カサバ村の朝はいつも静かで、淡い白黒の霧が村全体を覆っている。
だがその日は、少しだけ違っていた。
エディアの家の窓から、タマ吉の黒い尾がしっかりと外に向かって揺れていたのだ。
「タマ吉、どこに行くの?」エディアが小さな声で尋ねると、タマ吉は一瞬だけ振り返り、まるで「大したことじゃないさ」とでも言いたげに、彼女の顔を見た。
そのまま家を出て、霧の中に消えていく。
シヴィーはまだ寝ている。
エディアは姉を起こすのをためらい、タマ吉を追うことにした。
何か心配事があるような気がしてならない。
あの猫は、いつもエディアたちの側にいて、まるで家族を守るようにしているからだ。
タマ吉が向かっているのは、村外れの古い井戸の近くだった。
井戸の周りは草がぼうぼうと茂っていて、村人たちは近づかない場所だ。
それにしても、タマ吉が何をしようとしているのか、エディアには見当もつかなかった。
井戸のそばに立つタマ吉は、突然、エディアの方を向き、彼女をまっすぐに見つめた。
その目は、どこか悲しげで、深い思考の底に沈んでいるようだった。
エディアが近づくと、タマ吉は「ミャア」と鳴き、彼女に井戸を見せようとするかのように、井戸の縁を軽く叩いた。
「ここで何をしているの?」エディアが再び尋ねると、タマ吉は少し前へ進んで、井戸の中を覗き込む。
エディアも慎重に井戸を覗き込んだが、中は真っ暗で、何も見えなかった。
「タマ吉、危ないよ。」
エディアが注意すると、タマ吉は彼女に対してそのまま井戸の縁から一歩離れ、静かに座り込んだ。
その様子にエディアは少し安心し、彼の側に座ってみた。
すると、タマ吉が小さな声で「ニャア」と鳴いて、まるで何かを伝えようとしているかのように、エディアに何度も目で合図を送る。
エディアはしばらく考え込んだが、突然、五秒先の未来を見ることができるタマ吉の予知能力のことを思い出した。
「何か…危ないことが起きるの?」
エディアが尋ねると、タマ吉は真剣な目つきでエディアを見つめ返した。
それから、彼は井戸の中を再び指差し、その指し示した方向を追ってエディアはもう一度井戸を覗き込んだ。
井戸の底からかすかに白い光が差し込んでいた。
普段なら気にもしなかったかもしれないが、タマ吉の真剣さにエディアは不安を感じた。
その時、タマ吉が少しだけ体を震わせたのを見て、エディアは心を決めた。
「何かが、あるんだね。私、見に行くよ。」
エディアがつぶやくと、タマ吉は少し心配そうに見つめたが、それでもエディアを止めようとはしなかった。
エディアは井戸の中にゆっくりと手を伸ばし、簡単な魔法で光を作り出して、井戸の底を照らした。
すると、そこに小さな石が浮かんでいるのが見えた。
エディアは注意深く石を拾い上げ、その表面に刻まれた奇妙な模様を見つけた。
「これって…何だろう?」
エディアは石を手に取って観察したが、その意味は全く分からなかった。
しかし、タマ吉はその石をじっと見つめて、何かを確信したように頷いた。
エディアが石を持ち上げると、突然、石が白く輝き始めた。そして、その光はタマ吉に向かって広がり、タマ吉はゆっくりとその光の中に包まれていった。
エディアは驚き、石を手放そうとしたが、石はすでにその役目を果たしていた。
タマ吉はその光の中で、人間のような形に変わり始めた。
そして、その中から現れたのは、一人の男の姿だった。
「ウエダ…ヤスオ?」
エディアは、タマ吉の人間としての姿を目の前にして、言葉を失った。
「そうだ、エディア。私はウエダヤスオ、もともとは異世界の人間だったんだ。」
ヤスオが静かに語り始めた。
「君たちと出会い、この世界で再び家族を持つことができた。だが、私の時間はもうあまり残されていないんだ。」
エディアは、タマ吉として過ごしてきた彼との思い出が一瞬で駆け巡った。
彼がいつも自分たちを守ってくれていたこと、そしてその理由がようやく分かったのだ。
「でも、どうして…どうして今まで黙っていたの?」
エディアは涙をこらえて尋ねた。
「君たちのことを守りたかったんだ。私がただの猫でいることで、君たちに迷惑をかけないように。」
ヤスオはエディアに優しく微笑んだ。
「でも、もう隠す必要はない。これからは、君たちと一緒にこの世界を守るために全力を尽くすよ。」
その言葉に、エディアはようやく納得し、彼を受け入れる気持ちになった。
ヤスオとしての彼の存在が、これからもエディアたちにとって大切な家族であることに変わりはないと感じたのだ。
タマ吉…いや、ウエダヤスオは再び黒猫の姿に戻り、エディアの膝に飛び乗った。
エディアはその柔らかい体を抱きしめ、心の中で彼に感謝した。
「ありがとう、タマ吉。これからも、ずっと一緒にいようね。」エディアがささやくと、タマ吉は静かに「ミャア」と鳴いて、その言葉に答えた。
エディアは、彼との新しい生活がどのようなものになるのかを楽しみにしながら、静かに井戸のそばを後にした。
黒と白の世界に、ほんの少しの暖かさが加わった瞬間だった。
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