(ミハイル・ロマノフ戴冠から400年)
英国の王位継承権第2位のウィリアム王子の妃
キャサリンの出産が間近いらしい。すでに
女児であることが判ってるとのことである。
エリザベス女王は17日に訪れた英国北西部湖水地方で小学生の女子に、
"Do you want Kate's baby to be a boy or girl?"
(拙大意)「ケイトの赤ちゃんは男の子のほうががいい、女の子のほうががいい?」
と訊かれてすかさず、
"I don't think I mind."
(拙大意)「どっちかは気にしてな~いの」
と答えた。続けて、
"I would very much like it to arrive.
I'm going on holidays.
No sign yet."
(拙大意)「ただ、本当に早く生まれてほし~いわ。
だって、予定日は来週から始まる私の休暇中な~のよ。
分娩の兆候はま~だだわよ」
と児童らに伝えた。
男女どちらでもいいというのは、
女系で繋いできた英国王室には当然の話である。
王位を簒奪するためにわずかな女系を頼りに成立した
テューダー朝は問題外としても、そのあとの
スチュワート朝の男系も英国王とは無関係である。つまり、
女系にしてしまった(せざるをえなかった)ために、
英国王室の"血"やウィリアム王子の頭髪は、
きわめて"薄い"ものになってしまってるのである。ちなみに、
大相撲で初めてアフリカ出身(エジプト)で関取になった
大砂嵐金太郎関は今場所がラマダーンと重なってしまったために
その食事問題が心配されてた。が、
髷を結えるかどうかのほうがよほど心配である。
いっぽう、
20日土曜21時放送の「世界ふしぎ発見」は、
フランス王ブルボン朝最後の王妃(王制復古の
ルイ18世とシャルル10世の妃はともに夫の即位前に死んでるため)
いわゆるマリー=アントワネッドが扱われてた。その母は
マリア=テレズィアであり、その女帝しか跡継ぎがいなかった時点で
ハプスブルク家の男系は途絶えてた。いっぽう、
マリー=アントワネットが嫁いだブルボン朝は
サリカ法を守って男系で繋がってきてた。ちなみに、
番組ではルイ16世とマリー=アントワネッドの次男で10歳で死んだ
ルイ・シャルル(ルイ17世)のことも話題にしてた。この王子は
チャイコフスキーが少年時代にその悲劇の物語を知って以来、
憧憬を抱きつづけてた対象だった。大人になってからも
ルイ・シャルル少年の肖像を部屋に飾ってたほどである。ともあれ、
このルイ17世の死でブルボン本家の男子は途絶えたのである。
"血筋"という意味では、
17世紀初頭から20世紀初頭までの300年間ロシアのツァーリだった
ロマノフ家も、その初代のいわゆるミハイル・ロマノフの血をほとんど
繋いでおらず、ドイツ諸侯の血がほとんどという、
いかにもデタラメでなんでもありなロシアらしい統治者である。
本日は我が国で第23回参議院通常選挙が行われた。
明日2013年7月22日から400年前の1613年7月22日は、
Михаил Фёдорович Романов
(ミハイール・フィョーダラヴィチ・ラマーナフ、いわゆる
ミハイル・フィョードロヴィッチ・ロマノフ、1596-1645)が
1613年2月の"全国会議"でロシアのЦарь(ツァーリ)に選出され、
その5か月後に戴冠してロマノフ朝が始まった日、とされてる
(2月、あるいは6月という話もある。いかにも
いいかげんなロシアらしく)。そんな
ロマノフ朝は1917年まで300年も続くが、
ミハイルが17歳で即位した当時の"ロシア"は、
せっかく蒙古人からの支配から逃れたものの
スウェーデンやポーランドという"大国"に攻め込まれ、
"国家"存亡の危機だったのである。が、やがて、
ポーランドとロシアの立場は逆転する。このように、
かつて"虐げられた"国や民族がのちに
興隆してのさばりだすと、
執念深く復讐心を燃えたぎらせることが多い。
ポーランドの舞曲であるポロネーズは、そんなロシアにとって、
軍事的優位・征服を誇示する象徴だったのである。ともあれ、
ミハイル・ロマノフが即位するまでの3年間、ツァーリは空位だった。そして、
スウェーデンやポーランドとのしがらみのなかった16歳の
ミハイル・ロマノフが全国会議でツァーリに選出されたのである。
ミハイル・ロマノフのツァーリ戴冠から遡ること15年、
1598年の1月にフィョードル1世の死でリューリク朝が途絶えた。
その妻の兄であるバリース・フィョーダラヴィチ・ガドゥヌーフ、
いわゆるボリス・ゴドゥノフが実権を握り、まもなく、
ツァーリに就いた。が、
血筋違いを理由に諸侯の反感を招く。
たった7年でボリスは死に、その子が
フィョードル2世として即位。が、
ボリス在命中からイヴァーン4世の落胤を称してた
偽ドミートリーに攻め込まれ、処刑されてしまう。そうして、
偽ドミートリーが帝位に就くのだが、妻の宗旨の問題で
諸侯の反感がつのり、リュークク朝のれっきとした男系である
ヴァシーリー・ジューイスキーらによる叛乱が起きる。そんな混乱の中、
偽ドミートリーは殺された。今度は、血統的にもっともふさわしい
ヴァシーリー・ジューイスキーがヴァシーリー4世として即位する。ところが、
"大国"スウェーデンやポーランドの思惑も絡んで、
このヴァシーリー4世も諸侯の支持を失い、1610年7月に
退位させられることになった。そして、
ポーランド王子をツァーリに仰ぐプロジェクトが持ち上がり、
その使節団の一員とされたヴァシーリーは、
いわゆるワルシャワに随行させられた。が、
カトリックからロシア正教への改宗がネックとなって
ポーランド王は即位を拒否する。そのうえ、
ヴァシーリーは俘囚となって2年、そこで犬死するのである。
こうして、1610年のヴァシーリー廃位から3年間、
ツァーリは空位だったのである。
その空位前の史実に基づいて、
Александр Николаевич Островский
(アリクサーンドル・ニカラーィヴィチ・アストローフスキィ。いわゆるオストロフスキー、1823-1886)
が2幕の劇にした。
"Дмитрий Самозванец и Василий Шуйский
(ドミートリィ・サマズヴァーニェツ・イ・ヴァシーリィ・シューィスキィ
=偽ドミートリーとヴァシーリー・シューイスキー)
である。オストロフスキーは1866年12月に、
音楽院を出たばかりのチャイコフスキーにその劇の附随音楽を依頼した。とはいえ、
オストロフスキーからもらった台本を紛失してしまったチャイコフスキーが仕上げたのは、
第1幕導入曲とマズルカの2つだけである。
前者は、1863-64年の音楽学院生時代のpf習作曲
「主題と変奏」の主題が採られてる。
[アンダーンテ・センプリチェ(表情をつけずに)、3/4拍子、無調号(イ短調)]
♪ラ<シ<ド(3連符)│
ドーーー・ーーーー・ド>シ>ラ(3連符)│ラーーー・ーーーー、・<ド<レ<ミ(3連符)│
ミーーー・ーーーー・ミ>レ>ド(3連符)│ドーーー・ーーーー♪
これが、劇の導入曲では、
[アンダーンテ・ノン・トロッポ、8/9拍子、無調号(イ短調)]
となって、5小節の前置きが附加されてる。そして、
この"無表情"な主題がオーボエの独奏で吹かれる。
♪ラ<シ<ド│
ドーー・ーーー・ド>シ>ラ│ラーー・ーーー、・<ド<レ<ミ│
ミーー・ーーー・ミ>レ>ド│ドーー・ーーー♪
主題の後半部である
♪シ<ド<♯ド│<レーー・ーー>シ・>ラ<シ>ラ│>♯ソ♪
のあたりは原曲とほぼ同じながら、pfから弦楽になることで、
よりチャイコフスキーらしい響きが醸し出される。
主題がフルートにバトンタッチされて、
[→ピウ・モッソ]
となったところで、さらにチャイコフスキアンなオーケストレイションになる。
最後は[→アッレーグロ]となり、実質イ長調で曲を閉じる。ここで、
プロとしてまだ駆けだしだった26歳のチャイコフスキーは、
偽ツァーリの後押しをした対ポーランドへの
軍事的優位・征服支配を誇示する
♪[タータタ・ターター・ターター│ターター・ターーー・ターーー│ターーー・ーータタ・ターター]♪
という「ポロネーズ」のリズムをトランペットに刻ませることを
忘れずに行ってるのである。ちなみに、
ロマノフ朝は1917年のロシア革命まで300年も続くが、途中で、
ほとんど開祖の"血"はほとんど"薄れ"てしまってた。そして、
いわゆるレーニンの共産党によってアナスタシアも含め一家皆殺しにされ(銃殺)、
ロマノフ本家は零人となってしまったのである。
(チャイコフスキーのオーケストレイションをほぼそのまま再現したものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/tchaikovsky-dmitry-the
にアップしておきました)
英国の王位継承権第2位のウィリアム王子の妃
キャサリンの出産が間近いらしい。すでに
女児であることが判ってるとのことである。
エリザベス女王は17日に訪れた英国北西部湖水地方で小学生の女子に、
"Do you want Kate's baby to be a boy or girl?"
(拙大意)「ケイトの赤ちゃんは男の子のほうががいい、女の子のほうががいい?」
と訊かれてすかさず、
"I don't think I mind."
(拙大意)「どっちかは気にしてな~いの」
と答えた。続けて、
"I would very much like it to arrive.
I'm going on holidays.
No sign yet."
(拙大意)「ただ、本当に早く生まれてほし~いわ。
だって、予定日は来週から始まる私の休暇中な~のよ。
分娩の兆候はま~だだわよ」
と児童らに伝えた。
男女どちらでもいいというのは、
女系で繋いできた英国王室には当然の話である。
王位を簒奪するためにわずかな女系を頼りに成立した
テューダー朝は問題外としても、そのあとの
スチュワート朝の男系も英国王とは無関係である。つまり、
女系にしてしまった(せざるをえなかった)ために、
英国王室の"血"やウィリアム王子の頭髪は、
きわめて"薄い"ものになってしまってるのである。ちなみに、
大相撲で初めてアフリカ出身(エジプト)で関取になった
大砂嵐金太郎関は今場所がラマダーンと重なってしまったために
その食事問題が心配されてた。が、
髷を結えるかどうかのほうがよほど心配である。
いっぽう、
20日土曜21時放送の「世界ふしぎ発見」は、
フランス王ブルボン朝最後の王妃(王制復古の
ルイ18世とシャルル10世の妃はともに夫の即位前に死んでるため)
いわゆるマリー=アントワネッドが扱われてた。その母は
マリア=テレズィアであり、その女帝しか跡継ぎがいなかった時点で
ハプスブルク家の男系は途絶えてた。いっぽう、
マリー=アントワネットが嫁いだブルボン朝は
サリカ法を守って男系で繋がってきてた。ちなみに、
番組ではルイ16世とマリー=アントワネッドの次男で10歳で死んだ
ルイ・シャルル(ルイ17世)のことも話題にしてた。この王子は
チャイコフスキーが少年時代にその悲劇の物語を知って以来、
憧憬を抱きつづけてた対象だった。大人になってからも
ルイ・シャルル少年の肖像を部屋に飾ってたほどである。ともあれ、
このルイ17世の死でブルボン本家の男子は途絶えたのである。
"血筋"という意味では、
17世紀初頭から20世紀初頭までの300年間ロシアのツァーリだった
ロマノフ家も、その初代のいわゆるミハイル・ロマノフの血をほとんど
繋いでおらず、ドイツ諸侯の血がほとんどという、
いかにもデタラメでなんでもありなロシアらしい統治者である。
本日は我が国で第23回参議院通常選挙が行われた。
明日2013年7月22日から400年前の1613年7月22日は、
Михаил Фёдорович Романов
(ミハイール・フィョーダラヴィチ・ラマーナフ、いわゆる
ミハイル・フィョードロヴィッチ・ロマノフ、1596-1645)が
1613年2月の"全国会議"でロシアのЦарь(ツァーリ)に選出され、
その5か月後に戴冠してロマノフ朝が始まった日、とされてる
(2月、あるいは6月という話もある。いかにも
いいかげんなロシアらしく)。そんな
ロマノフ朝は1917年まで300年も続くが、
ミハイルが17歳で即位した当時の"ロシア"は、
せっかく蒙古人からの支配から逃れたものの
スウェーデンやポーランドという"大国"に攻め込まれ、
"国家"存亡の危機だったのである。が、やがて、
ポーランドとロシアの立場は逆転する。このように、
かつて"虐げられた"国や民族がのちに
興隆してのさばりだすと、
執念深く復讐心を燃えたぎらせることが多い。
ポーランドの舞曲であるポロネーズは、そんなロシアにとって、
軍事的優位・征服を誇示する象徴だったのである。ともあれ、
ミハイル・ロマノフが即位するまでの3年間、ツァーリは空位だった。そして、
スウェーデンやポーランドとのしがらみのなかった16歳の
ミハイル・ロマノフが全国会議でツァーリに選出されたのである。
ミハイル・ロマノフのツァーリ戴冠から遡ること15年、
1598年の1月にフィョードル1世の死でリューリク朝が途絶えた。
その妻の兄であるバリース・フィョーダラヴィチ・ガドゥヌーフ、
いわゆるボリス・ゴドゥノフが実権を握り、まもなく、
ツァーリに就いた。が、
血筋違いを理由に諸侯の反感を招く。
たった7年でボリスは死に、その子が
フィョードル2世として即位。が、
ボリス在命中からイヴァーン4世の落胤を称してた
偽ドミートリーに攻め込まれ、処刑されてしまう。そうして、
偽ドミートリーが帝位に就くのだが、妻の宗旨の問題で
諸侯の反感がつのり、リュークク朝のれっきとした男系である
ヴァシーリー・ジューイスキーらによる叛乱が起きる。そんな混乱の中、
偽ドミートリーは殺された。今度は、血統的にもっともふさわしい
ヴァシーリー・ジューイスキーがヴァシーリー4世として即位する。ところが、
"大国"スウェーデンやポーランドの思惑も絡んで、
このヴァシーリー4世も諸侯の支持を失い、1610年7月に
退位させられることになった。そして、
ポーランド王子をツァーリに仰ぐプロジェクトが持ち上がり、
その使節団の一員とされたヴァシーリーは、
いわゆるワルシャワに随行させられた。が、
カトリックからロシア正教への改宗がネックとなって
ポーランド王は即位を拒否する。そのうえ、
ヴァシーリーは俘囚となって2年、そこで犬死するのである。
こうして、1610年のヴァシーリー廃位から3年間、
ツァーリは空位だったのである。
その空位前の史実に基づいて、
Александр Николаевич Островский
(アリクサーンドル・ニカラーィヴィチ・アストローフスキィ。いわゆるオストロフスキー、1823-1886)
が2幕の劇にした。
"Дмитрий Самозванец и Василий Шуйский
(ドミートリィ・サマズヴァーニェツ・イ・ヴァシーリィ・シューィスキィ
=偽ドミートリーとヴァシーリー・シューイスキー)
である。オストロフスキーは1866年12月に、
音楽院を出たばかりのチャイコフスキーにその劇の附随音楽を依頼した。とはいえ、
オストロフスキーからもらった台本を紛失してしまったチャイコフスキーが仕上げたのは、
第1幕導入曲とマズルカの2つだけである。
前者は、1863-64年の音楽学院生時代のpf習作曲
「主題と変奏」の主題が採られてる。
[アンダーンテ・センプリチェ(表情をつけずに)、3/4拍子、無調号(イ短調)]
♪ラ<シ<ド(3連符)│
ドーーー・ーーーー・ド>シ>ラ(3連符)│ラーーー・ーーーー、・<ド<レ<ミ(3連符)│
ミーーー・ーーーー・ミ>レ>ド(3連符)│ドーーー・ーーーー♪
これが、劇の導入曲では、
[アンダーンテ・ノン・トロッポ、8/9拍子、無調号(イ短調)]
となって、5小節の前置きが附加されてる。そして、
この"無表情"な主題がオーボエの独奏で吹かれる。
♪ラ<シ<ド│
ドーー・ーーー・ド>シ>ラ│ラーー・ーーー、・<ド<レ<ミ│
ミーー・ーーー・ミ>レ>ド│ドーー・ーーー♪
主題の後半部である
♪シ<ド<♯ド│<レーー・ーー>シ・>ラ<シ>ラ│>♯ソ♪
のあたりは原曲とほぼ同じながら、pfから弦楽になることで、
よりチャイコフスキーらしい響きが醸し出される。
主題がフルートにバトンタッチされて、
[→ピウ・モッソ]
となったところで、さらにチャイコフスキアンなオーケストレイションになる。
最後は[→アッレーグロ]となり、実質イ長調で曲を閉じる。ここで、
プロとしてまだ駆けだしだった26歳のチャイコフスキーは、
偽ツァーリの後押しをした対ポーランドへの
軍事的優位・征服支配を誇示する
♪[タータタ・ターター・ターター│ターター・ターーー・ターーー│ターーー・ーータタ・ターター]♪
という「ポロネーズ」のリズムをトランペットに刻ませることを
忘れずに行ってるのである。ちなみに、
ロマノフ朝は1917年のロシア革命まで300年も続くが、途中で、
ほとんど開祖の"血"はほとんど"薄れ"てしまってた。そして、
いわゆるレーニンの共産党によってアナスタシアも含め一家皆殺しにされ(銃殺)、
ロマノフ本家は零人となってしまったのである。
(チャイコフスキーのオーケストレイションをほぼそのまま再現したものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/tchaikovsky-dmitry-the
にアップしておきました)