尊大不遜な言動が全国に知れわたって、
松本龍が辞任せざるをえなくなったらしい。
書いたらその社は終わりだからな、
という発言はテンツバだったようである。ちなみに、
その実家には過去に抗争で玄関に
数発の実弾が撃ち込まれたことがあるという。
さて、襲撃といえば、
文久元年5月28日(現行暦換算1861年7月5日)晩、
英国公使ラザフォード・オールコック(1809-1897)を誅さんとした
14人の旧水戸藩士が、当時公使館だった品川東禅寺に押しこみ、
襲撃したという事件があった。それから150年である。
この年の前年、
マイケル・モース(今期、4試合連続本塁打を記録した、
ワシントン・ナショナルズのステロイド使用歴あり選手ではない)と申す英国人が、
「江戸城の10里以内での火器使用禁止」令を破ったかどで
その召使が身柄を拘束されそうになった。モースは
銃で役人を脅した。が、もみ合ううちに発砲してしまい、
役人に傷を負わせた。そして、捕まった。
身柄は治外法権によって英国側に引き渡された。
公使オールコックはモースを領事裁判にかけ、罰金と
日本からの所払いを申し渡した。これにモースは不服で、
香港でオールコックに対する損害賠償訴訟を起こした。ために、
オールコックは香港に渡った。が、敗訴。モースに科した罰金の倍額の
損害賠償支払いを命じられた。そして、帰日。
長崎から江戸に向かうことになる。がしかし、
長崎奉行岡部駿河守長常が海路を勧めるのもきかず、
兵庫から江戸まで、陸路を採った。そのことに激怒したのが、
攘夷派水戸徳川家の士らである。
[神州日本が穢された]
そんなくだらなく思える体面で外国公使を誅さんとしたのである。が、
現時点で、しかも武士の家系でない者や、
武士の末裔であってもすでに「教え」が断絶された家に育った者などには
到底解らないだろうし、
農家出身の藤沢周平が描く武士はたしかにカッコいいかもしれないが、
「江戸時代の武士」とはそういうものなのである。とはいえ、
たしかに水戸徳川家は尋常でない。としても、
北朝鮮拉致実行犯の息子と関係する政治団体に献金した金を
別の民主党政治家の政治団体に横流しした疑惑が報じられてる菅直人のような、
中国、南北朝鮮、ロスィアに国を売る現在の民主党やなりすまし日本人よりは、
悪徳外人をミトめまいとするその精神は高邁である。
文久元年、
アメリカで南北戦争が始まり、ロスィアで農奴解放令が出され、
イタリアが統一され、清国で咸豊帝が死に、
現在、九段下交差点と俎橋の間に店がある寿司政が創業した年の
5月28日(現行暦換算1861年7月5日)、
水戸徳川家を脱藩した14人が南品川の虎屋と北品川の新竹島に分宿し、
昼に虎屋に集合した。夜に
両国川開きのどさくさにまぎれて小舟で向かったのが、
高輪大木戸のすぐ外にあたる「泉岳寺」だった。
当時は、今の第一京浜が東海道、つまり海岸線だったのである。
泉岳寺から東禅寺は近い。ともあれ、
オールコック一行は前日に戻ったばかりである。その晩、
在長崎英国領事モリスン、英国公使館書記官オリファントら、
計5人の英国人が東禅寺にいた。
幕府外国御用出役、大和郡山柳沢家家臣、
松平乗邑の系統の三河西尾松平家家臣など、
総勢200名ほどがその警護を命ぜられてた。
そのうち、幕臣1名と中間1人が襲撃犯に斬られて死亡。
モリスンは短銃で、オリファントは乗馬鞭で応戦。
前者は軽傷、後者は重傷を負った。が、
肝腎のオールコックは奥ですでに就寝してて無事だった。
襲撃一味は公使の寝室がどこか判らなかったのである。
襲撃一味は4人が警護の武士に斬られ、1人が生捕りにされた。
逃走した者はほとんどが自害または捕らえられて斬首された。
これだけでも判ると思うが、
14対200でも、斬り合いでは、多勢も全員が対峙するわけではない。
至近距離で抜刀するわけであるから、
多勢がみな刀を剥き身にしてたら、同士を誤って斬ってしまう。
警護のために提灯を掲げてたかもしれないが、
旧暦28日は新月に近く、深夜は真っ暗である。
双方、そんなに簡単に相手を討ち取ることはできない。さらに、
少なくとも襲撃方は鎖帷子を身につけてた。
現在の竹刀で行う剣道をみても判るとおり、
一本を取るのもなかなか難しい。なにより、
「真剣による実践経験」がないから大変である。もちろん、
多勢が有利ではあり、無勢が負けるのは時間の問題である。ちなみに、
即死しない程度の斬り傷はとてつもない苦痛となり悲惨らしい。ともあれ、
オールコックが岡部駿河守の言うとおりにしてればこんな無益な殺傷は
おそらく起こらなかっただろう。とくに、
警護方で死んだものは無駄死にである。が、
これが「江戸時代の武士」なのである。ときに、
このときから遡ること30年近く前に国外退去処分となりながら、
オランダ貿易会社顧問として再来日して幕府顧問となり、
芝赤羽接遇所(現在の大江戸線赤羽橋駅の北側)に
15歳の長男と滞在してたのが、いわゆるシーボルトである。
父子はこの事件をきいた翌朝、東禅寺に出向いた。
ズィーボルトは医師でもある。ちなみに、
オールコックも元外科医である。ともあれ、ズィーボルトの
長男がのちに著した「(邦題)ジーボルト最後の日本旅行」には、
このときの斬り合いのあとの様子が生々しく記されてる。
JA品川駅高輪口を駅舎を背にして右手(三田寄り)に
500m少し第一京浜を進み、歩道橋をくぐると左に入る道が現れる。
江戸時代はほぼこれが東禅寺の参道だったと思われる。ともかく、
その道を300mほど進むと東禅寺の山門が現れる。現在、
その周りは細かい民家になってるが、それでも、
深い緑に覆われた、不思議な一角である。そして、
鬱蒼とした木々の中に、昭和に建築された三重塔が立つ。
この東禅寺の敷地の奥には池があり、
その裏側には当時から高野山東京別院がある。
東禅寺はこの事件のあとも松本藩士による別の襲撃を受けた。
オールコックはその後、清国公使となり、そして引退する。が、
日本より北京に滞在した年月のほうが長いのに、
引退後に著したのは日本についてのものだけだった。
東禅寺(臨済宗)は仙台伊達家とその親戚である一関田村家と
縁が深い。対して、同じく禅寺である
泉岳寺(曹洞宗)はご存知赤穂浅野家の菩提寺である。そして、
伊達家と浅野家は不通の間柄(絶縁関係)である。ときに、
AKB48(フォーティーエイト)に対抗させる形で秋元康は
乃木坂46(フォーティースィクス)を結成するとのことである。が、
泉岳寺47(フォーティーセヴン)が設立されるという話は、咸豊帝の后の一人だった
西太后と東京都知事石原慎太郎の顔の区別がつかなくなることもある
拙脳なる私の耳には当然事ながら、一向に入ってこない。
松本龍が辞任せざるをえなくなったらしい。
書いたらその社は終わりだからな、
という発言はテンツバだったようである。ちなみに、
その実家には過去に抗争で玄関に
数発の実弾が撃ち込まれたことがあるという。
さて、襲撃といえば、
文久元年5月28日(現行暦換算1861年7月5日)晩、
英国公使ラザフォード・オールコック(1809-1897)を誅さんとした
14人の旧水戸藩士が、当時公使館だった品川東禅寺に押しこみ、
襲撃したという事件があった。それから150年である。
この年の前年、
マイケル・モース(今期、4試合連続本塁打を記録した、
ワシントン・ナショナルズのステロイド使用歴あり選手ではない)と申す英国人が、
「江戸城の10里以内での火器使用禁止」令を破ったかどで
その召使が身柄を拘束されそうになった。モースは
銃で役人を脅した。が、もみ合ううちに発砲してしまい、
役人に傷を負わせた。そして、捕まった。
身柄は治外法権によって英国側に引き渡された。
公使オールコックはモースを領事裁判にかけ、罰金と
日本からの所払いを申し渡した。これにモースは不服で、
香港でオールコックに対する損害賠償訴訟を起こした。ために、
オールコックは香港に渡った。が、敗訴。モースに科した罰金の倍額の
損害賠償支払いを命じられた。そして、帰日。
長崎から江戸に向かうことになる。がしかし、
長崎奉行岡部駿河守長常が海路を勧めるのもきかず、
兵庫から江戸まで、陸路を採った。そのことに激怒したのが、
攘夷派水戸徳川家の士らである。
[神州日本が穢された]
そんなくだらなく思える体面で外国公使を誅さんとしたのである。が、
現時点で、しかも武士の家系でない者や、
武士の末裔であってもすでに「教え」が断絶された家に育った者などには
到底解らないだろうし、
農家出身の藤沢周平が描く武士はたしかにカッコいいかもしれないが、
「江戸時代の武士」とはそういうものなのである。とはいえ、
たしかに水戸徳川家は尋常でない。としても、
北朝鮮拉致実行犯の息子と関係する政治団体に献金した金を
別の民主党政治家の政治団体に横流しした疑惑が報じられてる菅直人のような、
中国、南北朝鮮、ロスィアに国を売る現在の民主党やなりすまし日本人よりは、
悪徳外人をミトめまいとするその精神は高邁である。
文久元年、
アメリカで南北戦争が始まり、ロスィアで農奴解放令が出され、
イタリアが統一され、清国で咸豊帝が死に、
現在、九段下交差点と俎橋の間に店がある寿司政が創業した年の
5月28日(現行暦換算1861年7月5日)、
水戸徳川家を脱藩した14人が南品川の虎屋と北品川の新竹島に分宿し、
昼に虎屋に集合した。夜に
両国川開きのどさくさにまぎれて小舟で向かったのが、
高輪大木戸のすぐ外にあたる「泉岳寺」だった。
当時は、今の第一京浜が東海道、つまり海岸線だったのである。
泉岳寺から東禅寺は近い。ともあれ、
オールコック一行は前日に戻ったばかりである。その晩、
在長崎英国領事モリスン、英国公使館書記官オリファントら、
計5人の英国人が東禅寺にいた。
幕府外国御用出役、大和郡山柳沢家家臣、
松平乗邑の系統の三河西尾松平家家臣など、
総勢200名ほどがその警護を命ぜられてた。
そのうち、幕臣1名と中間1人が襲撃犯に斬られて死亡。
モリスンは短銃で、オリファントは乗馬鞭で応戦。
前者は軽傷、後者は重傷を負った。が、
肝腎のオールコックは奥ですでに就寝してて無事だった。
襲撃一味は公使の寝室がどこか判らなかったのである。
襲撃一味は4人が警護の武士に斬られ、1人が生捕りにされた。
逃走した者はほとんどが自害または捕らえられて斬首された。
これだけでも判ると思うが、
14対200でも、斬り合いでは、多勢も全員が対峙するわけではない。
至近距離で抜刀するわけであるから、
多勢がみな刀を剥き身にしてたら、同士を誤って斬ってしまう。
警護のために提灯を掲げてたかもしれないが、
旧暦28日は新月に近く、深夜は真っ暗である。
双方、そんなに簡単に相手を討ち取ることはできない。さらに、
少なくとも襲撃方は鎖帷子を身につけてた。
現在の竹刀で行う剣道をみても判るとおり、
一本を取るのもなかなか難しい。なにより、
「真剣による実践経験」がないから大変である。もちろん、
多勢が有利ではあり、無勢が負けるのは時間の問題である。ちなみに、
即死しない程度の斬り傷はとてつもない苦痛となり悲惨らしい。ともあれ、
オールコックが岡部駿河守の言うとおりにしてればこんな無益な殺傷は
おそらく起こらなかっただろう。とくに、
警護方で死んだものは無駄死にである。が、
これが「江戸時代の武士」なのである。ときに、
このときから遡ること30年近く前に国外退去処分となりながら、
オランダ貿易会社顧問として再来日して幕府顧問となり、
芝赤羽接遇所(現在の大江戸線赤羽橋駅の北側)に
15歳の長男と滞在してたのが、いわゆるシーボルトである。
父子はこの事件をきいた翌朝、東禅寺に出向いた。
ズィーボルトは医師でもある。ちなみに、
オールコックも元外科医である。ともあれ、ズィーボルトの
長男がのちに著した「(邦題)ジーボルト最後の日本旅行」には、
このときの斬り合いのあとの様子が生々しく記されてる。
JA品川駅高輪口を駅舎を背にして右手(三田寄り)に
500m少し第一京浜を進み、歩道橋をくぐると左に入る道が現れる。
江戸時代はほぼこれが東禅寺の参道だったと思われる。ともかく、
その道を300mほど進むと東禅寺の山門が現れる。現在、
その周りは細かい民家になってるが、それでも、
深い緑に覆われた、不思議な一角である。そして、
鬱蒼とした木々の中に、昭和に建築された三重塔が立つ。
この東禅寺の敷地の奥には池があり、
その裏側には当時から高野山東京別院がある。
東禅寺はこの事件のあとも松本藩士による別の襲撃を受けた。
オールコックはその後、清国公使となり、そして引退する。が、
日本より北京に滞在した年月のほうが長いのに、
引退後に著したのは日本についてのものだけだった。
東禅寺(臨済宗)は仙台伊達家とその親戚である一関田村家と
縁が深い。対して、同じく禅寺である
泉岳寺(曹洞宗)はご存知赤穂浅野家の菩提寺である。そして、
伊達家と浅野家は不通の間柄(絶縁関係)である。ときに、
AKB48(フォーティーエイト)に対抗させる形で秋元康は
乃木坂46(フォーティースィクス)を結成するとのことである。が、
泉岳寺47(フォーティーセヴン)が設立されるという話は、咸豊帝の后の一人だった
西太后と東京都知事石原慎太郎の顔の区別がつかなくなることもある
拙脳なる私の耳には当然事ながら、一向に入ってこない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます