ニセコのダチョウ牧場(第2有島だちょう牧場)

ダチョウの孵化から解体まで行い、命を頂く事、牧場を営む事で得た、学びや気づきを記録しています。

希望の子

2020年06月18日 | 命を頂く事について
卵の中でゆっくりと、でも着実に育つダチョウの有精卵たち








今の私は、生命力を振り絞って、生まれようとする子達を見守るしかできません。
卵の中で力尽きる子も多いです。
そこに命が有った事、頑張って死んでいった事を私しか知らない子達。
卵を使ったお菓子を作っているので、とても矛盾しているようですが、悲しむ自分がいます。この感情を昔はムリに押し込めていましたが、今ではあるがままに受け入れられるようになりました。悲しいものは悲しい。つらいことはつらい。
それでもこの営みを続けていこうと思っています。

ダチョウさんを育てる事は、とても学びの多く、価値がある大切な営みだと思います。
ダチョウという動物は肉のために育てられている他の動物に比べて、環境に負荷をかけないです。
牧場に観光でいらっしゃる方の一部がその事を知り、環境問題に目を向けるきっかけになるかもしれません。

卵から愛情を込めて育て、しっかりとと畜し、肉にする行程を人に伝えていくことで、アニマルフェルフェアについて、考えて頂けるかもしれません。

卵から孵し、愛情を込めて育てたお肉を緊張させずにと畜し、血抜きをしっかりすることで、とても美味しい肉になります。私はこのことを教えてくれた1羽のダチョウさんのことを忘れないです。

そろそろ孵るヒナたちは希望の子達です。多くの生物が住みにくくなってしまった地球で、私たちに気づきを与えてくれる存在だと思います。

私は彼らをちゃんと迎え、できる限りの力を尽くして、幸せに育てなければなりませんね。









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ダチョウはまだ20年早かったと言われて

2020年02月04日 | 命を頂く事について
「ダチョウはまだ20年早かった」
ダチョウ牧場を閉じた方が私に言いました。
もともとは農機具のメーカーを一代で築いた方で、ダチョウの飼育方法に関してもとても熱心に研究され、世界中の牧場を見て回った方でした。
ダチョウの血統、体重の増減、飼料の研究、加工品の研究や観光牧場の経営などで学ぶべき点がとても多い方でした。
残念なことに、その方は病気になってしまったためにダチョウの生産をやめてしまいました。
その方と出会ったのは、私がダチョウ飼育を始めた時で、冒頭の言葉を聞いて、「今から何年後にダチョウの時代になるのだろう、私にできるだろうか」と不安になりました。
北海道にはかつてダチョウを飼う農家さんがたくさんありましたが、私が手伝い始めた時はほとんど無くなっており、今では、繁殖とと畜も私達の牧場しかやっていません。
私がダチョウ牧場に携わったときは本当に何もかもが手探りで、経営的にも厳しかったです。
徹底的なコストの見直しやダチョウ肉の販売、ダチョウの卵の関連商品の販売、観光牧場としての営業。
こういったことをする原動力となったのは、ダチョウ産業を続けていかなくてはという使命感とも関係しています。

私はダチョウ産業を続けていくことが地球の未来にも大きく関係していると思っています。
ダチョウは他の家畜に比べてとても環境に負荷をかけない家畜です。
一羽の鳥が肉になるまでに必要な餌の量、必要な水の量、排泄物の土壌に与える影響などは他の家畜より間違いなく、少ないです。
また、穀物を消費しないで生育できる点は人類の増加や水資源の保護にとても大切です。

私たちが肉を食べることができる反面、世界のどこかではたんぱく質や栄養が足りていません。
資本主義が進むにつれて、その傾向が顕著になってしまっています。
砂漠化した荒野にわずかな畑を作っても、干ばつや虫の被害によって作物が得られず、飢える人々がいます。

そんな中、食肉業界に対する世界の視線は今、とても厳しくなっています。
今後、気候変動と人口増加の問題を考えていくと、当然のように思います。
食肉から人類全体の必要とするたんぱく質を得ようとすると、今よりももっと地球温暖化が進む事は間違いないです。
肉を食する事が罪のように思われる時代が来るかもしれませんし、そう思っている人の割合も少しずつ増えています。
例えば、ヴィーガンや菜食主義者の方、肉を食べない日を設定する人増えています。
こういった時代の変化に呼応するように、世界では、バイオ肉やビヨンドミートと呼ばれる肉の味や食感を再現する研究も進んでいますし、大手の飲食チェーン店も取り入れ始めています。
イエバエの研究やミドリムシの研究も興味深いです。
イエバエの研究とは、世代交代を重ねて育てたエリートバエを産業廃棄物(残飯など)で育て、そのハエの死骸と排せつ物が飼料やたい肥になるという研究です。
数えればきりがないですが、科学の進歩で人類の抱えている問題を解決できる日が来ることを期待したいです。
ですが、それで十分ではないと思います。
なぜなら、美味しいものを食べたいという人の欲求はとても強く、少しくらい環境の為になるからといって、好みの食材を食べないという選択肢を選ばないからです。
たとえば、ウナギは美味しいですよね。
稚魚を取りすぎて、その種の存続が危ぶまれていても、日本人は大好きです。
過去に人間が乱獲したことによって絶滅したといわれるドードー鳥などの生物も、美味しかったのだろうと思います。

私たちが意識や行動を変えていくためにダチョウが求められていると思います。
手前味噌な話ですが、ダチョウは美味しいです。
適度な年齢で、適切に処理され、美味しく調理されたお肉を食べた時、体の血肉になることが感じられる旨さがあります。
私が育てた子は、死ぬ瞬間まで緊張させず、完璧な血抜きを目標にしてと畜しています。
緊張させれば、暴れて内出血が起こり、肉に血が入ってしまいます。
と畜の成否は肉の味に直結します。

現代の人が持つ肉を食することへの欲望や栄養バランスがとれた動物性たんぱく質の持つメリットを代替肉やバイオ肉のようなたんぱく質で充足するということは本当に難しいと思います。
出来たとしてもまだ時間がかると思います。
現状の動物性タンパク質を極力摂らない食事に満足できる人もいますが、多くの人には難しいです。
ですから私は、ダチョウ肉を食卓に並べられるように生産する必要があると思っています。

近年、日本は異常気象に見舞われることが増えてきていて、2019年世界で一番気候変動の影響を受けた国という報告もあります。
北海道は今年のように雪が少ないことは観測史上初めてとのことです。
ニセコで生活していて、こんなに雪が少なかったことはないです。
環境の変化を肌で感じながら、20年早かったと言われたダチョウの出番が少しずつ迫っている気がします。

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G20と51番

2019年10月19日 | 命を頂く事について
G20の観光大臣会合が倶知安町で開かれるということで、ニセコ周辺の食材を使って、各国のメディアや知事が食べるお弁当を作ることになり、その具材として、牧場のだちょうさんに声がかかりました。
本当なら喜ばしいことなのだと思います。
ですが、選ばれるということはと畜をしなくてはなりません。
料理人の方にお肉の良いことも悪いことも正直に説明しました。
ぜひ使いたいと言っていただいた時、私は複雑な気持ちでした。
日程のすり合わせを行ったところ、スケジュールはぎりぎりで、その日を逃すと、と畜はできない状況でした。
そういう運命なのだと思えて、と畜することを決めました。

今回は51番というタグが付いていたオスのだちょうさんをと畜しました。
いつかお肉にすることを雛の頃から考えて育ててきました。
このお話を頂いた時から、この子が一番適当なだちょうさんだと分かっていました。
51番だから「ゴイチ」と呼んでいました。
一回り小さくて、年上のだちょうさん達にいじめられやすかったですが、全然気にしない子。
草をもっていくと一番に寄ってくる人懐っこい子。
捕まえて、と畜するまで、全然抵抗しなかったです。
私を信じてくれていたのでしょう。
ゴイチの命を無駄にしないことを第一に考えて、淡々と丁寧にお肉にしました。

海外からたくさんのお客さんが訪れるニセコは今、好景気に沸いていて、いつもどこかで開発が行われています。
きっと、だちょうさんのお肉をもっと作れば、どんどん売れていくのでしょう。
ですが、どうしてもその方向に進む気がしません。
甘ったれた精神論と言われてしまえばそれまでですが、私の道はそちらにはないのだと感じるのです。
今回、お肉をG20だから売りたかったというわけではなく、人の縁、時の不思議さに導かれているように感じ、断る理由が見当たらなかったからです。
愛情を与え、苦しみを与えず、感謝と尊敬をもってだちょうさんと過ごしていくことが私には課せられているように感じます。
今はまだ、闇の中を手探りで歩いているようですが、だちょうさん達が私を導いている気がします。
ただ私は淡々と、彼らの与えてくれた道を進んでいくしかないのだと思いました。
多くの人々や動物たちの幸福が育まれる未来を見つけられると良いのですが、そのためにはもっと頑張らなくてはいけませんね。

追記
その後、料理人の方が持って来てくれた料理がとても美味しくて、民泊に来ていた学生さんがとても感動してくれました。あぁ、こういう風に命をつなげる、私もその歯車の一つなのだと思いました。いつか動けなくなるまで、動き続ける事が、生きたいと思っていた命を頂いて生きるということ。今日死が訪れても悔いなく生きねばならないと知りました。



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ふくろうと命をいただいたダチョウのこと

2018年05月06日 | 命を頂く事について
春の夜更け、牧場ではふくろうの鳴き声が聞こえます。
私の住む家の前の木に去年はふくろうが巣を作り、その年の夏、ひなが巣立っていきました。
ダチョウのひなが住む小屋に一時期、ふくろうのひなが住み着いていたこともありました。
あの子が鳴いているのかなあと思うと、少しうれしくなります。
一緒にいたダチョウのひなのうち、一羽は最近私が殺し、お客さんに販売しています。
ふくろうの元気な声を聴きながら、私の気持ちは乱れます。
卵から孵して育てたダチョウのひなの命をいただきながら、ふくろうの無事を願う自分。
とても矛盾しています。
でも、私は人間らしいこの矛盾を抱えて生きていくのでしょう。
命をいただいただちょうさんたちに弁解することはできませんし、言える言葉もありません。
殺生という言葉は殺して生きると書きますよね。
何かの命をいただかなければ、生きることはできないということなのかなと思います。
彼らの生き生きとした姿を忘れないで、私は彼らの分も生きて、生きるということの意味を考えます。
そして、こうした営みをお客さんに伝えていくことが私のしなくてはならないことなのでしょう。
私はよく思うのです。
天国があるかどうか分かりませんし、行くことになるとも思いません。
しかし、私が死んでからもし彼らに会ったら、彼らは殺されたことを忘れて私についてきてしまう子もいると思います。
その時、私はどんな気持ちで彼らを見て話しかけるのだろうと。
きっと、複雑な気持ちでしょうけど、会えたらとてもうれしいのだろうなあと思います。
そして、彼らの命がお客さんたちに何かを伝えるきっかけになったことを伝えられたらと願っています。
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命をいただくことについて

2017年08月28日 | 命を頂く事について
牧場では、卵からダチョウを孵して育てます。そしてそのダチョウさんのお肉をウインナーなどにして販売しています。
卵のころから育てているので、ダチョウさんたちは私のことをとても慕ってくれています。
しかし、育てながらいつかはこの子たちの命を奪わなくてはならないと考えています。
なぜなら、ダチョウさんを精肉にする処理場は北海道には我々のところしかありません。
私は自らの手で命を奪うために卵から孵しているとも言えます。
ダチョウさんの命を初めていただいた時から、今まで、多くの葛藤がありました。
ダチョウさんには個性があり、顔の違いもあります。
昨日まで元気だった子の命を今日いただき、明日からはどこにもいなくなる。
とてつもなくむなしいです。
また、どうしても忘れられない子たちばかりなのです。
動物を家畜として飼う方たちの中には、名前なんか付けてはいけないという方もいます。
しかし、私はたまに名前を付けてしまいます。姿や顔、性格の特徴から他の子たちとの違いが思い浮かんでしまうからです。
また、どうしても経済動物として割り切る気持ちにもなれません。
割り切れないこの葛藤こそが、彼らの生きていた証しであり、私の背負っていく責任なのだと、いまでは考えています。
生きるということは、何かの命を奪っているということなのだと自分に言い聞かせながら、今日も彼らと向き合っています。
そして、できればこの葛藤を多くの人たちにも伝えていければいいなと思っています。
私たちが生きるということが、どれくらいの命の上に成り立っているのか。
自分が生まれてきて、今生きていることがどういう意味を持っているのか。
思い悩むのではなく、自然にスッと入っていくような学びが皆さんに提供できれば、ダチョウさんたちの命をいただく責任を少しでも果たしていけると思います。
どうすればよいのかはまだまだ葛藤中ですが…

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