HCG161 花は咲く 臼澤みさき (2016)160308 vL HD
3月11日、仕事。同僚と二人
昼過ぎに地震。直後にAちゃんから電話。その後は夜中まで電話つながらず。メールは何時ころにつながったんだろ?もう思い出せないな。あの頃はガラケーで電池もスマホよりは保った気がする。
同僚を家に帰す。念のため通常の営業時間まで店にいるけど停電で仕事はできず。
斜め向かいの紳士服店のガラスが半壊。すぐ近くの消防署の職員さんが窓ガラスで通行人に二次被害がないように処置するあいだ、歩道の通行人の迂回指示の手伝いをする。
一段落して帰宅。国道4号線と107号線の大きな交差点以外は信号がつかなかった。何となく運転手たちが空気を読み合いながら譲ったり走ったりして自分の知る範囲では交通事故はなかった。
帰宅。反射式ストーブつける。ポリタンクの灯油にはまだ余裕があるので一安心。もちろん家の電気はつかない。水道は止まらなかった気がする。プロパンガスは翌日以降使えたように覚えてる。北上市内のなかでも比較的インフラ被害の小さい区域だった。
当時のさらに数年前に展示会で何の気なく買った「手回しのライト&ラジオ」をはじめて使う。ラジオでは山田町や大船渡市で火災がおきているらしいという情報と、とにかくみんなガンバレ、というような内容だった気がする。津波被害や原発事故のことは当日はよく分からなかった。
同じアパートの人が車でカーナビのワンセグTVでニュースを見ていて泣いていたのを思い出す。全国的な大きなニュースになっていることなんてそのときは良く分かってなかった。
夜に母親と電話がつながったり、友人たちとメールや電話でやりとりできて、あちこちで大きく揺れたことを知った。あの日は余震が続くし、変に興奮してなかなか寝られなかった。
内陸の自分でもこんな感じだったのだから、沿岸の被災地の人たちは当時どんな気持ちだっただろう?当時を振り返ってもところどころ思い出せなかったり、そのときの感情がよみがえらない人もいた。もしかしたら思い出さないことで心のバランスを保っているのかもしれない。
今、震災から5年経った。
「もう被災者じゃない」とか「いつまで助ければいいんだ」というようなことを言う人も出てきた。これは震災1年後くらいからすでにいたような気もする。
考えや立場は人それぞれ。自分と異なる考えの人たちをむやみに批判したり非難したりするつもりはないし、権利もない。
ただ、あの夜の、内容がきちんと蘇らない特別編集ラジオ番組のことを思い出すと、自分はやれる範囲のことだけでも続けてゆきたいと考える。
東日本大震災だけが天災じゃないし、戦争被害・コミュニティーの暴力・家庭内の暴力、いろんなところに被害に遭っている人が数多くいる。
そのことを心の中でちょっとだけでも思い続けて生きてゆくのが、あの地震を体験して生き延びた自分の「宿題」のような気がする。
3月11日、仕事。同僚と二人
昼過ぎに地震。直後にAちゃんから電話。その後は夜中まで電話つながらず。メールは何時ころにつながったんだろ?もう思い出せないな。あの頃はガラケーで電池もスマホよりは保った気がする。
同僚を家に帰す。念のため通常の営業時間まで店にいるけど停電で仕事はできず。
斜め向かいの紳士服店のガラスが半壊。すぐ近くの消防署の職員さんが窓ガラスで通行人に二次被害がないように処置するあいだ、歩道の通行人の迂回指示の手伝いをする。
一段落して帰宅。国道4号線と107号線の大きな交差点以外は信号がつかなかった。何となく運転手たちが空気を読み合いながら譲ったり走ったりして自分の知る範囲では交通事故はなかった。
帰宅。反射式ストーブつける。ポリタンクの灯油にはまだ余裕があるので一安心。もちろん家の電気はつかない。水道は止まらなかった気がする。プロパンガスは翌日以降使えたように覚えてる。北上市内のなかでも比較的インフラ被害の小さい区域だった。
当時のさらに数年前に展示会で何の気なく買った「手回しのライト&ラジオ」をはじめて使う。ラジオでは山田町や大船渡市で火災がおきているらしいという情報と、とにかくみんなガンバレ、というような内容だった気がする。津波被害や原発事故のことは当日はよく分からなかった。
同じアパートの人が車でカーナビのワンセグTVでニュースを見ていて泣いていたのを思い出す。全国的な大きなニュースになっていることなんてそのときは良く分かってなかった。
夜に母親と電話がつながったり、友人たちとメールや電話でやりとりできて、あちこちで大きく揺れたことを知った。あの日は余震が続くし、変に興奮してなかなか寝られなかった。
内陸の自分でもこんな感じだったのだから、沿岸の被災地の人たちは当時どんな気持ちだっただろう?当時を振り返ってもところどころ思い出せなかったり、そのときの感情がよみがえらない人もいた。もしかしたら思い出さないことで心のバランスを保っているのかもしれない。
今、震災から5年経った。
「もう被災者じゃない」とか「いつまで助ければいいんだ」というようなことを言う人も出てきた。これは震災1年後くらいからすでにいたような気もする。
考えや立場は人それぞれ。自分と異なる考えの人たちをむやみに批判したり非難したりするつもりはないし、権利もない。
ただ、あの夜の、内容がきちんと蘇らない特別編集ラジオ番組のことを思い出すと、自分はやれる範囲のことだけでも続けてゆきたいと考える。
東日本大震災だけが天災じゃないし、戦争被害・コミュニティーの暴力・家庭内の暴力、いろんなところに被害に遭っている人が数多くいる。
そのことを心の中でちょっとだけでも思い続けて生きてゆくのが、あの地震を体験して生き延びた自分の「宿題」のような気がする。
こんな事よく言えるな、としか言えない。
高台移転も終了せず、商売の基盤も整備されず、移った人口をどう引き戻せるか、2重ローン問題(補填されるとはいえ厳しい)、原発爆発による諸問題…あげればきりがない。
被害を直接受けた側とほぼ被害を受けてない側の乖離というのか意識のズレと言うのか。
地震当日のこっちの揺れが「円を描く様な」いつもとは違う揺れだったのは覚えている。
自分自身は揺れ方とか全然記憶にないんだよね(^-^;
店内の商品やガラス棚が落ちたり壊れたりしてくのを見ながら、玄関のドアを開けてお客さんと同僚と、店外の駐車場に飛び出した事だけ覚えてるわ
震災避難者・原発避難者とそうでない人の差は埋まらないだろうし、被災者・避難者達も状況が千差万別。
ほんとはひとっくくりに出来ないと思うけど、支援をする側の人達はすべての状況が分かるワケないから、自分の目と耳に入る情報で判断するしかないもんね。
こればっかりはしょうがない。オイラだって言ってしまえば復興支援から逃げてきたようなもんだしね(´・c_・`)