HITO-OMOI(ひとおもい)

ひとを、ひととき、ひとへに想ふ短歌がメインのブログです。作歌歴約二十年、かつては相聞(恋歌)、現在は専ら雜詠です。

3916首目 児山紀芳さんの訃報

2019-02-07 00:00:00 | 日記
スイングジャーナルの編集長であった児山さん。訃報では(一回目は)昭和42年から54年までとある。私がジャズを聞いていたのは、昭和53年から平成の初頭まで。したがって、ジャズを聞き始めたときにあたる。編集長のあとは、もっぱらNHKの電波でご活躍を拝聴していた。油井正一さんとはタイプは異なるが、信頼できるジャズ解説者と考えていた。お悔やみを申し上げます。


当時は、スイングジャーナルやジャズ喫茶の親父の作物がレコード収集の縁(よすが)だった。ビッグバンド、フリージャズ以外はまんべんなく聴いてきた。だが、ジャズでは200枚ほどあったレコードやCDをたった1枚(キースジャレットの『マイソング』)を残して手放してしまった、、。


今、ジャズの何処に魅かれていたかと考える。音の余白に音以外のイメージが立ち上るのが好きだったので、ある。(リズムとしては、やはりフォービートが多いけど)もちろん、演奏の音自体が立っていないと隙間はやはり際だたってこない。


もちろん、コルトレーンの『インプレッションズ』やマイルスの『アガルタ』のインプロビゼーションの坩堝に身を委ねるときの「忘我」の良さもわかる。けれど主体的な何かが産まれてはこなかった。(私がミュージシャンなら違うかも、だが。)

また、(サザンロックなどで慣れ親しんだ)ロックにおけるレイドバックの寛ぐという感覚とも異なるものだ。

換言すると、音の余白を感じることとは、聞こえていない音を聞くことである。さように、頭に別の回路が開くのが好きだったので、ある。そしてそれは、現在、名歌を「読んだ」時の感触に相当するものだ。




「汝(な)の願ひ奴のためらひ俺の悔ひ隙間に浮かぶ4(フォー)ビートかも(新作)」

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