チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「チャイコフスキー『マンフレッド交響曲』01概要」

2013年05月07日 00時01分50秒 | チャイコ全般(6つの目のチャイコロジー
[There are more things in heaven and earth, Horatio,
Than are dreamt of in your philosophy.
(Hamlet...Shakespeare)]
(拙訳)もっとあるんだよ、あの世とこの世には……なあホレイショ……
   君の学問で説明できることよりできないことのほうがね。
   (シェイクスピア「ハムレット」より)

グレゴリオ暦の5月7日はチャイコフスキーの誕生日にあたる。
これにちなんで、今回から数度にわたって、
いわゆる「マンフレッド(交響曲)」について
……不定期になるとは思うが……書き連ねていこうと思う。

標題音楽であることは確かであるが、
交響曲という呼称は(定義にもよるが)
「ソナタ形式の第1楽章を持つ多楽章形式管弦楽作品」
という私の認識では"交響曲ではない"ことになる。
多楽章形式の管弦楽作品を"交響曲"と呼ぶほうが
聞こえがよく、興味を引きやすいためと思われる。
よって、「交響曲かどうか」という議論は不毛である。
元来の鮨とはまったく異なる「回転寿司」も
スシというのと同じである。

【作曲経緯】
1867年暮に、死が近いベルリオーズが
イェリェーナ・パーヴラヴナ大公妃の招きで
ロシア巡業にやってきたとき、バラキレフは
バイロンの「マンフレッド」を題材とした曲を書くように
要請した。が、
ベルリオーズは老齢と病気を理由に断った。実際、
この寒い土地への演奏旅行がたたったベルリオーズは
翌年に65歳で死んでしまう。通常、
音楽の天才といえども、作曲というもっとも
頭脳を使う営みは50代までしかできない。そんなことすら、
俗人作曲家のバラキレフには理解できてなかった。
ベルリオーズ自体、作曲の筆はすでに折ってる。次に、
バラキレフは「ロメオとジュリエット」を作曲"させた"ことがある
自国のチャイコフスキーに狙いを定めた。
4つの楽章の設定とその詳細な調性などの
"指示書"も送られてきた。この
バラキレフという人物は"やっかい者"で、
こういったことで自分の力を
ロシア音楽界に誇示するタイプなのである。
ロシアの皇室に取り入って影響力を持つこともあったので、
むげに断れないという事情があった。とはいえ、
そうした押しつけに、しかも、
ベルリオーズの二番手という失礼な扱いに、
ベルリオーズの亜流作品を書くなら容易いけれど、
という釘を刺しながら、チャイコフスキーは生返事をした。
1882年のことである。
1884年10月に会った際にもまた話を持ちだされた。そして、
前回同様にこと細かな作曲プラン書が送られてきた。
このときもまだ、「vn協奏曲」の作曲時に
スイスのクラランでともに過ごし、いまは
やはりスイスのダヴォスで死の床にある
教え子のコーテクを見舞いにいったり、その他
さまざまな用事で腰を据える間がなかった。が、
「来年夏までには仕上げるという肯定的な約束を」
という返事をしたのである。
フォン=メック夫人からの援助を得てから、チャイコフスキーは
西欧各地を遊山半分で巡ってた。ところが、
1885年2月にモスクワの北西約100kmにあるКлин(クリーン)、
いわゆるクリンのМайданово(マイダーナヴァ)、
いわゆるマイダノヴォに家を借りてから、
チャイコフスキーはロシアに活動拠点を移した。
そうしたこともあって、この年の4月に少し、そして、
6月になってから本格的に
「マンフレッド交響曲」に取りかかった。結果、
9月にオーケストレイションを含めてすべてを脱稿した。

【標題】
いわゆる「標題音楽」である。ネタは、
George Gordon Byron(ジョージ・ゴードン・バイロン、1788-1824)
=第6代バイロン男爵という、イケメンで女性にモテモテだったが、
生まれついての足に不具合がある身障者で、
母親の愛情に欠けてた、キリスト教白人至上主義人種差別詩人が
1816-17年に作った劇詩「マンフレッド」である。
(あらすじ)スイス・アルプスの城に住まわってるマンフレッドは、
人間ながら万能の知識を備えてる。が、
常に罪悪感にさいなまれてた。
7柱の精霊と会話することさえできるマンフレッドは、
かつて最愛のアスターティを死に追いやった消してしまいたい過去を
忘却するすべはないかと精霊に問うも、
「そないな都合ええことでけしまへんわ、アホかいな!」
とにべもなくかわされてしまう。
普段からの付け届けをしてないとこういうことになる。
マンフレッドは肝腎なときに役立たずな現金なやつらだと悟り、
なぜに喪失だけが不如意なのかと嘆く。しかたなく、
マンフレッドはアルプスの山中をさまよい歩く。
崖から飛び降りて死のうとする。
キリスト者なので自殺は禁忌なのにである。が、
チロリアン・ハットの房飾りにするために
シャモワ(カモシカの仲間)を撃つ狩人に助けられてしまう。
彼らの素朴な生活こそが救いかと思うものの、
学と知識がわざわいしてその生活になじめない。今度は
滝に打たれて修行しようというわけではないが、
魔女を呼びだしてみるがやはり埒が明かない。ついには、
六甲の山中にも有馬温泉にも寄らず、
悪と闇の神アリマニスの神殿にたどりつき、
アスターティの魂を呼んでもらう。
マンフレッドはアスターティに許しを請うが、要領を得ない。ただ、
解決がもたらされることだけはわかった。
マンフレッドは城に戻り、死を待つ。
サンモリッツの僧院長アボットが死が迫るマンフレッドを救おうと
手を差し伸べる。が、
マンフレッドは拒絶する。そして、
死ぬのは簡単だと言って息絶える。
僧院長がマンフレッドの救済されない魂がどこへ行ってしまうのか
考えるだに恐ろしいと嘆きつつこの劇詩は終わる。

Astarte(英語の発音ではアスターティ)は、
古代セム語族の愛と豊穣の女神である。その綴りから、
星と関係があると思われる。

【構成他】
"Manfred (Symphonie)"
Манфред (симфония)
=マンフリェート(・シンフォーニヤ)
「マンフレッド(交響曲)」
(op.58)
作曲年=1885年
4つの楽章から成る。
[第1楽章]
前半(苦悩するマンフレッドの主題=イデ・フィクス)、
後半(亡きアスターティの主題)、
マンフレッドの主題によるコーダ、
という3つの部分から成る特異な形式。
テンポがめまぐるしく変わり、
拍子や調性も前半と後半で替わる。
[第2楽章]
A-B-Aの3部形式のスケルツォ。中間部B(トリオ)もテンポは不変。
[第3楽章]
緩徐楽章。形式なし。
[第4楽章]
大きく分けて、3部から成る。
第1部は悪と闇の神アリマニスの神殿。
第2部は第1楽章の回帰。
第3部はマンフレッドの死。

無調号(実質イ短調)に始まり、無調号(実質ロ長調)に終わる。

[楽器編成](数字なしは1)
フルート3(第3奏者はピッコロ持替)、オーボエ2、イングリッシュホルン、
A管クラリネット2、B管バスクラリネット、ファゴット3、
F管ホルン4、D管トランペット2、A管コルネット2、
テナートロンボーン2、バストロンボーン、チューバ、
ティンパニ、鐘、シンバル、大太鼓、タンバリン、トライアングル、ドラ、
ハープ2、ハーモニウム、弦楽5部。

バラキレフに献呈された。

(第1楽章冒頭「アンダンテ・ルーグブレ」の22小節を、
チャイコフスキーのオーケストレイションのほぼそのままに再現したものを
http://twitsound.jp/musics/ts0EHUZ1o
にアップしておきました。
晩年である1885年以降の作品に散見される
木管とホルンによるチャイコフスキー独特の胸を打つ音色が
よくわかる箇所です)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「チャイコフスキー オペラ『チェレヴィチキ』3幕のメヌエット」

2012年12月24日 23時03分00秒 | チャイコ全般(6つの目のチャイコロジー
つい一昨日までは、
"東京でも47年ぶりの「ホワイト・クリスマス」"
などとウェザーニュースが高らかに予想してたが、
なんのことはない、小雪はおろか、
VIERAもサントリー・ハイボールも、
マツヤマケンイチ扮する平清盛も、
まったく降らなかった。
東京で雪は降らないにこしたことはないが、
天気予報が当たらないのは問題である。
問題といえば、東京駅丸の内口前の
"東京ミチテラス TOKYO HIKARIVISION"
なるものを見物しようと10万人もが押し寄せて
危険すぎて中止になった、
というニュースが流れてた。
残念だという人々の声を各TV局は報道してた。ちなみに、
このイルミネイションの観覧場所として用意されたスペイスは、
行幸通りの和田倉門交差点あたりまでの
通常は天皇陛下が東京駅を利用されるときに
使用される道である。ともあれ、
"スター・ライト・ウォーク"だけではおさみしい。
イヴ・モントンの「枯葉」が似合いそうだが、
落ちたいちょうの葉はすでに清掃されてしまってる。
TVに取材されてた人らは、
おおいに期待して東京駅に来たというのに、
「見ぬ絵と」なってしまったとぼやいてた。

「ミヌエト」といえば、
チャイコフスキーが作曲したオペラ「チリヴィーチキ」は、
鍛冶屋のいわゆるワクラ(和倉ではない、ヴァクーラである)が
彼女におねだりされた女帝の靴を手に入れるという、
クリスマス・イヴのおとぎ話である。このオペラの中でも、
「minuetto」は踊られる。下賤なヴァクーラが紛れ込んだ
舞踏会はエカチェリーナ女帝の宮廷でのものであるゆえ、
高貴な踊りであるミヌエットが踊られてる。
そこでヴァクーラはエカチェリーナ女帝の靴を所望するのである。
「第3幕3場(第21曲)『メヌエットと情景』」
[Tempo di minuetto、3/4拍子、4♭(変イ長調)]
♪ソーー>ミ・<ソーーー、<ラ>レ<ミ>レ、│
<ソーー>ミ・<ソーーー、<ラ>レ<ミ>レ、│
<ソーー>ミ・<ソー、>ミ<ソ・<ド>シ>ラ>ソ、│
ソ>ファ>ミ<ファ、・<ソ>ミ<ラン>ファ、・>ミー>レー、♪
チャイコフスキーは19世紀後半に創作活動した人なので、
「メヌエットのテンポ」の認識は相応に遅いものである。
このオペラのメヌエットには
「テンポ・ディ・ミヌエット」としか表記されてない。いっぽう、
バレエ「眠れる森の美女」の第2幕の第12曲は、
a)情景[Moderato、4/4拍子、無調号(ハ長調)]
b)公爵令嬢たちの踊り
c)男爵令嬢たちの踊り
d)伯爵令嬢たちの踊り
e)侯爵令嬢たちの踊り
という5つの枝番曲から成り立ってる。この
貴族の令嬢たちの踊りの中で、
もっとも位が高い公爵の令嬢の踊りに、
高貴な踊りであるメヌエットが採られてる。そこでチャイコフスキーは、
Tempo di Minuetto=Moderato con moto
としてるのである。
「四分音符=96乃至100」
程度のテンポである。これは、
「当時のメヌエットのテンポの常識」に適ってる。
(cf;「メヌエットの上のカタコンブ/ベートーヴェンの交響曲のスケルツォと強迫性障害」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/ec107e88153978a1d3182fccac2b3846)
が、それはともかくも、
「チェレヴィチキ」の中のメヌエットもそれくらいのテンポが望ましい。
ところが、
昨今上演されるようになってきた巷の公演では、
私の知りうるかぎりはすべてがもっと遅い、
"現代の認識のテンポ"で演奏されてる。

現在の行幸通りの北は、
天保7年(西暦およそ1836年)に家督を継ぎ、
同14年(西暦およそ1843年)に数え25歳で老中に任じられた、
福山10万石(加増で11万石)阿部伊勢守正弘の老中役屋敷があった。
江戸湾北部・深さ40乃至50kmと推定されてる
安政(2年、西暦およそ1855年)の大地震では、かつては
平川河口で地盤の弱いとこに建つ同屋敷は半壊したという。
阿部正弘は安政4年(西暦およそ1857年)、数え39歳で、
深酒も起因したのだろう、おそらく胃癌で死んだ。
余命わずかの憂さをはらすとばかりに、
デブの身で若い側室との蜜月を楽しんだ。その側室とは、
長命寺の桜餅として知られる向島の茶屋「山本や」の
二代目の娘で無類の美人として錦絵のモデルにもなったとよである。
とよは天保11年生まれ。チャイコフスキーと同い年である。
デブながら美男だった正弘と違ってブサイクで甲斐性のない私には、
クリスマス・イヴだけでもいっしょに過ごす女性もおらんとよ。とほほ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「チャイコフスキー・モスクワ博物館とチャイ2のダクテュロス」

2012年10月26日 23時50分32秒 | チャイコ全般(6つの目のチャイコロジー
[Музей П. И. Чайковский и Москва
(ムズィェーィ・ペ・イー・チィコーフスキィ・イ・マスクヴァー)]

さる美人ヴァイオリン奏者の女性のブログに、
いわゆるモスクワで「チャイコフスキー文化センター」を訪れた、
という記事が載ってた。モスクワ郊外のクリンの
チャイコフスキーの家博物館以外に、
チャイコフスキーが住んだことがあるとこが博物館になってたのである。
小沢仁志とくしゃおじさんの顔を判別できないほど
拙脳なる私はそんなのができたのを知らなかった。が、
調べてみると、
"Tchaikovsky Research"の"forum"で、
現在のチャイコフスキー研究の世界的大権威、
あのアレグザンダー・ポズナンスキー御大が
2009年の2月27日の投稿で伝えてた。
http://www.tchaikovsky-research.net/en/forum/forum0150.html
<A new Tchaikovsky Museum in Moscow>
それによれば、今から5年前の2007年5月18日に、
チャイコフスキーが1872年9月から翌1873年11月まで住んでたアパルトモン跡を
立派に新築したものである(チャイコフスキーがワン・ルームを借りた建物はすでにない)。
チャイコフスキーが教鞭をとってたモスクワ音楽院からほぼ西に
バリシャーヤ・ニキーツカヤ通りを1km行って
クドリーンスカヤ広場の手前で左に折れたとこにある。

そのヴァイオリニストのかたのブログには、
奥の部屋の窓際のテイブルに、チャイコフスキーが愛でた西洋スズランと
「交響曲第2番」第4楽章の「鶴」による主題の自筆譜のコピーが置かれてる写真が
掲載されてた。
ここにあったアパルトモンの一室を借りてた約14か月の間に、
チャイコフスキーは「交響曲第2番」(初稿)を完成させたからだろう。
♪ド●・レ●│<ミ●・<ファ●│>ミッ<ソッ・>レッ●│>ドッ>ラッ・>ソッ●♪
(cf;「チャイコフスキー『交響曲第2番』終楽章のウクライナ民謡『鶴(ジュラヴェーリ)』」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/c1802975835272828cc6c48f3cd71083)
私はその主題の対主題であるチャイコフスキー・オリジナルの
♪【ミ●・ミ>レ│ーー、・>ド>シ│>ラ、●・ラ<シ│
  ーー、・>ラ>ソ│<ラ、●・・ラ<シ│ーー、・>ラ>ソ、】│
  <ラ<ド・<ミ<ソ、│<ラー・>シー♪
という節に耳を奪われる。この副主題(第2主題)の【】内6小節はすべて、
【タータタ(長-短-短)】という【ダクテュロス(ダクティル)】の律動で貫かれてる。
(cf;「ベト7のダクテュロス(長-短-短)/交響曲第7番作曲着手から200年」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/bcf6fd381f87f3afb53a6fc9c2ce595b)
この楽章において、チャイコフスキーはこの律動を執拗に展開させるのである。
ここでのダクテュロス律動は「英雄の葬送曲」に使われた故事に倣ったかどうかは、
auとsoftbankのiPhoneとGALAXYのの違いを説明できない
拙脳なる私にはわからないが、
チャイコフスキーはこの交響曲をおよそ7年後に大幅に改訂した。
それが現在一般に聴かれるものである。
初稿、改訂稿ともに、ユルゲンソーンからではなく、当時、しばしば取引があった
ビェーッセリ(いわゆるベッセリ)から出版された。
オペラ「オプリーチニク」もビェーッセリからである。が、このことが
何らかの禍をチャイコフスキーにもたらしたと思われる。なぜなら、
1893年、死の5日前、ビェーッセリの弁護士がチャイコフスキーのもとを訪ねてくる。
「オプリーチニク」の印税に関する契約書の改訂の話し合いだとされてる。が、
翌日にコレラを発病したチャイコフスキーは死に、新たな契約を交わされずじまいで、
改訂されるばずだった契約内容も永遠に謎のままらしい。
ねずみ色のフロックコウトを着た男が訪ねてきたかどうかは知らないが、
それが「オプリーチニク」や「小ロシア(交響曲第2番の一般的ではないが別称)」の
出版社の代理人だったことは確かである。が、その本職は
「小ロシア(ショウロシア)」というよりは「コロシヤ」だったかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「チャイコフスキー 法律学校行進曲/ロンドン五輪柔道でにわかに話題のジュリーにちなんで」

2012年08月01日 00時12分32秒 | チャイコ全般(6つの目のチャイコロジー

チャイコフスキー 法律学校行進曲


民法、否、民放各社のれっきとした美人アナが集って
♪はぁ~~あっ。ロンドン、ドン。ロンドン、ドン。ロンドン、ロンドン、ロンドン、ドン♪
とやらかしてくれる、40年ほど前の同名のキャバレーのTVCMをパロった
「ロンドン五輪放送PR&選手応援スポット」
の滑稽さが愉しめる今日この頃である。ただし、
BBC制作のTVドラマ"Sherlock(シャーロック)"の主演である
Sherlock Holmes(シャーロック・ハウムズ)役の
Benedict Cumberbatch(ベネディクト・カンバーバッチ)と
ズンバでアッチッチな郷ひろみの顔が判別できない拙脳なる私ゆえ、
バッキンガム宮殿近衛兵の帽子・ミニスカ・ブーツ姿で太腿あらわに女子アナらが
ラインダンスを踊ってたかどうかは覚えてない。ともあれ、そんな
今般のロンドン五輪の柔道で、
寝技が現に進行中に待てをかけ、あげくは
負けた選手に勝ちを示すようなバカ審判に代表される
lawレヴェルというよりはlowレヴェルな審判団の、
萩本欣ちゃんの「バンザイ、なしよ」みたいな手振りによる技あり取消や、
「青挙げて、白挙げないで、青下げて、青挙げないで、白挙げる」
などに関与して一躍"流行語"の仲間入りをはたした
"Jury(ジュリ)"とは、誤審術という意味ではない。
米国の法廷ものドラマのセリフにもしばしば出てくるように、
「審判団」「陪審団」という意味で集合的に使われる名詞である。
一人ひとりの審判・審査員・陪審員はjuror(ジュラ)である。
スピルバーグではない。ちなみに、
沢田研二のジュリーはドレミ歌手女優の
ジュリー・アンドルーズから採ったものであり、その原義は
カエサルの名でもあるJuliusのフランス語女子名からの英語女性名Julieなので、
ロミオとジュリエットがroseを花と呼ぼうがnoseと称しようが、
どんな誤審の危機希林であっても悠木千帆であっても、
「柔道のジュリーって何?」の答えとしては受理されない。それはともあれ、
juryから派生した語にjurist(ジュリスト=法学者・法科学生、法律家)がある。
有斐閣が版元の判例紹介誌のタイトルにもなってる。

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは帝政ロシアの貴族階級増設政策で
下級貴族に叙された家の傍系に1840年、生まれた。
当時のそういった階級の師弟が進む典型的な学校が、legalながらregalな、
"Императорское училище правоведения"
(インピラータルスカエ・ウチーリシシェ・プラヴァヴィェーヂニエ)
「帝室法科学校」
だった。チャイコフスキーも10歳でその予科に入り、
競争率12倍の本科試験に合格して本科に進み、
19歳で同期30名中13番の席次で卒業し、
ロシア帝国法務省のキャリア組となった。同級生には、
席次2番の秀才だったものの詩人となったアプーフチン、
時を経てチャイコフスキーの伝記の最期に
元老院首席沢田検事として名前が出てくるイェコービ、
などがいた。この学校は1835年に創設されたが、その50年後、
すでに世界的な作曲家となってた卒業生チャイコフスキーに、その
創立50周年記念行事のための行進曲様の
管弦楽小品が依頼された。それが、
"Правоведский марш"
(プラヴァヴィェーツキィ・マールシ)
「法科学校生行進曲」
である。英語では、
"Jurists' March"もしくは"Jurisprudence March"
というように表記されてる。ちなみに、
この学校は1917年のロシア革命で閉校にされた。

[Allegro risoluto*(アッレーグロ・リゾルート=速く晴ればれと)、
4/4拍子、2♯(ニ長調)]
*risolutoは動詞risolvere(リゾルヴェレ=解決する、決断する)の
過去分詞で、それが形容詞化したものである
(イタリア語は形容詞=副詞)。もともとの語義はラテン語の
risolvere=ri+solvere=繰り返し+解く→解き放つ、である

主要主題の主要動機から成る10小節分の導入に続いて、
主要主題が提示される。
♪ドーーー│<ファーーー・ーーー>ミ・・>レーーー・<ミーーー│
>ドーーー・ーーー・・ーー、●●・<ドーーー│
>ラーーー・ラーーー(ラ<シ)・・<ドーーー・>シーー>ラ│
>ソーーー・ーーー>ファ・・>ミー、●●・<ラー●●│
>レー●●・レー●<ミ・・<ソーーー・>ファーーー│
>ミーーー・>レーーー・・>ドーーー、・<ソーー<ラ│
<ドーーー・>シーーー・・>ラーーー・<シーーー│
>ソーーー・ーー●●・・●●●●♪
これがA部だとすると、B部は、
主要主題の後半部分を短化して断片的に繰り出す
パッセージ的なものである。
A部が戻り、C部となる。
C部は実質変ロ長調に転じて
主要主題の前半部分を断片的に繰り出す。途中、
短期的にニ長調に帰るがまた変ロ長調に戻り、次いで、
冒頭の導入部が再現され、
提示時と同様にA部が再現される。そして、
短い結尾部に移行し、このような曲の終い附近で
チャイコフスキーが必ず行う短期高揚転調が3小節。
すぐにニ長調に戻って曲を閉じる。このように、
[A-B-A-C-A]
という「小ロンド形式」とスキャンすることもできる。もちろん、
ロンドン形式ではない。ともあれ、
やはりこの曲はチャイコフスキーにしては
力の入ってないやっつけ仕事という感は否めない。

ちなみに、
ナチュラル・トランペットやそれに王家や皇帝の紋章旗を垂らした
ヘラルド・トランペットで吹奏するには難しい音が使われてるし、
ティンパニと同期してるわけでもないので、
そうした管をチャイコフスキーは意図したわけではなさそうだが、
「式典祝賀」という性質上、トランペットは
D管が指定されてる。ただし、
1885年というこの時期には、
チャイコフスキーが他のニ長調の管弦楽作品にD管を指定することは
すでになくなってるので、ことさらD管としたということは、
あるいはナチュラルトランペットあるいはそれに準ずるものを
要求してるのかもしれない。いずれにせよ、
管のことなどクダクダ、否、グタグタと言わずに
「勝手にしやがれ!」とばかりに拙速に陥って
現在のB管ピストン・トランペットで吹かせる
指揮者などと称するむきには、このような曲であっても、
チャイコフスキーをやる意味がないことだけは確かである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「チャイコフスキーの聖人の日=ペトロの聖名祝日は6月29日」

2012年07月11日 23時44分07秒 | チャイコ全般(6つの目のチャイコロジー
帝政ロシアではユリウス暦を頑なに使用してた。
1582年に始まった現行グレゴリオ暦とはその
閏年の算定法が異なるために日付にズレがある。
(詳細は、http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/m/200412/1 に書いた)
チャイコフスキーが生きてた1840年から1893年は、
(おおざっぱに)1800年から1899年までの、
現行グレゴリオ暦との差が「12日(グレゴリオ暦が先行する)」あった。たとえば、
チャイコフスキーの誕生日は、
ユリウス暦では1840年4月25日であるが、それを
現在の暦(グレゴリオ暦)にあてはめると、
1840年5月7日に相当する。同様に、
命日はユリウス暦では1893年10月25日であり、
グレゴリオ暦換算では1893年11月6日である。

ところが、
キリスト教には聖人を崇めるために、
1年365日にそれぞれ聖人の祝日が割り振られてる。
(365日であるから2月29日はその限りではない)
いわゆる聖名祝日(英語でname day)というものである。
チャイコフスキーの場合、名はロシア語でピョートルである。これはつまり、
キリスト一家の大政ともいうべき、12使徒の長ペトロに因んだ名である。
英語ではPeter(ピーター)、フランス語ではPierre(ピエル)、
イタリア語では Pietro(ピエトロ)、スペイン語でPedro(ペドロ)&カプリシャス、
カプリッチョ・イタリアーノ、カッフェ・マッキアート、
♪別れの朝、ふたりは、さめたコーヒー、飲みほし♪である。
で、
チャイコフスキーが生きてた当時のユリウス暦はグレゴリオ暦に遅れること12日であるから、
当時はグレゴリオ暦7月11日がチャイコフスキーの「聖名祝日(名の日)」だった。ちなみに、
現在ならふたつの暦の差は13日なので明日7月12日が
チャイコフスキーの「聖名祝日(名の日)」ということになるが、
そもそもすでにチャイコフスキーは存在しないので、
そう考えるのはナンセンスである。ときに、
チャイコフスキー自身の聖名祝日のための曲などはないが、
師であり友でもあったといういわゆる
「ニコライ・ルビンシテーインの聖名祝日のためのセレナード」
という作品はある。ちなみに、
一年をクリスマスの夜の一夜で過ごすいい男、
Santa Claus(いわゆるサンタ・クロース)は、
4世紀東トーマ帝国の司教ニコラオスが起源とされてる。
Nioclasはイタリア語ではNiccolo(ニッコロ)でジャガイモではなくパガニーニの名であり、
ドイツ語のKlaus(クラオス)や英語のNick(ニック)やColin(コリン)はニコラスの"ニック"ネイムで、
米元大統領のNixon(ニクスン)も女優のキッドマンのニコウルもその派生名である。
ともあれ、
聖ニコラウスの聖人祝日は12月6日である。現在のグレゴリオ暦ではそれが
12月19日となるから、「クリスマス」に近い。
2700年には12月25日になる。なるほど、
靴下プレゼンターに選ばれたわけである。

さて、
キリストの弟子にして初代ローマ法皇と看做されてるペトロは、
本名はシメオン(シモン)だったという。ペトロはイエスが与えた
ホウリー・ネイムで、アラム語で「ケファス」(岩の一片=石)である。
そのギリシャ語の「ペトロス」がラテン語に伝わり、上記のごとく、
現在の諸国の語になった。ペトロはもともとは
ガリラヤ湖で漁師をしてた。ちなみに、
教会の権威に屈しながらも
「それでも地球は回ってる」と捨て台詞を吐いたとされてる
ガリレーオ・ガリレーイの名はこのガリラヤ(周辺を意味するヘブライ語)に由来する。
ともあれ、
ロシア語で魚はルィーバ、漁師はルィバークという。いっぽう、
アイヌの言葉で凍った魚をルイベという。それはともかくも、
初期キリスト教では魚の形を単純意匠化したものが
「印」となってた。そして、それが「十字」でもあるのである。

イエスの受難(パッション)の際、ペトロは3度イエスを知らないと答えたとされる。
そして、皇帝ネロ(666)のキリスト教迫害のときに、
ペトロは十字架に逆さにかけられて殉教したとされる。
その遺骸が葬られたとされる丘に大聖堂が建てられた。だから、
その大聖堂をサン・ピエートロ(聖ペトロ)寺院というのである。
チャイコフスキーは自分の名の由来をもちろん知ってた。そして、
自身の嗜好と生きざまを迫害する者から死を要求される図を描いてた。だから、
最後の演奏会で指揮するのは、
パッションと同様に古代ギリシャ語のパテイン、パテートスを起源にするパテティクをタイトルに用いた
「サンフォニ・パテティク」でなければならなかったのである。
ロシア語のパテティーチェスカヤ(パテティーチェスキーの女性形)に「悲愴な」の意味はない、などと、
愚にもつかないことを吹聴し自慢する輩がいたものである。
ロシア語のパチェチーチェスキィには「情熱的な」「感情の」という意味しかないとしてもそれは、
元来のギリシャ語由来のラテン語の意味をロシア人が「はきちがえ」てただけのことなのである。
それをチャイコフスキーの意図にあてはめようとしてもしょせん虚しいだけである。
それから、余談だが、いまだに、
「悲愴」というタイトルは弟のモデストがつけた、
などというガセネタが真実として流通してる"遅れよう"である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする