写真はポルポト派(クメールルージュ)がプノンペンに到着した時の写真です。
右上に【The a Arrival of Kampuchea democratic 1974】と書かれています。
拡大すると
みんな拍手で迎えていますね、これから地獄が始まることも知らずに…。


少年兵?が沢山います。

見にくいですがこれは民主カンプチアの農民服、昔の中国でいう人民服みたいなやつです。
みんな同じ黒い服を着させられました。


この顔写真は帽子をちゃんとかぶっていて囚人番号もついてないので、おそらくクメールルージュの一員として従事していた子供達ではないかと思われます。

こちらも同じく従事者でしょうか?みんな10代前半幼い顔つきです。


下の絵は食事の配給の様子。
支給されていた食事は少しの米が入ったお粥を1日2回、12時間の重労働だったといいます。


この人はクメールルージュ幹部の妻、この写真撮影直後手にしていた赤ん坊を取り上げられました。


中には外国人も捕えられ処刑されていました。


再び拷問部屋、際限なく疑わしき者が現れる(自白強要)ので拷問部屋も数多くあったのでしょう。
主に2階が拷問部屋になっているようです。

幼い看守の写真でしょうか?分別つかない歳なのに。
そもそもこんな小さくて看守として務まるのかな…。

空は青く気持ちがいい天気ですが、この施設内は誰も大声で喋らないのでとても静かでした。
犠牲者もこれと同じ空を見たのでしょうか。

抵抗したのか怪我をしている人もいます。
すごい小さな子もいますが首から番号みたいなのを下げているのでこれは犠牲者っぽいですね、なんとむごい…。

ただただ人の写真が多くてびっくりします。このS21だけで18000人ほどが犠牲になったと言われています。


おびただしい数の人骨。当初はこのトゥールスレンで殺害されて埋められていたようですが、しばらくすると処刑場所と遺体処理はキリングフィールドへと移されます。


すいませんエゲツない写真なのでモザイクをかけました、普通に拷問されて死んだ方の死体の写真です。
(モザイクを軽くかけたら圧縮されて一度写真が丸見えになったのは内緒です)
こちらもモロ死体でしたのでモザイクしました。
そんなに死体の写真は多くないですが、こういった写真は死亡記録としてS21の看守が撮ったものということですかね。

ここは集団で足枷をつけられ寝かされていた場所かな。

 PEOPLE's REPUBLIC OF CAMPUCHIA「カンプチア人民共和国」

右下の写真は利用できる特殊技能を持っていたためクメールルージュに生かされていた人たちです。
 左から一人目(現生存者):チュンマイさん/メガネ製作

二人目:大工

三人目:彫刻(ポルポトの顔像も手がけた)

四人目(現生存者):画家

五人目(現生存者):画家

六人目:ベトナム語通訳

七人目:メガネ製


そしてこちら、被害者の頭蓋骨で作られたカンボジアの地図です
以前は展示されていたようですが、あまりに残酷なため展示を中止したとのこと。


B棟の2階へ上がって降りてくる時この階段の壁に違和感を覚えよく見てみると…


見えますか?なんと壁に血痕がついていました。
この時は「まさか血痕が残ってるわけないよな?掃除くらいしたでしょ博物館だし」って思ってましたがどう見ても血痕です。

そこら中に点々とついているので何かなーとは思っていましたが…。


ベトナム戦争証跡博物館もなかなかの衝撃でしたが、こちらはまた違った狂気を感じます。

続いて隣接しているC棟へと向かいましょう。

カンボジア旅'19  17へ続く


'19カンボジア旅 15 なぜカンボジア大虐殺が起こったか

2021-02-27 08:20:00 | 海外旅行
トゥールスレンの続きをご覧になる前にこちらを見ていただいた方が流れがわかりやすいかと思います。wikiから抜粋、この辺りはベトナムカンボジア戦争などもありややこしいですが詳しくはWikiをご覧ください

カンボジア内戦

1970年

・カンボジアは元々共産主義寄りの国でしたが1970年に親米派のロン・ノル将軍がクーデターを起こす

・当時のベトナム戦争においてアメリカが支援していた南ベトナム寄りの資本主義に近い政策を導入

・これにフランス留学帰りで共産主義を学んでいたポルポトが反旗をひるがえし対立、中国がバックアップにつく

・カンボジアはロン・ノル派とポルポト率いるクメールルージュ(赤いクメール)の内戦となる

"ポルポト"

1975 

・ベトナム戦争で南ベトナムのサイゴンが陥落しアメリカ軍が撤退アメリカの支援を受けていたロン・ノル政権もクメールルージュに敗れる

民主カンプチア誕生

1975417

・クメールルージュが首都プノンペンを占領後、ロン・ノル政権の閣僚を全員処刑(ロン・ノルはアメリカ合衆国へ亡命)


都市部の住民を農村での食糧生産に強制的に従事させるために「アメリカ軍の空爆があるので23日だけ首都から退去するように」と都市居住者を地方の集団農場へ強制移住させた

国名を「民主カンプチア」に改名


1976513日  ポルポトが民主カンプチアの首相に正式に就任

原始時代のように農業のみで生活をする原始共産主義を目指しあらゆる文明を撤廃

・通貨の廃止、私財は没収、教育や医療も否定

・宗教の禁止、少数民族の存在も認めない

・恋愛や結婚もクメールルージュの許可なくできない

・国民の服は黒い農民服で統一 

"農民服"

強制労働により運河やダム総延長15000キロもの巨大な水路が建設、機械がないため全て手作業で行われる

・生産された米は武器調達資金を得るためにほぼ輸出

・労働者の食べ物は1日2杯のおかゆのみ

・劣悪な環境の中で朝5時から午後10時まで働かされたため過労や栄養失調により死亡する者が相次ぐ

"おかゆの配給を受ける様子"

大虐殺の始まり

ポルポト「政策がうまく行かないのはきっとカンボジアやクメールルージュ内に裏切り者やスパイが潜んでいるためだ」

・知識のある人は不要医師や教師、技術者を優遇するという触れ込みで自己申告させ、別の場所へ連れ去った後に殺害

・眼鏡をかけている、文字が読める、時計が読める、など少しでも学ありそうな者は片っ端から殺害

・その挙句、海外にいるカンボジア人を国を立て直すのを手伝って欲しいと呼び寄せ殺害

・プノンペンは飢餓と疾病、農村への強制移住によってゴーストタウン化

・「資本主義の垢にまみれていないから」という理由で10代前半の無垢な子供を重用するようになり少年兵や子供の医者が存在


1978年4月  

・ベトナムとの関係が悪化し、ポルポトはベトナム領内の農村でベトナム人の大量虐殺(3157名)を行う


1978518

・裏切り者とされた東部地区幹部であるヘン・サムリンの弟と義兄が逮捕されS21へ送られる。

・ポルポトへの反乱が疑われたヘン・サムリンや兵士らが、ポルポト派から攻撃を受け内戦に陥った(五月決起)

・将兵が大量処刑されベトナム領内には十数万の人が難民として流れ込む


1978122

・ベトナムはカンボジアから亡命した元クメールルージュ幹部や兵士たちをカンプチア救国民族統一戦線として組織

・ヘン・サムリン元クメールルージュ軍司令官が戦線議長に就任


同年1225

・カンプチア救国民族統一戦線(KNUFNS)を先頭に立て民主カンプチア領内へ侵攻

ベトナム軍は「カンボジアをクメール・ルージュの魔手から解放しようとしているカンプチア救国民族統一戦線を後方から支援しているだけ」という立場を取り「ベトナム正規軍はカンボジアにいない」と言い張る

実際は累計15万を超えるベトナム正規軍が派遣されており、KNUFNSの構成員は2万人程度

・ベトナム戦争を戦い抜いた実戦経験豊富な兵士や、装備の点でも優れるベトナム軍は粛清で脆弱となっていたクメールルージュの抵抗を難なく排し、わずか半月でプノンペンを制圧→民主カンプチア政権が崩壊する


197917

・ベトナム軍はポルポトらクメールルージュをタイ国境近くのジャングルまで追いやる


1979年2月 越中戦争勃発

・ベトナム軍のカンボジア侵攻に対し懲罰するという名目で中国はベトナムに攻め込むがソ連の支援もあったベトナム軍に中国軍は勝てるはずもなくあっさり敗退


197918

・ヘン・サムリン政権の設立、カンプチア人民共和国誕生


1989

・憲法改正により「カンボジア国」に改称


1998415

・ジャングルに潜んでいたポルポトは心臓発作のため死去、しかし遺体の爪が変色していたので毒殺または服毒自殺の疑いも

・遺体は兵士によって古タイヤと一緒に焼かれた後そのままその場所に埋められる

埋葬直後には墓は立てられなかったが、のちに墓所が建てられた。


・墓碑などはなく粗末な覆屋の看板に「ポルポトはここで火葬された」とのみ記されており、溶けかかったタイヤとともに遺骨が土の上にむき出しの状態で置かれている


とまぁ、だいぶ端折りましたがとんでもなくめちゃくちゃなことが起こっていました。
これがたった46年前(2021年現在)だというのに驚きです。
わたくしが小さい頃に「数年前の出来事」としてニュースでやってた記憶が残っています。
次回、トゥールスレンの続きです。

カンボジア旅16へ続く