今日、3月7日は、浄土宗の開祖ともいうべき
法然(1133-1212)の遷化800年にあたる日である。
ホーネンといってもフィンランドあたりの人ではないし、
ラップを口にしてた男でもない。ただ、
「なむ、あみだぶつ」
と唱えてただけである。別段、
「おててのしわとしわを合わせて、ナーーームーーー」
とかわい子ぶったわけでもない。法然は
平安末期から鎌倉初期に生きた。生まれは、
美作国久米南条稲岡荘(現在の岡山県久米南町)、
ということらしい。父親は、
押領使(おうりょうし=警察権を有する地方長官のようなもの)の
漆間時国(うるま・ときくに)で、母親は、
東京生まれのリヴ・ウルマン女史ではなく、先祖伝来の
ユダヤ渡来系秦氏の娘だそうである。美作国久米を支配してた
久米氏は、元来、大和国高市郡久米邑を本拠としてた。
「素晴らしい世界旅行」のナレーターをしてたわけではない。
大伴氏の一族と考えられてて、
♪宇陀の高城に鴫罠張る♪などという
宮中歌謡の「久米歌(くめうた)」にその名が残るように、
久米氏は初期大和王権の近衛部隊で、食料を手配する
兵站を担ってたと思われる。美作は、
鉄や銅の産地であり、踏鞴吹きが行われてた
美味し国なのである。そんな政治的な理由で
和銅年間に備前国から分離され、久米氏を含め、
大和王権に近い氏族が移ってきた。
漆間氏はおそらく久米氏と同族で、
宇佐八幡宮の神官だった漆島氏が、
そうして移り住み、立石氏を称した。その支流が
漆間氏で久米郡稲岡荘に住んだ。ここで、
話は前後するが、漆島氏は
九州に根をおろした渡来系辛島氏の一族であり、
のちに相模から九州北部を支配することになる
大友氏も波多野氏と繋がりがある。
大友氏の家紋は杏葉(ぎょうよう)であるが、
知恩院をはじめ浄土宗の宗紋が杏葉なのも、
法然の出自と関わってるのである。ちなみに、
大友氏の一族である立花氏は
祇園守紋として知られるが、もともとは
杏葉紋だったのである。さらにちなみに、
龍造寺氏やそれに取って代わった鍋島氏の
杏葉紋は大友氏にあやかっただけのことで、
血縁とは関係ない。
保延7年(西暦およそ1141年)、法然が数え9歳のとき、
土地に関わる係争で父親は夜討ちに遭い、
致命的な深手を負ってしまう。
幼いながら弓の達人だった法然は敵に矢を射かけ、
応戦する。その矢に顔を射抜かれた敵は、
法然の父親のとどめをさせずに逃げ去った。が、
瀕死状態だった父親は、
「仇を討つことを考えてはならない」
「出家しろ」
というような末期の言葉で、
法然の逸る気を抑えたとのことである。。
そうして、法然は仏門に入ったのだという。
学問にも秀でてた法然は、やがて、仏門の最高峰である
比叡山で修行することになる。そうして、
「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで
身分や性別に関係なく誰しもが
"平等に"西方極楽浄土へ往生できる、
という教えを説き、浄土宗の開祖とされたのである。
この「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、サンスクリットの
"namas(ナマス)"あるいは"namo(ナモー)"で、
「帰依する」「心底信じる」という意味だそうである。
現在もインドやネパールの挨拶語である
"namaste(ナマステ)"の"namas"と同源である。
"te"は「貴方」であり、
「貴方に帰依します」→「貴方を敬います」
という意味で、挨拶の言葉になったのである。けっして、
「お前を微塵切りにしてくれる」
という意味ではない。いっぽう、大和言葉の
「なも」「なむ」という終助詞は、活用語の未然形に接続して、
「……であってほしい」「……てくれよ」
と、非自己に対する願望を表す。
「[例文(※)]おてての皺と皺を合はせナモ(ナム)」
ともあれ、
法然が説く「専修念仏」は比叡山をも怒らせた。さらに、
東山の吉水(よしみず、現在の知恩院のあたり)に
草庵があったことから吉水教団と呼ばれてた法然らの教えに、
後鳥羽院が寵愛してた女房らが帰依して出家してしまった。
ついに上皇はキレて、女房らの出家先の僧二人を死罪とし、
数え75歳の法然は土佐国
(実際には関白九条兼実の援護で軽減されて讃岐国)へ、
高弟親鸞は越後国へ、流罪としたのである。このとき、
法然と親鸞は僧にとってもっとも屈辱的である僧籍を剥奪され
「還俗」させられた。そしてそれぞれに、
「藤井元彦(ふじい・もとひこ)」、「藤井善信(ふじい・よしざね)」、
という俗名をあてがわれたのである。これは、
明雲(みょううん、1115-1184)が約30年前の治承元年に
後鳥羽上皇の祖父後白川法皇によって天台座主の座を追われ、
「藤井松枝(ふじい・まつえだ)」という俗名を与えられて
伊豆国に配流とされたことになぞらえられた、
と思われる。ちなみに、
明雲は配流の途中、僧兵らによって奪還されて
その護衛のもとに比叡山に戻ったという。
のちに座主に返り咲き、平家寄りの立場をとったが、
平家の都落ちののち、替わって入京した源義仲らが起こした
クーデタのときに僧兵の長として戦い、討ち取られた。
それはさておき、
この「藤井」という氏であるが、これもまた、
渡来人で白猪(しらい)氏の一族である
葛井(ふじい)氏の流れである。現在も、
岡山県、そして、広島県、山口県には
「藤井」という名字が多い。
法然に深く帰依してた関白九条兼実が
配流期間中に死ぬ。それでも、
法然はたったの10か月で許され、讃岐をあとにした。が、
京への帰還は許されず、3年間、摂津国に滞在した。
入洛の許可が出て吉水に戻れたのは、
建暦元年(西暦およそ1211年)のことだった。そして、
翌年正月に衰弱し、25日(現行暦1212年3月7日)、
数え80歳で遷化した。前年11月、
高弟親鸞にも赦免の宣旨が下ってた。
師との再会を願うものの豪雪地帯の越後から動けなかった、
とされる。雪解け前に法然が死んでしまうのである。
親鸞は子供が幼かったこともあって越後に留まることを決めた、
のだという。これが結果として東国への布教に繋がった、
ということになってるらしい。ところで、
法然が5年ぶりに京に帰ってきたとき、
吉水の房は荒れ果ててたという。そこで、
房を整えるまでの間、
「専修念仏」思想には反対ながらも、法然らへの処罰にも反対だった
"前大僧正"慈円(1155-1225)が、
お隣の青蓮院に迎えたのだという。
慈円は明雲の弟子であり、九条兼実の実弟でもある。
知恩院には一昨年の10月に行ったのが最後だが、
それまでにも何度も行ったことがある。といって、
浄土宗門徒というわけではない。私はどちらかというと、
来世での極楽往生を約束されるよりは
現世でのO嬢相手の快楽をむさぼるほうがいい。そもそも、
来世などという「あの世での旅(Die Reise im Jenseits)」
そのものがないのだから。
法然(1133-1212)の遷化800年にあたる日である。
ホーネンといってもフィンランドあたりの人ではないし、
ラップを口にしてた男でもない。ただ、
「なむ、あみだぶつ」
と唱えてただけである。別段、
「おててのしわとしわを合わせて、ナーーームーーー」
とかわい子ぶったわけでもない。法然は
平安末期から鎌倉初期に生きた。生まれは、
美作国久米南条稲岡荘(現在の岡山県久米南町)、
ということらしい。父親は、
押領使(おうりょうし=警察権を有する地方長官のようなもの)の
漆間時国(うるま・ときくに)で、母親は、
東京生まれのリヴ・ウルマン女史ではなく、先祖伝来の
ユダヤ渡来系秦氏の娘だそうである。美作国久米を支配してた
久米氏は、元来、大和国高市郡久米邑を本拠としてた。
「素晴らしい世界旅行」のナレーターをしてたわけではない。
大伴氏の一族と考えられてて、
♪宇陀の高城に鴫罠張る♪などという
宮中歌謡の「久米歌(くめうた)」にその名が残るように、
久米氏は初期大和王権の近衛部隊で、食料を手配する
兵站を担ってたと思われる。美作は、
鉄や銅の産地であり、踏鞴吹きが行われてた
美味し国なのである。そんな政治的な理由で
和銅年間に備前国から分離され、久米氏を含め、
大和王権に近い氏族が移ってきた。
漆間氏はおそらく久米氏と同族で、
宇佐八幡宮の神官だった漆島氏が、
そうして移り住み、立石氏を称した。その支流が
漆間氏で久米郡稲岡荘に住んだ。ここで、
話は前後するが、漆島氏は
九州に根をおろした渡来系辛島氏の一族であり、
のちに相模から九州北部を支配することになる
大友氏も波多野氏と繋がりがある。
大友氏の家紋は杏葉(ぎょうよう)であるが、
知恩院をはじめ浄土宗の宗紋が杏葉なのも、
法然の出自と関わってるのである。ちなみに、
大友氏の一族である立花氏は
祇園守紋として知られるが、もともとは
杏葉紋だったのである。さらにちなみに、
龍造寺氏やそれに取って代わった鍋島氏の
杏葉紋は大友氏にあやかっただけのことで、
血縁とは関係ない。
保延7年(西暦およそ1141年)、法然が数え9歳のとき、
土地に関わる係争で父親は夜討ちに遭い、
致命的な深手を負ってしまう。
幼いながら弓の達人だった法然は敵に矢を射かけ、
応戦する。その矢に顔を射抜かれた敵は、
法然の父親のとどめをさせずに逃げ去った。が、
瀕死状態だった父親は、
「仇を討つことを考えてはならない」
「出家しろ」
というような末期の言葉で、
法然の逸る気を抑えたとのことである。。
そうして、法然は仏門に入ったのだという。
学問にも秀でてた法然は、やがて、仏門の最高峰である
比叡山で修行することになる。そうして、
「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで
身分や性別に関係なく誰しもが
"平等に"西方極楽浄土へ往生できる、
という教えを説き、浄土宗の開祖とされたのである。
この「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、サンスクリットの
"namas(ナマス)"あるいは"namo(ナモー)"で、
「帰依する」「心底信じる」という意味だそうである。
現在もインドやネパールの挨拶語である
"namaste(ナマステ)"の"namas"と同源である。
"te"は「貴方」であり、
「貴方に帰依します」→「貴方を敬います」
という意味で、挨拶の言葉になったのである。けっして、
「お前を微塵切りにしてくれる」
という意味ではない。いっぽう、大和言葉の
「なも」「なむ」という終助詞は、活用語の未然形に接続して、
「……であってほしい」「……てくれよ」
と、非自己に対する願望を表す。
「[例文(※)]おてての皺と皺を合はせナモ(ナム)」
ともあれ、
法然が説く「専修念仏」は比叡山をも怒らせた。さらに、
東山の吉水(よしみず、現在の知恩院のあたり)に
草庵があったことから吉水教団と呼ばれてた法然らの教えに、
後鳥羽院が寵愛してた女房らが帰依して出家してしまった。
ついに上皇はキレて、女房らの出家先の僧二人を死罪とし、
数え75歳の法然は土佐国
(実際には関白九条兼実の援護で軽減されて讃岐国)へ、
高弟親鸞は越後国へ、流罪としたのである。このとき、
法然と親鸞は僧にとってもっとも屈辱的である僧籍を剥奪され
「還俗」させられた。そしてそれぞれに、
「藤井元彦(ふじい・もとひこ)」、「藤井善信(ふじい・よしざね)」、
という俗名をあてがわれたのである。これは、
明雲(みょううん、1115-1184)が約30年前の治承元年に
後鳥羽上皇の祖父後白川法皇によって天台座主の座を追われ、
「藤井松枝(ふじい・まつえだ)」という俗名を与えられて
伊豆国に配流とされたことになぞらえられた、
と思われる。ちなみに、
明雲は配流の途中、僧兵らによって奪還されて
その護衛のもとに比叡山に戻ったという。
のちに座主に返り咲き、平家寄りの立場をとったが、
平家の都落ちののち、替わって入京した源義仲らが起こした
クーデタのときに僧兵の長として戦い、討ち取られた。
それはさておき、
この「藤井」という氏であるが、これもまた、
渡来人で白猪(しらい)氏の一族である
葛井(ふじい)氏の流れである。現在も、
岡山県、そして、広島県、山口県には
「藤井」という名字が多い。
法然に深く帰依してた関白九条兼実が
配流期間中に死ぬ。それでも、
法然はたったの10か月で許され、讃岐をあとにした。が、
京への帰還は許されず、3年間、摂津国に滞在した。
入洛の許可が出て吉水に戻れたのは、
建暦元年(西暦およそ1211年)のことだった。そして、
翌年正月に衰弱し、25日(現行暦1212年3月7日)、
数え80歳で遷化した。前年11月、
高弟親鸞にも赦免の宣旨が下ってた。
師との再会を願うものの豪雪地帯の越後から動けなかった、
とされる。雪解け前に法然が死んでしまうのである。
親鸞は子供が幼かったこともあって越後に留まることを決めた、
のだという。これが結果として東国への布教に繋がった、
ということになってるらしい。ところで、
法然が5年ぶりに京に帰ってきたとき、
吉水の房は荒れ果ててたという。そこで、
房を整えるまでの間、
「専修念仏」思想には反対ながらも、法然らへの処罰にも反対だった
"前大僧正"慈円(1155-1225)が、
お隣の青蓮院に迎えたのだという。
慈円は明雲の弟子であり、九条兼実の実弟でもある。
知恩院には一昨年の10月に行ったのが最後だが、
それまでにも何度も行ったことがある。といって、
浄土宗門徒というわけではない。私はどちらかというと、
来世での極楽往生を約束されるよりは
現世でのO嬢相手の快楽をむさぼるほうがいい。そもそも、
来世などという「あの世での旅(Die Reise im Jenseits)」
そのものがないのだから。
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