今日から100年前の1914年7月28日に、
オーストリアがセルビアに宣戦布告したことから
第1次世界大戦が始まった。その1か月前に
オーストリー=ハンガリー二重帝国支配下の
いわゆるボスニア=ヘルツェゴビナのいわゆるサラエヴォで
軍事演習視察遊説中のオーストリー=ハンガリー二重帝国の
フランツ・フェアディナント皇太子夫妻が
いわゆるセルビアの民族主義共産主義に洗脳された
未成年テロリスト集団に暗殺された
(1人だけが成人で、同人だけが絞首刑)。
この日、その暗殺テログループは波状攻撃による暗殺を狙ってた。
第1陣は拳銃による狙撃を試みたが、
前を群衆にふさがれて狙いを定めることができず、
見送ってしまった。が、一説には、
警護があまりに軽すぎるので、
ルードルフが"うたかたの恋"で心中してしまったために
皇太子のおはちがまわってきた、
親スラヴ派でチェコ人の侍女を皇太子妃にして、あからさまに
自治国ボスニア・ヘルツェゴビナからまったく重要視されてない
皇太子が気の毒になってしまい、
引き金を引けずじまいで逃亡してしまったのだ、
という咄がある。ちなみに、
当初は帝国を継ぐなどと微塵も想定されてなかったため、
軍人となってたので"帝王学"の一環として
世界の見聞を広めるために、"80日間世界一周旅行"に出された。そして、
明治末期の日本へも立ち寄ったのである。帰国後、
フランツ・フェアディナントは本庭園を造ったほど日本文化に感嘆した。
そして、日本でのことをつぶさに日記に認めた。それは、
ヨーロッパで出版され、
「オーストリア皇太子の日本日記」(講談社学術文庫)
として日本でも訳本が発行されてる。ともあれ、
第2陣は車(コンヴァーチブル)めがけて手榴弾が投げつけられた。が、
爆弾は車のうしろに落ち、後続の車の前で爆発した。
そこに乗ってた警護の軍人3人と周囲の群衆20人が負傷した。
これにも異説があって、
皇太子は花束爆弾を放り込まれたが、
それを不審に思って道端に捨てた、というものである。いずれにせよ、
第2陣の犯人は失敗時のための青酸塩を飲もうとして
川に飛び込んだが水深が浅すぎたために岸に引きずりあげられて
一般の野次馬らによってたかって袋だたきにされた。
これに恐れをなした次番テロリストら4人は逃げ去った。が、
失敗に終わったことで逃げる気さえ失うほど落ち込んだ
プリンツィープは、それでも暗殺の緊張で腹が減り、
近くの軽食屋に入った。こうして、
もっとも期待されてなかった最後のプリンツィープだけが残った。
行事を中止するように箴言された皇太子はしかし、
爆発で怪我を負った者の中に重傷の者がいるときいて
見舞いに病院に行くときかなかった。
予定のコースではなく病院に急遽行くことになったため、
方角を間違えた車がとって返した。
軽食屋の窓から外をぼんやり眺めてたプリンツィープは
皇太子の車だと気がついた。そして、
慌てて外に飛び出した。すると、
車はプリンツィープの目の前にバックしてきたのである。
プリンツィープは皇太子に向けて銃を放った。それは、
首を貫通した。次いで、プリンツィープは今度は
妊娠中で身重の皇太子妃の腹を狙い撃ちした。
夫妻はともにほどなくして息絶えた。
犯行グループはほぼ一網打尽にされた。
未成年犯らはがんとして口を割らなかったが、
成人のイリイッチだけが自供した。
銃や爆弾はセルビア政府から供与されたものだ、と。
これに対して、オーストリアはセルビアに最後通牒をつきつけた。
だがそれでも、
当初はどの国もが巨大なオーストリー=ハンガリー二重帝国
(とその後ろ盾であるドイツ帝国)にセルビアは逆らわないと思ってた。
実際、セルビアはかなり譲歩した。が、
内政干渉となる項目だけは飲まなかった。結局、
期限切れでオーストリアはセルビアと国交を断絶した。そして、
宣戦布告をしたのである。
【中央同盟】
オーストリー=ハンガリー二重帝国+ドイツ帝国+オスマーン帝国(+ブルガリア王国)
vs
【三国協商】
ロシア帝国(セルビアの後ろ盾)+フランス共和国
という対立構図である。とはいえ、
それでもまだこの時点では単なる地域紛争程度にしか
思われてなかった。が、
ドイツが対フランス(まずはいつもパリが容易く陥落してきた
弱いフランスを叩きつぶして対露講和で一気に勝利を決する戦略)で
独英の緩衝地帯であるはずのベルギーを侵してしまったことで、
大英王国が黙っちゃいなくなってしまったのである。
そうして三国協商の一端を担ってた英国が参戦すると、当時、
日英同盟を組んでた日本もこの期に中国・朝鮮半島を狙う
ロシアの歯止めとして参戦し、
長期戦となっていったのである。ドイツ同様、
自国統一に手間がかかり、植民地争奪戦に乗り遅れた
イタリア王国もアフリカでの対仏植民地分割を狙って独墺方につき、さらには、
英国の要請をい蹴ってた米国もドイツのUボートに一般船を攻撃されて
対独戦に踏み切ったことでさらなる大規模戦となった。
そして、現在の紛争の大きな原因のひとつとなってる中東に関しては、
英国がユダヤ人に国家建設を宣言し(バルフォア宣言)、
アラブ諸国に対してはオスマーン帝国からの独立を約し(フサイン=マクマホン協定)、
その裏では仏露との間で戦後のオスマーン帝国領の分割を狙った(サイクスーピコ協定)、
"三枚舌"外交をヌケヌケと行ったのである。
米国参戦でヨーロッパ戦線は一気に連合国有利となった。
敗戦国ドイツは不景気の嵐が吹きまくり、
ナーツィス(国家社会主義ドイツ労働者党)などという
さも人民の味方のような名のうさんくさい政党の台頭を許し、
オーストリアは戦争継続中の1916年に、
フランツ・ヨーセフ皇帝が死んで、もう一人の甥カールが即位するも、
赤子の手をひねられるがごとく
フランツ・フェアディナントとは違って"血筋のいい皇后"の
親類を使った連合国の計略にはまり、
同盟国ドイツの信用を失い、帝国内異民族の蜂起に遭い、
敗戦とともにハプスブルグ家の国事不関与宣言をさせられ、
弱体化してた帝国は一気に崩壊することとなった。
いっぽう、日本はにわかに特需に湧き、
モボ・モガ文化に花が咲いて
はいからさんが通ったりした。
よく、中学の社会科で言われてた、
"第1次世界大戦によって米国は債務国から一気に債権国になった"
というキャッチフレイズのごとく、じつは日本も同様に、
債務国から債権国へと躍進したのである。とくに、
海運においては民間・軍事ともに"大国"となり、
それを警戒した米英によって、
ワシントン軍縮会議(1922年)、ロンドン軍縮会議(1930年)と、
相次いで日本の軍艦保有率の制限を受けることになった。そして、
第2次ロンドン軍縮会議では日本は回答条件受け入れがたく、
会議から脱退した。同様に不満を抱いたイタリアも脱退して、
実際には大恐慌対策が大失敗に終わったことを糊塗するために
米国民へ対外に目を向けさせ、さらに軍需による景気回復を狙った
貶日鬼畜ルーズヴェルトの計略にまんまとはまって
第2次世界大戦へと向かってったのである。
オーストリアがセルビアに宣戦布告したことから
第1次世界大戦が始まった。その1か月前に
オーストリー=ハンガリー二重帝国支配下の
いわゆるボスニア=ヘルツェゴビナのいわゆるサラエヴォで
軍事演習視察遊説中のオーストリー=ハンガリー二重帝国の
フランツ・フェアディナント皇太子夫妻が
いわゆるセルビアの民族主義共産主義に洗脳された
未成年テロリスト集団に暗殺された
(1人だけが成人で、同人だけが絞首刑)。
この日、その暗殺テログループは波状攻撃による暗殺を狙ってた。
第1陣は拳銃による狙撃を試みたが、
前を群衆にふさがれて狙いを定めることができず、
見送ってしまった。が、一説には、
警護があまりに軽すぎるので、
ルードルフが"うたかたの恋"で心中してしまったために
皇太子のおはちがまわってきた、
親スラヴ派でチェコ人の侍女を皇太子妃にして、あからさまに
自治国ボスニア・ヘルツェゴビナからまったく重要視されてない
皇太子が気の毒になってしまい、
引き金を引けずじまいで逃亡してしまったのだ、
という咄がある。ちなみに、
当初は帝国を継ぐなどと微塵も想定されてなかったため、
軍人となってたので"帝王学"の一環として
世界の見聞を広めるために、"80日間世界一周旅行"に出された。そして、
明治末期の日本へも立ち寄ったのである。帰国後、
フランツ・フェアディナントは本庭園を造ったほど日本文化に感嘆した。
そして、日本でのことをつぶさに日記に認めた。それは、
ヨーロッパで出版され、
「オーストリア皇太子の日本日記」(講談社学術文庫)
として日本でも訳本が発行されてる。ともあれ、
第2陣は車(コンヴァーチブル)めがけて手榴弾が投げつけられた。が、
爆弾は車のうしろに落ち、後続の車の前で爆発した。
そこに乗ってた警護の軍人3人と周囲の群衆20人が負傷した。
これにも異説があって、
皇太子は花束爆弾を放り込まれたが、
それを不審に思って道端に捨てた、というものである。いずれにせよ、
第2陣の犯人は失敗時のための青酸塩を飲もうとして
川に飛び込んだが水深が浅すぎたために岸に引きずりあげられて
一般の野次馬らによってたかって袋だたきにされた。
これに恐れをなした次番テロリストら4人は逃げ去った。が、
失敗に終わったことで逃げる気さえ失うほど落ち込んだ
プリンツィープは、それでも暗殺の緊張で腹が減り、
近くの軽食屋に入った。こうして、
もっとも期待されてなかった最後のプリンツィープだけが残った。
行事を中止するように箴言された皇太子はしかし、
爆発で怪我を負った者の中に重傷の者がいるときいて
見舞いに病院に行くときかなかった。
予定のコースではなく病院に急遽行くことになったため、
方角を間違えた車がとって返した。
軽食屋の窓から外をぼんやり眺めてたプリンツィープは
皇太子の車だと気がついた。そして、
慌てて外に飛び出した。すると、
車はプリンツィープの目の前にバックしてきたのである。
プリンツィープは皇太子に向けて銃を放った。それは、
首を貫通した。次いで、プリンツィープは今度は
妊娠中で身重の皇太子妃の腹を狙い撃ちした。
夫妻はともにほどなくして息絶えた。
犯行グループはほぼ一網打尽にされた。
未成年犯らはがんとして口を割らなかったが、
成人のイリイッチだけが自供した。
銃や爆弾はセルビア政府から供与されたものだ、と。
これに対して、オーストリアはセルビアに最後通牒をつきつけた。
だがそれでも、
当初はどの国もが巨大なオーストリー=ハンガリー二重帝国
(とその後ろ盾であるドイツ帝国)にセルビアは逆らわないと思ってた。
実際、セルビアはかなり譲歩した。が、
内政干渉となる項目だけは飲まなかった。結局、
期限切れでオーストリアはセルビアと国交を断絶した。そして、
宣戦布告をしたのである。
【中央同盟】
オーストリー=ハンガリー二重帝国+ドイツ帝国+オスマーン帝国(+ブルガリア王国)
vs
【三国協商】
ロシア帝国(セルビアの後ろ盾)+フランス共和国
という対立構図である。とはいえ、
それでもまだこの時点では単なる地域紛争程度にしか
思われてなかった。が、
ドイツが対フランス(まずはいつもパリが容易く陥落してきた
弱いフランスを叩きつぶして対露講和で一気に勝利を決する戦略)で
独英の緩衝地帯であるはずのベルギーを侵してしまったことで、
大英王国が黙っちゃいなくなってしまったのである。
そうして三国協商の一端を担ってた英国が参戦すると、当時、
日英同盟を組んでた日本もこの期に中国・朝鮮半島を狙う
ロシアの歯止めとして参戦し、
長期戦となっていったのである。ドイツ同様、
自国統一に手間がかかり、植民地争奪戦に乗り遅れた
イタリア王国もアフリカでの対仏植民地分割を狙って独墺方につき、さらには、
英国の要請をい蹴ってた米国もドイツのUボートに一般船を攻撃されて
対独戦に踏み切ったことでさらなる大規模戦となった。
そして、現在の紛争の大きな原因のひとつとなってる中東に関しては、
英国がユダヤ人に国家建設を宣言し(バルフォア宣言)、
アラブ諸国に対してはオスマーン帝国からの独立を約し(フサイン=マクマホン協定)、
その裏では仏露との間で戦後のオスマーン帝国領の分割を狙った(サイクスーピコ協定)、
"三枚舌"外交をヌケヌケと行ったのである。
米国参戦でヨーロッパ戦線は一気に連合国有利となった。
敗戦国ドイツは不景気の嵐が吹きまくり、
ナーツィス(国家社会主義ドイツ労働者党)などという
さも人民の味方のような名のうさんくさい政党の台頭を許し、
オーストリアは戦争継続中の1916年に、
フランツ・ヨーセフ皇帝が死んで、もう一人の甥カールが即位するも、
赤子の手をひねられるがごとく
フランツ・フェアディナントとは違って"血筋のいい皇后"の
親類を使った連合国の計略にはまり、
同盟国ドイツの信用を失い、帝国内異民族の蜂起に遭い、
敗戦とともにハプスブルグ家の国事不関与宣言をさせられ、
弱体化してた帝国は一気に崩壊することとなった。
いっぽう、日本はにわかに特需に湧き、
モボ・モガ文化に花が咲いて
はいからさんが通ったりした。
よく、中学の社会科で言われてた、
"第1次世界大戦によって米国は債務国から一気に債権国になった"
というキャッチフレイズのごとく、じつは日本も同様に、
債務国から債権国へと躍進したのである。とくに、
海運においては民間・軍事ともに"大国"となり、
それを警戒した米英によって、
ワシントン軍縮会議(1922年)、ロンドン軍縮会議(1930年)と、
相次いで日本の軍艦保有率の制限を受けることになった。そして、
第2次ロンドン軍縮会議では日本は回答条件受け入れがたく、
会議から脱退した。同様に不満を抱いたイタリアも脱退して、
実際には大恐慌対策が大失敗に終わったことを糊塗するために
米国民へ対外に目を向けさせ、さらに軍需による景気回復を狙った
貶日鬼畜ルーズヴェルトの計略にまんまとはまって
第2次世界大戦へと向かってったのである。
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