新しい〈美神〉 「故園」と「天授の子」(2)
私の一生ありがたい記憶
5つの年から母親ひとりに育てられて来た子供が、その母親と別れて、私共の子供になつてもいいと、子供自身でもきめたといふ幼い心は、たとひ将来私共と子供とのあひだがどう悪くならうとも、私はそれを越えて、感謝することを忘れまいが、その子供の心が初めて激しくあらはに、私のふところへ飛びこんで来たのは、この時だつた。
私共が2時間以上も約束におくれたことが、私の一生ありがたい記憶をつくることになつたのは、子供にはかはいさうなことだつた。私の子供にならうといふのは、幼い心にも、さうなまやさしいものでないのが、この時から私にも確められ出した。
この引用文の中にも明かされているように、女の子は、5つの年から、母親がひとりで育ててきたのである。その女の子が、これまで2人きりで過ごしてきた母親と別れて、康成とその妻の子供になろうと、自分で決心したのだ。その幼い心の決断を、一生自分は「感謝することを忘れまい」と康成は思い、またこの思いがけない少女の一途な行為を「私の一生ありがたい記憶」というのである。
作品の背景
ここに登場する女の子は、まことにあっけなく、スムーズに康成夫妻の養女となって鎌倉の家に来ることになる。
女の子の名は、政子(のち、いずれの時点でか、おそらく戸籍名はそのままで、通称を麻紗子〈まさこ〉と改名する)。実父は、康成の母方の従兄(いとこ)・黒田秀孝。実母は、秀孝の妻であった富江(旧姓権野)である。
祖父・三八郎が死んだあと、家庭を失った康成が身を寄せたのは、母の実兄・黒田秀太郎の淀川べりの家であった。その長男である秀孝は、康成の従兄であるが、年齢も近く、肝胆(かんたん)相照らす仲となった。
川端秀子『川端康成とともに』の「川端家の人びと」によると、秀孝は、富江と結婚しても「女性のことで家を明けることが多く、昭和10年頃から奥様の富江さんは3女だけを連れて別居してしまいました。この子が3歳の時です」という事実があった。
夫婦の間には和子、昭子、政子と、3人の女の子があったが、富江はいちばん末の政子を連れて家を出た。「故園」で康成は、1943(昭和18)年の時点で、政子を「12歳」と書いている。数えであろう。また秀子夫人は、満年齢で書いているのではあるまいか。1935(昭和一〇)年ごろに3歳とあるから、政子は1942(昭和7)年ごろの出生と推定される。のちの記述から考え合わせると、国民学校の4年生か5年生であった。
康成は、政子を養女に出したあとの、母富江の今後が気がかりで、その実兄(小寺勝雅)と会って相談したことが「故園」には出てくる。実の父親である秀孝を後まわしにしたのは、自分と秀孝の仲であるから、「政子さんを養女にくれ」と言えば、たやすく認められるという安心感があったからという。
3代つづいて女が入る
ところで、この黒田家から川端家には、まず康成の祖母かねが入って三八郎の妻となり、つづいて母ゲンが栄吉の妻となって入った(正確にいうと、ゲンは最初、三八郎の先妻の子・恒太郎の妻に入ったのだが、恒太郎が早世したので、ついで栄吉と妻となったのである)。だから政子が養女になることは、「女が3代続いて、私の家へ入る」ことになるのだった。
だから、自然な流れになると、康成は書く。
また、政子の母富江の立場からしても、以下のような事情になる。
この末子を一人連れて婚家を出てから後に、自分だけ籍を戻されてゐるので、子供が生ひ立つにつれて、父親の方から返せと言ひ出しさうな不安もないではなく、ひとりで育てたのだから痛切に自分の子でありながら、いざといふ場合の親権は持たなかつた。さうして、子供の行末を思ふ時に、子供の血のつながりから言つても、先づ私(康成)のことが頭に浮ぶのは、自然だつた。
これを踏まえて、康成は次のように考える。
母親が長年苦労してゐたあひだにも、私は手紙1本出さなかつたやうな始末なのに、母親は私に好意と信頼とを持ち続けてゐてくれて、それがこんどの子供のことに実を結んだのは無論で、私はなによりも、人の善意の長い流れが、ここにたどり着いたのを思ふのだつた。
私の一生ありがたい記憶
5つの年から母親ひとりに育てられて来た子供が、その母親と別れて、私共の子供になつてもいいと、子供自身でもきめたといふ幼い心は、たとひ将来私共と子供とのあひだがどう悪くならうとも、私はそれを越えて、感謝することを忘れまいが、その子供の心が初めて激しくあらはに、私のふところへ飛びこんで来たのは、この時だつた。
私共が2時間以上も約束におくれたことが、私の一生ありがたい記憶をつくることになつたのは、子供にはかはいさうなことだつた。私の子供にならうといふのは、幼い心にも、さうなまやさしいものでないのが、この時から私にも確められ出した。
この引用文の中にも明かされているように、女の子は、5つの年から、母親がひとりで育ててきたのである。その女の子が、これまで2人きりで過ごしてきた母親と別れて、康成とその妻の子供になろうと、自分で決心したのだ。その幼い心の決断を、一生自分は「感謝することを忘れまい」と康成は思い、またこの思いがけない少女の一途な行為を「私の一生ありがたい記憶」というのである。
作品の背景
ここに登場する女の子は、まことにあっけなく、スムーズに康成夫妻の養女となって鎌倉の家に来ることになる。
女の子の名は、政子(のち、いずれの時点でか、おそらく戸籍名はそのままで、通称を麻紗子〈まさこ〉と改名する)。実父は、康成の母方の従兄(いとこ)・黒田秀孝。実母は、秀孝の妻であった富江(旧姓権野)である。
祖父・三八郎が死んだあと、家庭を失った康成が身を寄せたのは、母の実兄・黒田秀太郎の淀川べりの家であった。その長男である秀孝は、康成の従兄であるが、年齢も近く、肝胆(かんたん)相照らす仲となった。
川端秀子『川端康成とともに』の「川端家の人びと」によると、秀孝は、富江と結婚しても「女性のことで家を明けることが多く、昭和10年頃から奥様の富江さんは3女だけを連れて別居してしまいました。この子が3歳の時です」という事実があった。
夫婦の間には和子、昭子、政子と、3人の女の子があったが、富江はいちばん末の政子を連れて家を出た。「故園」で康成は、1943(昭和18)年の時点で、政子を「12歳」と書いている。数えであろう。また秀子夫人は、満年齢で書いているのではあるまいか。1935(昭和一〇)年ごろに3歳とあるから、政子は1942(昭和7)年ごろの出生と推定される。のちの記述から考え合わせると、国民学校の4年生か5年生であった。
康成は、政子を養女に出したあとの、母富江の今後が気がかりで、その実兄(小寺勝雅)と会って相談したことが「故園」には出てくる。実の父親である秀孝を後まわしにしたのは、自分と秀孝の仲であるから、「政子さんを養女にくれ」と言えば、たやすく認められるという安心感があったからという。
3代つづいて女が入る
ところで、この黒田家から川端家には、まず康成の祖母かねが入って三八郎の妻となり、つづいて母ゲンが栄吉の妻となって入った(正確にいうと、ゲンは最初、三八郎の先妻の子・恒太郎の妻に入ったのだが、恒太郎が早世したので、ついで栄吉と妻となったのである)。だから政子が養女になることは、「女が3代続いて、私の家へ入る」ことになるのだった。
だから、自然な流れになると、康成は書く。
また、政子の母富江の立場からしても、以下のような事情になる。
この末子を一人連れて婚家を出てから後に、自分だけ籍を戻されてゐるので、子供が生ひ立つにつれて、父親の方から返せと言ひ出しさうな不安もないではなく、ひとりで育てたのだから痛切に自分の子でありながら、いざといふ場合の親権は持たなかつた。さうして、子供の行末を思ふ時に、子供の血のつながりから言つても、先づ私(康成)のことが頭に浮ぶのは、自然だつた。
これを踏まえて、康成は次のように考える。
母親が長年苦労してゐたあひだにも、私は手紙1本出さなかつたやうな始末なのに、母親は私に好意と信頼とを持ち続けてゐてくれて、それがこんどの子供のことに実を結んだのは無論で、私はなによりも、人の善意の長い流れが、ここにたどり着いたのを思ふのだつた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます