魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

川端康成の恋 伊藤初代の死(1)

2014-09-12 23:54:01 | 論文 川端康成
川端康成の恋 伊藤初代の死(1)

「眠れる美女」で見たように、川端康成の〈魔界〉文学は、次第に衰微の色をおびはじめていた。
 その数年後、康成は『週刊朝日』に、沈痛な文章を寄せた。


「水郷」の懐旧

 康成に「水郷」という文章のあることは、椿八郎『「南方の火」のころ』を、図書館相互貸借制度によって、姫路市立城内図書館に取り寄せていただいた時に知った。
 椿八郎は、最近康成にこの文章のあることを知ったのだが、と断った上で、「水郷」の末尾で告げられた、伊藤初代の死について述べていたのである。
 それは『週刊朝日』(昭和40年7月2日)の「新日本名所案内62 水郷」という文章である。シリーズだが、戦時下の康成に「土の子等」という千葉県印旛郡本埜村周辺のルポルタージュのあったことを知って、千葉県の水郷を、康成に依頼したのであろうか。あるいは康成の鹿屋航空基地体験から、霞ヶ浦の航空隊を連想しての依頼であったのだろうか。
 「「船頭小唄」に歌われた水の風景に昔の恋人を追憶し特攻隊をしのぶ」と、リードの部分に紹介されている。

   水郷佐原市、観光ホテルの離れで、これを書く。――裏窓からよしきりの鳴きしきるのが聞えてゐる。鳴くといふよりも、さへづりと言ひたいやうな鳴き方が、絶え間なくつづいてゐる。

 と始まる紀行文だが、文頭からどこか沈痛なひびきがある。
 霞ヶ浦から利根川へ連なるあたりに水郷があると記しながら、謡曲『桜川』の哀話を語ったり、筑波山のありかを探したりしているが、主題は、次の一節から始まる。

   今井正監督の映画「米」の、美しい帆船の群れの画面を、私はカンヌ映画祭で、日本出品作として見た。それはこの霞ヶ浦の帆引き網の帆ださうである。水郷の映画は少くないやうだが、私になつかしくて忘れられないのは、栗島すみ子(現在は水木  流の家元、当時、松竹蒲田撮影所の大女優)が主演の「船頭小唄」と「水藻(みずも)の花」である。
  「船頭小唄」はもちろん、野口雨情の歌の流行につれて作られたものであつた。「水藻の花」は「船頭小唄」を追つて出来た、小さい映画であつた。40年あまり前の映画である。

 康成は、つづけて書く。次第に核心に迫ってゆく。


「水藻の花」の栗島すみ子

   栗島すみ子がおそらく20ころであつたらう。私は浅草で見た。私は22,23で、本郷の大学生であつた。大正の終りであつた。「おれは河原の枯れすすき、同じおまへも枯れすすき……おれもお前も利根川の、船の船頭で暮らさうよ。」の「船頭小唄」は、歌詞も曲もよく出来てゐて、今もをりをり唄はれ、流行歌の歴史からははづせない。

   「枯れた真菰に照らしてる、潮来(いたこ)出島のお月さん。」などの句もある。そのころの世情人心に訴へるものがあつて、あんなに唄はれたと言ふ人もある。佐原で與倉(よくら)芸座連の人たちに聞かせてもらつた「佐原ばやし」は、もちろん祭ばやしなのだが、それにまで「船頭小唄」が演奏されて、私はおどろいたものであつた。

   しかし、私が40幾年前の映画をおぼえてゐるのには、私ひとりのわけがある。21の私は14の少女と結婚の約束をして、たちまちわけなくやぶれ、私の傷心は深かつた。関東大震災にも、私はその少女の安否を気づかつて、「焼け野原」の東京をさまよつた。(つづく)



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