戦後の出発 自己変革の時代 その1
第1節 「再会」と「生命の樹(いのちのき)」
創作の再開
戦争末期の昭和20年に、康成は小説を2編しか発表しなかった。1月に発表した「故園」最終回〈未完〉と、4月に発表した「冬の曲」(『文藝』)だけである。
戦争の終わった8月以降も、作品は発表していない。文芸雑誌が壊滅状態という事情もあった。出版社鎌倉文庫設立のために奔走していたこともある。
それが1946(昭和21)年に入ると、堰を切ったように、小説を発表しはじめる。
戦争終結によって心の重圧が除かれたせいであろうか、戦後の旺盛な創作欲を予感させる作品を書きつづけてゆく。
1月には、みずから創刊した雑誌『人間』に、短編「女の手」を発表した。
この作品は、北川という初老の男が、戦争中に没した恩師の未亡人を見舞う、という結構をもつ。
まだ創作の勘が戻っていないのか、凡庸な作と評価するしかないが、生前の先生を最後に訪ねたとき、北川の妻仙子が老いた先生の手を引いたこと、先生の葬儀のとき、未亡人を仙子の手が支えたこと、そして戦後の今、信州から東京に戻ってきて畑仕事をしている未亡人の手……というように、「女の手」のもつ不思議な縁が描かれている。
もう1つの特徴は、作品に、くっきりと戦争中と戦後の世相が描きこまれていることだ。
康成はまもなく、自分は「戦後の世相なるもの、風俗なるもの」を信じない、と覚悟のほどを宣言するが、それは、進駐軍という名の占領軍に踏み荒らされた日本を受け入れない、敗戦によって本来の伝統的な心情を忘れた人々の姿を受け入れない、という表明であって、康成が戦後の世相風俗に無関心であったわけではない。
むしろ貪婪に眼をみひらいて、戦後の現実を凝視したのである。
もう1つ印象的なのは、主人公北川が「戦争中から続いて宗祇を書いてをります」と未亡人に告げる部分である。すぐあとには、義尚将軍も登場する。すなわち、戦時下にあれほど没頭した宗祇や義尚の人間像は、戦後になっても、康成の心につよく揺曳(ようえい)しているのである。
「感傷の塔」
同1月に、康成は『世界文化』創刊号に「感傷の塔」という短篇も発表している。
これは、作家である「私」が、以前から時々手紙をくれた若い女性ファンへの返書という形式で、その他の女性たちを含めた、ここ数年間の日本の女たちの有為転変を描いた作品である。
手紙の対象である藍子が山口市に住んでいることから、大内氏の築いた瑠璃光寺の五重塔を、題名としたものだろう。
ここには、戦争中に結婚し、あるいはその夫に戦死された女性たちの消息が点綴(てんてつ)されている。たとえば藍子(あいこ)は、戦争の初めに結婚して、妻となり母となったが、夫の海軍大尉が昭和20年3月末、九州東方海面で戦死して、未亡人となっているのである。これを受けて「戦が終りました時に、私の生涯も終つたと、私は感じました」と、「私」は現在の心境を語っている。
同胞とともに戦へませんでした私はただ戦ふ同胞を昔ながらのあはれと思ふことで戦の下に生きてまゐりましたが、今、戦(いくさ)敗れた同胞にそのあはれが極まりまして昔なら出家するところでありませう。
これは、「島木健作追悼」に述べた心境と同じである。康成の当時の心のうちを率直に作品に吐露したとも考えられるし、一方、太平洋戦争の数年間に日本の女性たちを襲った運命の激変への心痛をも語った1節と思われる。
「感傷の塔」は、そのような戦争直後の康成の心境を語った作品である。
戦後文学の出発「再会」
1946年の『世界』2月号に、康成は「再会」という注目すべき作品を掲載した。つづいて『文藝春秋』6月号に、「過去」という題名で続編が発表され、同誌のつづく7月号に、ふたたび「過去」という同名の作品が発表された。
この三編は1953(昭和28)年2月10日、三笠書房から刊行された『再婚者』に、「再会」と命名されて、収録された。
ただし、このとき、2月号と7月号の2編は採録されたものの、6月号発表の第2回め(「過去」の初めのもの)は削除された。以後、この『再婚者』所収の本文が諸全集に定本として収録されている。本稿でも、この本文をもとに考察を加えることとする。
「再会」は、このように書き出される。
敗戦後の厚木祐三の生活は富士子との再会から始まりさうだ。あるひは、富士子と再会したと言ふよりも、祐三自身と再会したと言ふべきかもしれなかつた。
祐三の富士子との再会を、康成は冒頭から、祐三は「自身と再会した」と述べている。ここに、この作品の主題は凝縮されている。
「ああ、生きてゐたと、祐三は富士子を見て驚きに打たれた。それは歓びも悲しみもまじへない単純な驚きだつた」と康成は書く。
「祐三は過去に出会つたのだ」「眼前で過去が現在へつながつたことに祐三は驚いたのだつた」とも書いている。
今の祐三の場合の過去と現在との間には、戦争があつた。
祐三の迂闊な驚きも無論戦争のせゐにちがひなかつた。
戦争に埋没してゐたものが復活した驚愕とも言へるだらう。
あの殺戮(さつりく)と破壊の怒濤(どとう)が、しかし微小な男女間の瑣事を消滅し得なかつたのだ。
祐三と富士子は、戦争前に男女の仲であった。それが戦争の間におそらく自然に別れ、それぞれの生活に埋没して、相手のことをほとんど忘れていたのである。
それほどに戦争の暴威はすさまじかった。「あの殺戮と破壊の怒濤」の数年間が、男女の仲を裂いたどころか、相手を忘れるほどまでに、それを「過去」のこととしていたのだ。
それが一瞬に、眼前で「過去が現在へつながつた」。そのことに祐三は驚く。
ふたりが再会したのは、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の境内である。降伏からまだ2ヶ月余りの、「多くの人々は国家と個人の過去と現在と未来とが解体して錯乱する渦巻に溺れてゐるやうな時」である。
実朝(さねとも)の文事から発想されたらしい「文墨祭」が催されて、進駐軍も招待されている。
人々はまだ空襲下の、戦災者の服装から脱していない。そこへ、振り袖の令嬢の一群が現れて、祐三は眼の覚める思いをしたところだった。木立の中に茶席をもうけて、アメリカ兵を接待するための少女たちである。
やがて社の舞殿で踊りが始まる。
浦安の舞、獅子舞、静(しづか)の舞、元禄花見踊――亡び去った日本の姿が笛の音のように祐三の胸を流れた。令嬢たちの振り袖が「泥沼の花」のように見えた。
その舞姿を目で追っている祐三の視線が、ふと富士子の顔を認めたのだ。
おやと驚くと祐三はかへつて瞬間ぼんやりした。こいつを見てゐるとつまらないことになるぞと内心警戒しながら、しかも相手の富士子が生きた人間とも自分に害を及ぼす物とも感じられなくて、直ぐには目をそむけようとしなかつた。
無意識のうちに女との再会を警戒する祐三は、もはや人生の辛酸をある程度経験している中年の男である。40を1つ2つ過ぎた年齢だ。しかも祐三は心の隙に、「なにか肉体的な温かさ、自分の一部に出会つたやうな親しさが、生き生きとこみあげて」きて、それが警戒心を上回るのである。
祐三は失心しさうな人を呼びさますやうな気組で、いきなり富士子の背に手をおいた。
「ああ。」
富士子はゆつくり倒れかかつて来さうに見えて、しやんと立つと、體のびりびり顫(ふる)へるのが、祐三の腕に伝はつた。
なまなましい再会である。この再会の危険と魅惑を、康成は次のように書く。
この女と祐三が再会すれば道徳上の問題や実生活の面倒がむし返されるはずで、言はば好んで腐れ縁につかまるのだから、さつきも警戒心がひらめいたのだが、ひよつと溝を飛び越えるやうに、富士子を拾つてしまつた。
当然ながら、祐三には妻と家族があった。富士子はひとり身であった。再会すれば「道徳上の問題」「実生活の面倒」がむし返されることになる「腐れ縁」である。それを無意識のうちに認めながら、祐三は富士子を拾ってしまった。
ふたりは、戦争の間の消息を、お互いに探り合う。どちらも家を焼かれ、あるいは焼け出されていた。
第1節 「再会」と「生命の樹(いのちのき)」
創作の再開
戦争末期の昭和20年に、康成は小説を2編しか発表しなかった。1月に発表した「故園」最終回〈未完〉と、4月に発表した「冬の曲」(『文藝』)だけである。
戦争の終わった8月以降も、作品は発表していない。文芸雑誌が壊滅状態という事情もあった。出版社鎌倉文庫設立のために奔走していたこともある。
それが1946(昭和21)年に入ると、堰を切ったように、小説を発表しはじめる。
戦争終結によって心の重圧が除かれたせいであろうか、戦後の旺盛な創作欲を予感させる作品を書きつづけてゆく。
1月には、みずから創刊した雑誌『人間』に、短編「女の手」を発表した。
この作品は、北川という初老の男が、戦争中に没した恩師の未亡人を見舞う、という結構をもつ。
まだ創作の勘が戻っていないのか、凡庸な作と評価するしかないが、生前の先生を最後に訪ねたとき、北川の妻仙子が老いた先生の手を引いたこと、先生の葬儀のとき、未亡人を仙子の手が支えたこと、そして戦後の今、信州から東京に戻ってきて畑仕事をしている未亡人の手……というように、「女の手」のもつ不思議な縁が描かれている。
もう1つの特徴は、作品に、くっきりと戦争中と戦後の世相が描きこまれていることだ。
康成はまもなく、自分は「戦後の世相なるもの、風俗なるもの」を信じない、と覚悟のほどを宣言するが、それは、進駐軍という名の占領軍に踏み荒らされた日本を受け入れない、敗戦によって本来の伝統的な心情を忘れた人々の姿を受け入れない、という表明であって、康成が戦後の世相風俗に無関心であったわけではない。
むしろ貪婪に眼をみひらいて、戦後の現実を凝視したのである。
もう1つ印象的なのは、主人公北川が「戦争中から続いて宗祇を書いてをります」と未亡人に告げる部分である。すぐあとには、義尚将軍も登場する。すなわち、戦時下にあれほど没頭した宗祇や義尚の人間像は、戦後になっても、康成の心につよく揺曳(ようえい)しているのである。
「感傷の塔」
同1月に、康成は『世界文化』創刊号に「感傷の塔」という短篇も発表している。
これは、作家である「私」が、以前から時々手紙をくれた若い女性ファンへの返書という形式で、その他の女性たちを含めた、ここ数年間の日本の女たちの有為転変を描いた作品である。
手紙の対象である藍子が山口市に住んでいることから、大内氏の築いた瑠璃光寺の五重塔を、題名としたものだろう。
ここには、戦争中に結婚し、あるいはその夫に戦死された女性たちの消息が点綴(てんてつ)されている。たとえば藍子(あいこ)は、戦争の初めに結婚して、妻となり母となったが、夫の海軍大尉が昭和20年3月末、九州東方海面で戦死して、未亡人となっているのである。これを受けて「戦が終りました時に、私の生涯も終つたと、私は感じました」と、「私」は現在の心境を語っている。
同胞とともに戦へませんでした私はただ戦ふ同胞を昔ながらのあはれと思ふことで戦の下に生きてまゐりましたが、今、戦(いくさ)敗れた同胞にそのあはれが極まりまして昔なら出家するところでありませう。
これは、「島木健作追悼」に述べた心境と同じである。康成の当時の心のうちを率直に作品に吐露したとも考えられるし、一方、太平洋戦争の数年間に日本の女性たちを襲った運命の激変への心痛をも語った1節と思われる。
「感傷の塔」は、そのような戦争直後の康成の心境を語った作品である。
戦後文学の出発「再会」
1946年の『世界』2月号に、康成は「再会」という注目すべき作品を掲載した。つづいて『文藝春秋』6月号に、「過去」という題名で続編が発表され、同誌のつづく7月号に、ふたたび「過去」という同名の作品が発表された。
この三編は1953(昭和28)年2月10日、三笠書房から刊行された『再婚者』に、「再会」と命名されて、収録された。
ただし、このとき、2月号と7月号の2編は採録されたものの、6月号発表の第2回め(「過去」の初めのもの)は削除された。以後、この『再婚者』所収の本文が諸全集に定本として収録されている。本稿でも、この本文をもとに考察を加えることとする。
「再会」は、このように書き出される。
敗戦後の厚木祐三の生活は富士子との再会から始まりさうだ。あるひは、富士子と再会したと言ふよりも、祐三自身と再会したと言ふべきかもしれなかつた。
祐三の富士子との再会を、康成は冒頭から、祐三は「自身と再会した」と述べている。ここに、この作品の主題は凝縮されている。
「ああ、生きてゐたと、祐三は富士子を見て驚きに打たれた。それは歓びも悲しみもまじへない単純な驚きだつた」と康成は書く。
「祐三は過去に出会つたのだ」「眼前で過去が現在へつながつたことに祐三は驚いたのだつた」とも書いている。
今の祐三の場合の過去と現在との間には、戦争があつた。
祐三の迂闊な驚きも無論戦争のせゐにちがひなかつた。
戦争に埋没してゐたものが復活した驚愕とも言へるだらう。
あの殺戮(さつりく)と破壊の怒濤(どとう)が、しかし微小な男女間の瑣事を消滅し得なかつたのだ。
祐三と富士子は、戦争前に男女の仲であった。それが戦争の間におそらく自然に別れ、それぞれの生活に埋没して、相手のことをほとんど忘れていたのである。
それほどに戦争の暴威はすさまじかった。「あの殺戮と破壊の怒濤」の数年間が、男女の仲を裂いたどころか、相手を忘れるほどまでに、それを「過去」のこととしていたのだ。
それが一瞬に、眼前で「過去が現在へつながつた」。そのことに祐三は驚く。
ふたりが再会したのは、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の境内である。降伏からまだ2ヶ月余りの、「多くの人々は国家と個人の過去と現在と未来とが解体して錯乱する渦巻に溺れてゐるやうな時」である。
実朝(さねとも)の文事から発想されたらしい「文墨祭」が催されて、進駐軍も招待されている。
人々はまだ空襲下の、戦災者の服装から脱していない。そこへ、振り袖の令嬢の一群が現れて、祐三は眼の覚める思いをしたところだった。木立の中に茶席をもうけて、アメリカ兵を接待するための少女たちである。
やがて社の舞殿で踊りが始まる。
浦安の舞、獅子舞、静(しづか)の舞、元禄花見踊――亡び去った日本の姿が笛の音のように祐三の胸を流れた。令嬢たちの振り袖が「泥沼の花」のように見えた。
その舞姿を目で追っている祐三の視線が、ふと富士子の顔を認めたのだ。
おやと驚くと祐三はかへつて瞬間ぼんやりした。こいつを見てゐるとつまらないことになるぞと内心警戒しながら、しかも相手の富士子が生きた人間とも自分に害を及ぼす物とも感じられなくて、直ぐには目をそむけようとしなかつた。
無意識のうちに女との再会を警戒する祐三は、もはや人生の辛酸をある程度経験している中年の男である。40を1つ2つ過ぎた年齢だ。しかも祐三は心の隙に、「なにか肉体的な温かさ、自分の一部に出会つたやうな親しさが、生き生きとこみあげて」きて、それが警戒心を上回るのである。
祐三は失心しさうな人を呼びさますやうな気組で、いきなり富士子の背に手をおいた。
「ああ。」
富士子はゆつくり倒れかかつて来さうに見えて、しやんと立つと、體のびりびり顫(ふる)へるのが、祐三の腕に伝はつた。
なまなましい再会である。この再会の危険と魅惑を、康成は次のように書く。
この女と祐三が再会すれば道徳上の問題や実生活の面倒がむし返されるはずで、言はば好んで腐れ縁につかまるのだから、さつきも警戒心がひらめいたのだが、ひよつと溝を飛び越えるやうに、富士子を拾つてしまつた。
当然ながら、祐三には妻と家族があった。富士子はひとり身であった。再会すれば「道徳上の問題」「実生活の面倒」がむし返されることになる「腐れ縁」である。それを無意識のうちに認めながら、祐三は富士子を拾ってしまった。
ふたりは、戦争の間の消息を、お互いに探り合う。どちらも家を焼かれ、あるいは焼け出されていた。
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