a green hand

牡丹は散ったが…



ようやくK先生とSさんとの牡丹が咲いたら会いましょうが実行された。
牡丹はすっかり散ってしまったが、要は近いうちに会えれば良いという約束である。
k先生は初めての我が家訪問となった。

先生は車で、Sさんはいつも通りバスで最寄りの駅まで。
そこの駅で落ち合い、お蕎麦屋さんでランチ、そして我が家へという計画である。

若いご夫婦が営む昨年末に開店したばかりのお蕎麦屋さん、私が利用したのはこれで2度目である。
なかなか美味しい。

そこでSさんが、原田マハ著の「ジヴェルニーの食卓」という以前私が貸した文庫本を取り出し、一説を打つ。

私に返すために前日に読んだらしい。
その本でずっと疑問であったショパンの「雨だれ」の謎が解けたというのである。

本を読み終えて「あの冒頭、あれはジヴェルニーだ」と思い、急に「雨だれ」を弾きだし今回楽譜持参で来たという。

何十年もピアノ教師一筋で頑張ってきたSだ。
弾く前に「ジヴェルニー ジヴェルニー と思って聴いてね」とSの高揚感が伝わってきた。

その本は先生も私も読んでいるがちょっと時間が経ち過ぎしっかりと覚えているというわけにはいかなかった。が、幸せな気分で聴けばいいかなと私はモネの庭と食卓をイメージした。

Sの音楽の解釈により、時代を超えたショパンとモネが重なり表現されたその「雨だれ」にはゾクっときた。

表現とはそういうものだとSのジヴェルニーの「雨だれ」を聴いて思ったのである。

Sは一般的な暗いイメージの解釈「雨だれ」に釈然としない思いを持ち続けていたという。
モネのジヴェルニーを読んだことで霧が晴れたような気分になったという。

これはSと同じ本を読んでも、同じ曲を聴いても、ショパンが弾けない先生と私には行き着くことのない分野なのだ。

先生と私は「すごいですね」と顔を見合わせるだけである。

おまけにノクターンの嬰ハ短調まで弾いてもらえて幸せな午後を過ごした。

この我々3人だが、高校時代の副担任であった先生を覚えていないSと生徒をよく覚えていない先生とが数年前に再会した。
その後の交流ということである。

私のクラスでは数学を教えてくれたが、一言も先生と話したことのない私であり、先生がクラスで紹介してくれた本「人間の建設」だけが繋ぐ糸となっていたのだから人生はおもしろい。

先生と生徒という意識の薄いもの同士の集まりであるからSと先生との会話は遠慮がなくおもしろい。
ピアノだけを弾いていた自称問題児のSだったらしいがその問題児を意識の外におく副担任の先生もおもしろい。

私とて我がクラスに副担任はいたのかさえ定かではないのが正直なところである。

高校時代とは自分のことで精一杯であり、本気で自分を生きている時代なのだろうと今更ながら思う。

先生もしかり、新卒で教える教科の「数学」に本気で取り組んでいたに違いないのだ。
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