見出し画像

a green hand

安野光雅氏の絵本

「この本、怖いね」
Mちゃんの弁。
確かにそうだ。
「大草原の小さな家」というと狩猟をし家畜を飼ってそれを食するアメリカ開拓時代である。
今の子が、豚の頭ごと鍋に入れてコトコト煮てる絵を見たら豚の顔が笑っていようとそれは怖い。

私の記憶の中に、飼っていたウサギだったかニワトリだったかを父が食用に準備したことが微かに残っている。

そういう時代の空気を少しでも吸っているからだろうか、家畜や動物を人と混同したりできないのだ。
私にも猫や犬と心を交わし、その死に心を傷め、いつまでも悲しんでいた子供時代があった。

然しながら飼っていた猫や犬が病気や怪我をしたから動物病院という時代の感覚ではなかった。

豊かな時代になったと言えるのかもしれない。

絵本やお話で育った娘や息子、孫たちにあっては動物たちも人と同じ感覚なのかもしれない。

「かわいそう~」「この本は怖いね」が当たり前に育っている証拠だ。

でもいつかわかる時がくる。
自分たちの身体が、そういうものたちの命によってできていることを。

絵本の中に、飼っていた豚がどの部分も無駄にされずに家族のためになっている絵が描かれている。
尻尾さえ食用になっているのだ。
豚の身体が食用としての肉の名所が絵本に載っている。

腸か胃袋かわからないがそれを風船にしてその時代の子供がボール投げのようにして遊んでいる。

大昔はね、お店もないから食べるものはお父さんが斧や鉄砲をかついで動物を取ってくるのよ~と。

あるページには捕って来た鹿を狼よけなのか大きな木に何頭か逆さまにつり下げられていた。

鹿やトナカイ好きのMちゃん、小さなからだ全体から「かわいそう~」のオーラが立ちのぼる。

外国の絵画を見て思うことがあった。
高貴な館のダイニングルームに死んだ獲物たちの立派な絵画が掛けられている。
どうしてこんな場所に死んだ動物を?の感覚でしかない私。

死んだ獲物は食用としての立派なものだ。
それを射止めた者への讃美も表現されているのだろう。

狩りということと人間の食が密接に繋がっていたのだと今頃になって知る未熟者である。

日本の絵画にも寒風晒しの鮭が逆さまにつり下げられている絵がある。

その鮭魚の背景や地域を知ることできっと絵画の見方もただの鮭から意味のある鮭になるのだ。
(洲之内コレクションにあったのでよく見て見ないとと思う。)

現在はとんでもなく大自然から離れてしまい我々の口に入るまで、食べ物は複雑な経路を辿る。

見えないものをイメージする優しい心が無ければ感謝する心もないというわけだ。

「大草原の小さな家」 熊が木の横で滑稽に立っているシーンが描かれている。
思わず笑いが出てしまうほど命に満ちた動物たちの絵である。

89年間で得たあらゆるものが表現されていると思うと芸術家は素晴らしいと唸ってしまうのだ。
  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事