チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「日はまた昇る(The Sun Also Rises)/ヘミングウェイ自殺から50年」

2011年07月02日 22時56分43秒 | 事実は小説より日記なりや?

ヘミングウェイ 日はまた昇る


今年はヘミングウェイの長編第一作である
"The Sun Also Rises(邦題=日はまた昇る)"が刊行されて(1926年)
85年めの年である。
来週から煎餅焼きを大量にしなければならないので、
今週末は録画物を観たり本を読んですごした。
我が家のささやかなカヴを漁ってたら、
リオハのマルケス・デ・リスカルという安ワインが出てきた。
それをガブ飲みしながら、ヘミングウェイの
"The Sun Also Rises"を読んだ。
中学1年のときに日本語訳を読んで以来、40年ぶりだった。
ヘミングウェイは"ストーリー・テラー"ではない。
凝った筋書きがあるわけでも、話の内容がワクワクするわけでもない。
この小説は書き手が1人称であり、
第1部はパリでの主人公ジェイクの恋人ブレットとの再会、
第2部はパンプローナのフィエスタと闘牛見物、
第3部はサン・セバスチャンでの休暇とブレットに呼び出されてマドリードへ、
というものである。たとえば、結婚、死、など、
なにかけじめとなるイヴェントで締めくくられるわけでもない。ちなみに、
パンプローナはスペインでもフランスに近い。すなわち、
イルーニャというバスク語の地名もつ町である。だから、
町の人々はベレ帽を被ってる。ちなみに、
ヴァイオリンの名手パブロ・デ・サラサーテの出身地である。
サン・セバスチャンも同じくバスクであるが、海沿いである。

この小説は1957年に、いわゆるタイロン・パワー、
いわゆるエヴァ・ガードナー女史主演で映画化された。
エロウル・フリン、メル・ファラーが共演してる。が、
いずれの役者も小説の設定よりだいぶ歳をくってる。
この映画を観た人は信じがたいだろうが、
タイロウン・パウアーとエロウル・フリンは若い頃は超二枚目俳優だった。
パワーはこの映画の翌年に44歳で、
フリンは2年後に50歳で、ともに心臓発作で死ぬ。いっぽう、
この映画当時オードリー・ヘプバーンの夫だったメル・ファラー演じる
ロバート・コーンはユダヤ人という設定ではあるが、
スコット・フィッツジェラルドを想定してるようにも思える。

"Lost Carrie Nation"
な作家だったヘミングウェイは、酒を売ってない米国で暮らせるはずもなく、
20代をパリで過ごしてた。
「日はまた昇る」の主人公ジェイクは、第1次大戦に従軍して負傷し、
性的不能者(Lost in Next Generation)になってしまったのである。
ブレットは英国貴族の未亡人だが、大戦に志願看護婦として従軍し、
ジェイクと知り合った。互いに最高の相手だったが、
性的関係も持ち得ないことは男女間には致命的である。
このジェイクの「性的不能」は、ヘミングウェイの
"Lost Generation"を表してる。
作家、しかも成功した作家(のちにはノーベル賞まで受ける)になったが、
ヘミングウェイは少年時代にすでに「終わって」たのである。
その少年時代の喪失は「母からの愛情の欠如」にある。

夏目漱石同様、ヘミングウェイもまた母親から疎まれた少年だった。あるいは、
三島由紀夫が祖母から女の子として扱われたように、
ヘミングウェイもまた母親から女の子のような扱いを受けた。
これは治しようがない心の傷である。
この「喪失」は埋め合わせがきかない。修復不可能なものである。
どんなに猫を愛しても、本来受けるべき母親からの愛は
けっして手に入れることはできない。
ヘミングウェイは62歳の誕生日を3週間後に控えた1961年7月2日、
銃自殺を遂げる。自殺家系だったこともあるだろうが、
少年期にすでに死んでたのである。
あとの人生はすべて惰性、あるいは、
癒せない傷を治そうとする不毛な努力だったのである。

筋がおもしろいわけでもないヘミングウェイの小説に読者がひきつけられるのは、
「強さ」の裏に「弱さ」「死の影」がちりばめられてるからである。
こういう子たちには、常に「死との直面」がつきまとう。
この小説には「ボクスィング」「釣り」「飲酒」「闘牛」といった、
実際にヘミングウェイが好きだったものが出てくるが、
それらはいずれも「格闘」「酩酊」「死と隣り合わせ」という、
「わかりやすさ」でくくることができる。

さて、
小説はこのように締めくくられる。
“Oh, Jake,” Brett said,
“we could have had such a damned good time together.”
Ahead was a mounted policeman in khaki directing traffic.
He raised his baton.
The car slowed suddenly pressing Brett against me.
“Yes,” I said.
“Isn't it pretty to think so?”
(以下、拙大意)
「ねえ、ジェイク」、とブレットは言った、
「あなたとだったらこんなふうにものすごく楽しかったのにね」
先のほうでカーキ色の制服の騎馬警官が交通整理をしてた。
警官は警棒でこちらに停車するように合図した。
タクシーが急ブレーキをかけたのでブレットの体が振られて私にもたれかかった。
「ああ」、と私は答えた。
「そういうことにしとくのがいちばんいいかもね」
*damnedは会話で用いられる強意語(とても、すごく、超)である。
**prettyは賢明な、一番いい、いい選択な、というような意味である。
***タクシーが急ブレーキをかけてマイナスの加速度が与えられる方向は、
  車の進行方向であって左右方向ではない。したがって、
  慣性力が働いてブレットは前に振られることはあっても
 横に体重移動することはない。ゆえに、
  "pressing Brett against me"はあきらかにヘミングウェイの
  「洒脱」狙いながらも理屈に合わない考え足らずな一文である。

「そう思うことが賢明なんだ」「それがいちばんいいんだ」
そして、自分の不幸とは関わりなく、日は明日も昇りまた沈む。
ヘミングウェイの人生観が傷ましくも誠実に表れてる「終わりかた」である。
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