今年は、個別に採りあげてた、
没後400年の大久保長安、浅野幸長、
生誕450年の細川忠興、の他に、
真田幸隆生誕500年、
加藤嘉明生誕450年、
京極高次生誕450年、
寺沢広高生誕450年、
池田輝政没後400年、
という年でもあった。
池田輝政については、4年前に、
「信濃町と三島由紀夫」
( http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/4fc539f2b19da9bd18df8b6f8f9c34f8 )
「『47』という奇妙な数字/文楽忠臣蔵」
( http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/b2443867547b6e395cfa745976a0555f )
でそれぞれほんのすこしずつ触れてるので、今回は、
真田幸隆、加藤嘉明、京極高次、寺沢広高、の4人について、
わずかばかりずつふれてみる。
真田幸隆(さなだ・ゆきたか、西暦およそ1513-同1574)は、
我が先祖の主筋にあたる人物である。
天文10年(西暦およそ1541年)に信玄の父武田信虎の
武田・村上・諏訪軍が、上杉をバックボーンとする
海野・禰津・望月・真田ら小県(ちいさがた)の滋野一族軍とで戦わされた
バトルロワイヤル的な「海野平の合戦(うんのだいらのかっせん)」で、
真田幸隆は上杉から武田(信虎から晴信=信玄に当主交代)に乗り換え、その後、
嫡男信綱とともに、いわゆる「武田二十四将」の一人となった。ちなみに、
次男昌輝も「武田二十四将」の一人、さらには、
三男の武藤昌幸(兄二人が長篠で討ち死にして真田に復す)も、
「武田二十四将」の一人として書かれ、また、描かれてる。いずれにせよ、
親兄弟が4人も"二十四将"に数えられてるのは、
譜代の武田家臣をさしおいて真田家だけである。
幸隆は早々に隠居して長男信綱に家督を譲ってたため、
他の名だたる二十四将が長篠で討ち死にする前に病死した。
真田家は三男昌幸の長男信幸が上田から松代10万石となり、
さらには譜代格となり、明治まで続いた。
養蚕、菜種、杏栽培、松代焼、などを殖産した。
(エノキダケ栽培は昭和になってから)
加藤嘉明(かとう・よしあきら、西暦およそ1563-同1631)は、
秀吉の家来として、「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられる。
秀吉没後の関ヶ原では東軍に属し、その武功で、
松山20万石の大大名となった。そして、
蒲生家の継嗣不届きでその会津と国替えとなり、
40万石を与えられた。という、
戦国の世をうまく渡り歩いてきた武将である。ただし、
その死後に嫡子明成(あきなり)が家臣と対立して、いわゆる
会津騒動を起こして、所領返上を願い出た。が、
それは認められず、改易となり、嘉明の功労で
1万石を与えられた。が、明成はそれも拒否し、その子
明友(あきとも)に石見吉永(よしなが)1万石が与えられた。その後、
その忠勤によって近江水口2万石に加増転封となり、さらには
譜代の格式まで与えられ、下野壬生(みぶ)2万5千石を経て再び、
近江水口(みなくち)2万5千石となって明治まで続いた。
水口は東海道の宿場町でもあったので、
山野に生える葛藤(つづらふじ)を編んだ籐細工物を
旅人の土産用名産品とした。また、干瓢の産地でもある。
京極高次(きょうごく・たかづぐ、西暦およそ1563-同1609)は、
源氏の名門で近江の守護だった家柄の出である。が、
家来筋の浅井家に下克上され、同家の客人扱いだった。
浅井家滅亡後も、明智についてしくじり、柴田勝家に匿われた。が、
妹が秀吉の側室となったことから次第に加禄されてった。そして、
関ヶ原の際に東軍につき、猛将立花宗茂まで加わった
西軍の寄せて相手に踏ん張り、その功績によって、
近江大津6万石から若狭小浜8万5千石へ加増となった。
小さいながらも「国持」となったのである。
高次は大阪の陣前に病没するが、子の忠高の代に、
常高院となった正室初(茶々の妹、小江の姉)の
豊臣家との交渉人としての功績、また、
秀忠の四女を正室としてたことで、
毛利の目付役として松江23万5千石に大加増された。が、
正室との不仲が将軍家の不興を買い、
死んだときに継嗣がなかったので改易とされかけた。ただし、
それまでの功労で末期養子が認められて、
高次の庶子の子である高和(たかかず。実は忠高の庶子とも言われる)に
播磨龍野6万石が与えられた。その後、
やはり幕府への功績が高かった山崎治頼の無嗣断絶で、
讃岐丸亀6万石として移封され、明治まで続いた。
竹の産地だったので「丸亀うちわ」生産が殖産され、また、
金比羅さまで稼ぐ藩となった。現在も、
東京には京極家の屋敷跡の虎ノ門に金比羅宮がある。
寺沢広高(てらざわ・ひろたか、西暦およそ1563-1633)は、
秀吉の家臣として出発し、名護屋8万3千石、長崎奉行にまで出世した。
秀吉死後は徳川に靡き、関ヶ原で東軍に属し、
天草領4万石を加増されて12万3千石を領するようになった。
功成り名を遂げて寛永年間に71歳で死去した。が、
子の堅高が跡を継いで4年後に島原の乱が起こり、事後、
責任を負わされて天草領4万石を召し上げられ、
10年後に自害して世継ぎなく、寺沢家は断絶した。
唐津はその後、大久保→大給松平(乗邑の家)→土井→水野(忠邦の家)
→小笠原(長行の家)と、譜代大名がめまぐるしく領した。
最後の小笠原家の下級武士の出に東京駅を設計した辰野金吾がいる。
唐津は広高が新田開発のために整えた「虹の松原」が景勝地となった。
煎ナマコ・アワビ・フカヒレなどを詰めた俵物を特産品とした。
没後400年の大久保長安、浅野幸長、
生誕450年の細川忠興、の他に、
真田幸隆生誕500年、
加藤嘉明生誕450年、
京極高次生誕450年、
寺沢広高生誕450年、
池田輝政没後400年、
という年でもあった。
池田輝政については、4年前に、
「信濃町と三島由紀夫」
( http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/4fc539f2b19da9bd18df8b6f8f9c34f8 )
「『47』という奇妙な数字/文楽忠臣蔵」
( http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/b2443867547b6e395cfa745976a0555f )
でそれぞれほんのすこしずつ触れてるので、今回は、
真田幸隆、加藤嘉明、京極高次、寺沢広高、の4人について、
わずかばかりずつふれてみる。
真田幸隆(さなだ・ゆきたか、西暦およそ1513-同1574)は、
我が先祖の主筋にあたる人物である。
天文10年(西暦およそ1541年)に信玄の父武田信虎の
武田・村上・諏訪軍が、上杉をバックボーンとする
海野・禰津・望月・真田ら小県(ちいさがた)の滋野一族軍とで戦わされた
バトルロワイヤル的な「海野平の合戦(うんのだいらのかっせん)」で、
真田幸隆は上杉から武田(信虎から晴信=信玄に当主交代)に乗り換え、その後、
嫡男信綱とともに、いわゆる「武田二十四将」の一人となった。ちなみに、
次男昌輝も「武田二十四将」の一人、さらには、
三男の武藤昌幸(兄二人が長篠で討ち死にして真田に復す)も、
「武田二十四将」の一人として書かれ、また、描かれてる。いずれにせよ、
親兄弟が4人も"二十四将"に数えられてるのは、
譜代の武田家臣をさしおいて真田家だけである。
幸隆は早々に隠居して長男信綱に家督を譲ってたため、
他の名だたる二十四将が長篠で討ち死にする前に病死した。
真田家は三男昌幸の長男信幸が上田から松代10万石となり、
さらには譜代格となり、明治まで続いた。
養蚕、菜種、杏栽培、松代焼、などを殖産した。
(エノキダケ栽培は昭和になってから)
加藤嘉明(かとう・よしあきら、西暦およそ1563-同1631)は、
秀吉の家来として、「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられる。
秀吉没後の関ヶ原では東軍に属し、その武功で、
松山20万石の大大名となった。そして、
蒲生家の継嗣不届きでその会津と国替えとなり、
40万石を与えられた。という、
戦国の世をうまく渡り歩いてきた武将である。ただし、
その死後に嫡子明成(あきなり)が家臣と対立して、いわゆる
会津騒動を起こして、所領返上を願い出た。が、
それは認められず、改易となり、嘉明の功労で
1万石を与えられた。が、明成はそれも拒否し、その子
明友(あきとも)に石見吉永(よしなが)1万石が与えられた。その後、
その忠勤によって近江水口2万石に加増転封となり、さらには
譜代の格式まで与えられ、下野壬生(みぶ)2万5千石を経て再び、
近江水口(みなくち)2万5千石となって明治まで続いた。
水口は東海道の宿場町でもあったので、
山野に生える葛藤(つづらふじ)を編んだ籐細工物を
旅人の土産用名産品とした。また、干瓢の産地でもある。
京極高次(きょうごく・たかづぐ、西暦およそ1563-同1609)は、
源氏の名門で近江の守護だった家柄の出である。が、
家来筋の浅井家に下克上され、同家の客人扱いだった。
浅井家滅亡後も、明智についてしくじり、柴田勝家に匿われた。が、
妹が秀吉の側室となったことから次第に加禄されてった。そして、
関ヶ原の際に東軍につき、猛将立花宗茂まで加わった
西軍の寄せて相手に踏ん張り、その功績によって、
近江大津6万石から若狭小浜8万5千石へ加増となった。
小さいながらも「国持」となったのである。
高次は大阪の陣前に病没するが、子の忠高の代に、
常高院となった正室初(茶々の妹、小江の姉)の
豊臣家との交渉人としての功績、また、
秀忠の四女を正室としてたことで、
毛利の目付役として松江23万5千石に大加増された。が、
正室との不仲が将軍家の不興を買い、
死んだときに継嗣がなかったので改易とされかけた。ただし、
それまでの功労で末期養子が認められて、
高次の庶子の子である高和(たかかず。実は忠高の庶子とも言われる)に
播磨龍野6万石が与えられた。その後、
やはり幕府への功績が高かった山崎治頼の無嗣断絶で、
讃岐丸亀6万石として移封され、明治まで続いた。
竹の産地だったので「丸亀うちわ」生産が殖産され、また、
金比羅さまで稼ぐ藩となった。現在も、
東京には京極家の屋敷跡の虎ノ門に金比羅宮がある。
寺沢広高(てらざわ・ひろたか、西暦およそ1563-1633)は、
秀吉の家臣として出発し、名護屋8万3千石、長崎奉行にまで出世した。
秀吉死後は徳川に靡き、関ヶ原で東軍に属し、
天草領4万石を加増されて12万3千石を領するようになった。
功成り名を遂げて寛永年間に71歳で死去した。が、
子の堅高が跡を継いで4年後に島原の乱が起こり、事後、
責任を負わされて天草領4万石を召し上げられ、
10年後に自害して世継ぎなく、寺沢家は断絶した。
唐津はその後、大久保→大給松平(乗邑の家)→土井→水野(忠邦の家)
→小笠原(長行の家)と、譜代大名がめまぐるしく領した。
最後の小笠原家の下級武士の出に東京駅を設計した辰野金吾がいる。
唐津は広高が新田開発のために整えた「虹の松原」が景勝地となった。
煎ナマコ・アワビ・フカヒレなどを詰めた俵物を特産品とした。
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