川端康成の初恋運命のひと 伊藤初代 10年後の再会(2)
川嶋至の仮説
川嶋の所説の中心は、以下の点であった。
康成がはじめて伊豆に旅して踊子と旅をともにしたのは、1918(大正7)年の秋である。
一方、康成がみち子の不可解な翻意によって深く傷心したのは、3年後の1921(大正10)年の秋だ。
康成が、のちに「伊豆の踊子」となる踊子との旅を描いた草稿「湯ケ島での思ひ出」を書いたのは、1922(大正11)年の夏である。それは、みち子によって傷ついた自己の心を癒すことを目的に、いわば自然発生的に描かれたものであった。
その草稿に、4年も前の踊子の像よりも、つい最近のみち子の像が入りこんだのではあるまいか。
みち子との恋愛のはかなさを思うそうした日々に、川端氏の脳裏に去来したものは、寝顔の目尻にさしていた古風な紅も鮮かな、幼く氏 を慕ってくれた踊子の姿であったろう。四年前の踊子は、「湯ケ島での思ひ出」を書く川端氏の眼前に、一年前のみち子の面影を帯びて現 われたのである。四年前の、印象も薄れかけた踊子の姿を、失恋の記憶もなまなましいみち子の面影によって肉づけするということは、あ り得ないことではない。もしそうであったとすれば、川端氏にとって、「伊豆の踊子」は、古風な髪を結い、旅芸人姿に身をやつした、み ち子にほかならなかったのである。
川嶋はこの説の根拠に、大正12年1月14日、浅草の松竹館の前に立った康成が絵看板を見て愕然とした、あの日記を挙げた。
「漂泊の姉妹」のフィルム引伸しの看板の女優、みち子そつくりなり。みち子の他の誰なるや見当つかず。それに動かされ、伊豆の踊子 を思ひ、強ひて石濱(友人)を入らしむ。みち子に似し、娘旅芸人は栗島すみ子なり。14、5歳につくり、顔、胸、姿、動作、みち子と しか思へず。かつ旅を流れる芸人なり。胸切にふさがる。哀愁の情、浪漫的感情、涙こみあぐるを辛うじて堪ゆ。
この日記は「湯ケ島での思ひ出」の書かれた翌年のものであるが、日記である以上、純粋な体験による告白とみてよいであろう、として、川嶋は、ここではみち子像と「伊豆の踊子」像が康成の脳裏で一致した姿を現出している、と断定した。
さらに川嶋は、「伊豆の踊子」の最終部分と、「非常」の一節の似通った描写を挙げた。
「伊豆の踊子」の最終部分には、踊子と別れた「私」が、船中で、入学準備に東京へ行く河津の工場主の息子である少年から親切にされる場面がある。
「非常」にも、みち子の不可解な手紙を受け取った主人公が夜汽車に乗って岐阜へ行く途中、汽車のなかで、向かい合った学生から親切にされ、それに甘える場面がある。
これを川嶋は、「伊豆の踊子」の主人公と「みち子もの」の主人公が共通した心の動きを示す例として、次のように結論づけた。
こうしたことからも、「伊豆の踊子」が、4年前に出逢った記憶も薄れかけた踊子の姿を、1年前に別れていまだ印象も鮮かなみち子の 姿で補色し、氏のみち子に対する強い慕情を踊子に対する淡い恋心にすりかえるという作業を通して成立した作品であることは、ほぼ確実 であろう。
康成の反応
この仮説を読んだ康成は驚愕したらしい。そのとき雑誌『風景』に連載していたエッセイ『一草一花――「伊豆の踊子」の作者――』に、その驚きを率直に表明した。
作者の私には、この「仮説」は思ひがけないものであつた。あるひは、気がつかないことであつた。「伊豆の踊子」の面影に「みち子」の面影を重ねることなど、まったく作者の意識にはなかつた。踊子と「みち子」とのちがひは、まだ20代の私の記憶で明らかだつたし、踊子を書く時に「みち子」は私に浮かんで来なかつた。しかし、「伊豆の踊子」の草稿である「湯ケ島での思ひ出」を書いた、大正11年、23歳(数え)の私は、恋愛(ではないやうな婚約)の「破局」の前後だから、相手の娘は強く心にあった。(中略)これは(注、受験生のこと)2つとも事実あつた通りなので、いはば人生の「非常」の時に、2度、偶然の乗合客の受験生が、私をいたはつてくれたのは、いつたいどういふことなのだらうか、と私は考へさせられるのである。ふしぎである。
(「一草一花」13、1968・5・1)
川嶋の説に対して、珍しく康成は反論を加えている。自作を解説することは、自作を狭めることだというのが持論の康成には、珍しいことであった。
このような論や調査によって、伊藤初代の全体像は、かなり明らかになったといえる。しかし、それは初代との別れがどれほど深い傷跡を康成に残したか、が中心であった。
初代との再会
川嶋至の仮説は、「伊豆の踊子」にとどまらなかった。
『川端康成の世界』の第五章「ひとつの断層―みち子像の変貌と『禽獣』の周辺―」において、初代と康成がその後、再会したことを述べ、そのとき康成の感じた深い幻滅が、康成の人間観、文学観に大きな影響を与え、それが作風に根源的な変化をもたらした、と詳細に論じた。
そののち、川嶋はさらに、初代がのちにつとめた浅草のカフェ・聚楽(じゅらく)に、同じ時期、新人作家であった窪川いね子(のちの佐多稲子)が女給としてつとめ、そのカフェの内幕を「レストラン・洛陽」(『文藝春秋』昭和4年・9・1)に描いて発表したとの情報を得て、「レストラン洛陽」を読み、それについての論考を発表した。
「『レストラン洛陽』の夏江」(『北方文芸』1970・6・1、のち『美神の叛逆』北洋社、1972・10・20に収録)がそれである。
そのなかで川嶋は、佐多稲子自身が、文壇に出発して間もないころ、その作品を川端康成が文芸時評で賞讃してくれ、そのおかげで作家として立つ自信が出来たと述べている、とも明かした。
しかしこのとき、川嶋は、康成のその文芸時評を手にすることはできなかった。まだ今日のような整備された37巻本全集もなく、基礎研究がそのあたりに及んでいなかったからである。
しかし川嶋は、かなり詳細にこの作品の内容を語り、初代の最初の結婚生活が初代にどのような結果をもたらしたかを、窪川いね子の作品から抜き出して、説明している。
だがこれについて語る前に、康成と伊藤初代の再会が、どのように果たされたのかを、明らかにする必要があるだろう。
川嶋至の仮説
川嶋の所説の中心は、以下の点であった。
康成がはじめて伊豆に旅して踊子と旅をともにしたのは、1918(大正7)年の秋である。
一方、康成がみち子の不可解な翻意によって深く傷心したのは、3年後の1921(大正10)年の秋だ。
康成が、のちに「伊豆の踊子」となる踊子との旅を描いた草稿「湯ケ島での思ひ出」を書いたのは、1922(大正11)年の夏である。それは、みち子によって傷ついた自己の心を癒すことを目的に、いわば自然発生的に描かれたものであった。
その草稿に、4年も前の踊子の像よりも、つい最近のみち子の像が入りこんだのではあるまいか。
みち子との恋愛のはかなさを思うそうした日々に、川端氏の脳裏に去来したものは、寝顔の目尻にさしていた古風な紅も鮮かな、幼く氏 を慕ってくれた踊子の姿であったろう。四年前の踊子は、「湯ケ島での思ひ出」を書く川端氏の眼前に、一年前のみち子の面影を帯びて現 われたのである。四年前の、印象も薄れかけた踊子の姿を、失恋の記憶もなまなましいみち子の面影によって肉づけするということは、あ り得ないことではない。もしそうであったとすれば、川端氏にとって、「伊豆の踊子」は、古風な髪を結い、旅芸人姿に身をやつした、み ち子にほかならなかったのである。
川嶋はこの説の根拠に、大正12年1月14日、浅草の松竹館の前に立った康成が絵看板を見て愕然とした、あの日記を挙げた。
「漂泊の姉妹」のフィルム引伸しの看板の女優、みち子そつくりなり。みち子の他の誰なるや見当つかず。それに動かされ、伊豆の踊子 を思ひ、強ひて石濱(友人)を入らしむ。みち子に似し、娘旅芸人は栗島すみ子なり。14、5歳につくり、顔、胸、姿、動作、みち子と しか思へず。かつ旅を流れる芸人なり。胸切にふさがる。哀愁の情、浪漫的感情、涙こみあぐるを辛うじて堪ゆ。
この日記は「湯ケ島での思ひ出」の書かれた翌年のものであるが、日記である以上、純粋な体験による告白とみてよいであろう、として、川嶋は、ここではみち子像と「伊豆の踊子」像が康成の脳裏で一致した姿を現出している、と断定した。
さらに川嶋は、「伊豆の踊子」の最終部分と、「非常」の一節の似通った描写を挙げた。
「伊豆の踊子」の最終部分には、踊子と別れた「私」が、船中で、入学準備に東京へ行く河津の工場主の息子である少年から親切にされる場面がある。
「非常」にも、みち子の不可解な手紙を受け取った主人公が夜汽車に乗って岐阜へ行く途中、汽車のなかで、向かい合った学生から親切にされ、それに甘える場面がある。
これを川嶋は、「伊豆の踊子」の主人公と「みち子もの」の主人公が共通した心の動きを示す例として、次のように結論づけた。
こうしたことからも、「伊豆の踊子」が、4年前に出逢った記憶も薄れかけた踊子の姿を、1年前に別れていまだ印象も鮮かなみち子の 姿で補色し、氏のみち子に対する強い慕情を踊子に対する淡い恋心にすりかえるという作業を通して成立した作品であることは、ほぼ確実 であろう。
康成の反応
この仮説を読んだ康成は驚愕したらしい。そのとき雑誌『風景』に連載していたエッセイ『一草一花――「伊豆の踊子」の作者――』に、その驚きを率直に表明した。
作者の私には、この「仮説」は思ひがけないものであつた。あるひは、気がつかないことであつた。「伊豆の踊子」の面影に「みち子」の面影を重ねることなど、まったく作者の意識にはなかつた。踊子と「みち子」とのちがひは、まだ20代の私の記憶で明らかだつたし、踊子を書く時に「みち子」は私に浮かんで来なかつた。しかし、「伊豆の踊子」の草稿である「湯ケ島での思ひ出」を書いた、大正11年、23歳(数え)の私は、恋愛(ではないやうな婚約)の「破局」の前後だから、相手の娘は強く心にあった。(中略)これは(注、受験生のこと)2つとも事実あつた通りなので、いはば人生の「非常」の時に、2度、偶然の乗合客の受験生が、私をいたはつてくれたのは、いつたいどういふことなのだらうか、と私は考へさせられるのである。ふしぎである。
(「一草一花」13、1968・5・1)
川嶋の説に対して、珍しく康成は反論を加えている。自作を解説することは、自作を狭めることだというのが持論の康成には、珍しいことであった。
このような論や調査によって、伊藤初代の全体像は、かなり明らかになったといえる。しかし、それは初代との別れがどれほど深い傷跡を康成に残したか、が中心であった。
初代との再会
川嶋至の仮説は、「伊豆の踊子」にとどまらなかった。
『川端康成の世界』の第五章「ひとつの断層―みち子像の変貌と『禽獣』の周辺―」において、初代と康成がその後、再会したことを述べ、そのとき康成の感じた深い幻滅が、康成の人間観、文学観に大きな影響を与え、それが作風に根源的な変化をもたらした、と詳細に論じた。
そののち、川嶋はさらに、初代がのちにつとめた浅草のカフェ・聚楽(じゅらく)に、同じ時期、新人作家であった窪川いね子(のちの佐多稲子)が女給としてつとめ、そのカフェの内幕を「レストラン・洛陽」(『文藝春秋』昭和4年・9・1)に描いて発表したとの情報を得て、「レストラン洛陽」を読み、それについての論考を発表した。
「『レストラン洛陽』の夏江」(『北方文芸』1970・6・1、のち『美神の叛逆』北洋社、1972・10・20に収録)がそれである。
そのなかで川嶋は、佐多稲子自身が、文壇に出発して間もないころ、その作品を川端康成が文芸時評で賞讃してくれ、そのおかげで作家として立つ自信が出来たと述べている、とも明かした。
しかしこのとき、川嶋は、康成のその文芸時評を手にすることはできなかった。まだ今日のような整備された37巻本全集もなく、基礎研究がそのあたりに及んでいなかったからである。
しかし川嶋は、かなり詳細にこの作品の内容を語り、初代の最初の結婚生活が初代にどのような結果をもたらしたかを、窪川いね子の作品から抜き出して、説明している。
だがこれについて語る前に、康成と伊藤初代の再会が、どのように果たされたのかを、明らかにする必要があるだろう。
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