奥山舎 オウザンシャ

寺内はキリスト教とCharles Dickensの独立研究者。専門分野だけでなく広く社会問題に関心があります。

#書評:寺内孝『チャールズ・ディケンズ『ハード・タイムズ』研究』

2022年11月30日 | 日記
 下記引用は梶山秀雄教授による拙著寺内孝『チャールズ・ディケンズ『ハード・タイムズ』研究』の書評です。2019年5月11日の投稿ですが、著者がこの書評を見つけたのは2022年11月29日です。

風太丸亭日乗< https://khideo1225.hatenablog.com/entry/2019/05/11/152934 >
2019-05-11
書評:寺内孝『チャールズ・ディケンズ『ハード・タイムズ』研究』
寺内 孝『チャールズ・ディケンズ 『ハード・タイムズ』研究』
(アポロン社、1996年)
 
梶山 秀雄
 
 評者も末席を汚しているが、あらためて考えてみると、「ディケンズ・フェロウシップ」というのは奇妙な団体名である。ディケンズ学会でもなければ、ディケンズ研究会でもない。フェロウシップ、すなわち「愛好会」や「友愛会」は、海外にそれぞれ支部を持ち、『ディケンジアン』のような研究誌を発行する、アカデミックな側面を持つ一方で、ディケンズ(と、その登場人物)を愛する一般人で構成されているという。評者はあくまでも見聞きしただけだが、開催日には劇が上映されたり、コスプレをしたりして、さまざまな人々でお祭り騒ぎになるらしい。逆に言えば、最もシリアズなのが日本支部であるということになるだろうか(毎回「朗読」が行われるのは、そうしたお祭り騒ぎの一部を残しておきたいという元会長の意向である。
 それゆえ、「懇親会」もまた、通常の学会のそれと同じようなものになる。まあ、大御所がいて、中堅がいて、若手が集まって、という感じである。そんな中で、いつも誰と話すでもなく、にこにこして立っていたのが筆者であった。入会したばかりで右も左も分からず、社交が苦手な「壁の花」であった評者を手招きしてくれ、ディケンズの作品について語ってくれた。もちろん、とても有り難かったのだが、どうしてこの人は他の人と話さないんだろう、と思ったのも事実である。
 その答えとなるのが、この著書である。思い出話ばかりで恐縮だが、評者の学部および大学院時代は、文学理論が華やかなりし頃で、テキストの外部は存在せず、いかにして理論Aと理論Bを導入して化学反応を起こすか、ということを競い合っていた(解釈はそれぞれだろうが、少なくとも評者は大体そう考えていた)。しかしながら、いつ知ったのか定かではないが、この大学には「ディケンズの言語」に関して、かつてY先生という世界的な学者がおられて、その伝統が脈々と受け継がれているということだった。よく殴られなかったものだと思う。
 「言語学」と「文学」の違いはあれ(本質的には同じものかも知れない)、伝統的には「実証的」なアプローチしか考えられなかった。用例(データ)は多ければ、多い方がいい。その方がよりよく作品を理解出来る。正しい「理論」である。しかしながら、(いろいろあって)そうした方法は、時代遅れになってしまった。それが「懇親会」での、著者と、その他の人々との、あの距離だったのではないか。
 著書を読んで圧倒されるのは、その注釈の多さである。多さというだけでは十分ではない。試みに二分冊の中で、筆者が『ハード・タイムズ』を論じたページを数えてみると、164ページ中16ページである。まず、『ハード・タイムズ』の批評史があり、そこにそっと著者は持論を差し込む。そして、テキストの版に話は繋がり、登場人物の挿絵があり、さらに(今度は)テキスト全体の注釈で終わる。これだけ囲い込まれて、なにが言えるだろう?まさしく、「『ハード・タイムズ』研究」にふさわしい著書である。
 その著者の(数少ない)議論の中で、歴史的背景と教育の重要性である。これも『ハード・タイムズ』を扱う上で、もはや使い古されたテーマと言える。しかしながら、著者の本領は、ジャン・ロックに触れた後で、適確な引用が続くことである。ジャン・ジャック・ルソーについても然りである(27-8)。これが意味するのは、著者は「確実に」この著書を読み通しているということである。それは注釈に注いでいる情熱からも容易く類推出来る。かくて、このテーマもまた囲い込まれて、後に続く者は他に汲み取ることが不可能になる。「実証主義」には、そのような(時には世代を超えた)積み重ねが存在する。二冊目は「ディケンズの書斎にあった本」、「所有していた絵画」、「サッカレーの書籍にあった本」、「同じく書斎にあった遺物」が、これでどうだ、というばかりにリストアップされている。
 以上のように、この著書はもはや文学研究の域を超えて、書誌学とも言えるレベルに達している。ところどころに、そうした真摯な著者の姿勢を揶揄しているように感じられたら、それは評者の意思と反している。むしろ、評者が見たのは、綿綿と続くディケンズ研究の伝統であり、その結果として(少なくとも、『ハード・タイムズ』に関しては)「研究」は、達成されたということである。所属した大学院が徒弟制度であったら、評者はとても耐えられなかったと思うが、ここに先人の思いを受け継ぐ「学者」の姿を見た気がした。
ふたまるお (id:khideo) 3年前
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#寺内孝の世界的業績

2022年11月30日 | 日記
 寺内孝は、2019年6月8日(土)、ディケンズ・フェロウシップ日本支部春季大会(於:清泉女学院短期大学)で「『エドウィン・ドルードの謎』をどう読むか」 のタイトルで口頭発表しました。
 チャールズ・ディケンズの最後の作品『エドウィン・ドルードの謎』(1870)は「未完成」とされてきましたが、本発表で「完結」している、と世界に先駆けて指摘しました。
 著者の英文論文<https://tera-u-chi.sakura.ne.jp/index6med.html>をお読みください。
 チャールズ・ディケンズ学の権威、Professor  Michael Slater は著者の指摘を 'discovery' と評価してくれています。



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#台湾有事

2022年11月28日 | 日記
 安倍晋三元首相は2021年12月1日、台湾の研究機関が主催するイベントでオンライン講演し、「台湾有事は日本有事だ。すなわち日米同盟の有事でもある。この認識を習近平国家主席は断じて見誤るべきではない」と指摘した(産経ニュース< https://www.sankei.com/article/20211201-CFE4LFKGOZKJBDVS2FOX6LFWQI/ >。麻生太郎自民党副総裁は2022年8月31日、麻生派の研修会で講演し、「沖縄、与那国島にしても与論島にしても台湾でドンパチが始まることになれば戦闘区域外とは言い切れないほどの状況になり、戦争が起きる可能性は十分に考えられる」と語った(朝日新聞2022年9月2日朝刊)。
 習近平国家主席は、第20回共産党大会(2022年10月16~22日)で、「台湾統一のためには武力行使も辞さない姿勢を示」し、「2024年までに台湾に侵攻する」と。だが「統一攻勢は強めるが急いではいない」とも発言。
 だが事の成り行きによっては、中国と台湾間で小競り合いが生じ、地域的戦争に発展するかも・・・。安倍晋三元首相や麻生太郎自民党副総裁の発言は、現政府の考え方を代表しているのであろう。
 日本国民は誰も戦争を望まない。戦争の可能性をいうよりも、戦争放棄、平和共存、共存共栄、人間皆兄弟を、声を大にして叫び続け、そのための方策を模索すべきであろう。平和共存・共栄しておれば、国境の意味は次第に薄れる。
 ウクライナ戦争の件で言えば、プーチン大統領が武力侵攻していなかったら、両国で多数の犠牲者を出すことなく、人々は皆、静かで幸せな毎日を享受できているのにと思えば残念でならない。
 我が国は敵基地攻撃能力を含め、軍事大国になってはならない。ミサイルが飛んでくると恐れるのなら、防空体制を強化し、ミサイル撃墜技術を開発すべきだろう。専守防衛に徹するべきだ。戦争は御免だ。最近の、戦争を知らない政治家たちの防衛発言・政策には深い憂慮に堪えない。.

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