(ごじいんがはら(ごじいんがっぱら)の敵討)
NHKがテレビマンユニオンに外注してる
「世界ふれあい街歩き」を観てた母が言った。
「イギリスって必ず道端に車を駐めとくのね」
母は欧州の中では英国に行ったことがない。が、
そうかもしれない。確かに、
英国では車庫証明も要らないし、
大きな庭があってもそこには駐めずに
外の道に車を駐めてることがよくある。それに、
英語に「駐車場」にあたる言葉がない。
いわゆるガレージ(garage)は
フランス語のガラージュ(<garerガレ=しまう)である。
清水ミチコ女史と南明菜女史の顔を10ぺんに1度は
見間違えてしまう拙脳なる私は、子供の頃から
勉強ができないので本ばかり読んでた。
借りるのは大嫌いなので、すべて買ってしまう。
それが倉庫に溜まってしまって、
車庫にまで及ぶようになってしまった時期があった。
わざわざ近くに駐車場を借りてまで。
子供の頃から好きだった読み物の中でも、
洋の内外を問わず古典の
「敵討(仇討)」「復讐」ものが好きだった。
シェイクスピアの「ハムレット」、父デュマの「モンテ・クリスト伯」、
ユーゴーの「レ・ミゼラブル」、菊池寛の「恩讐の彼方に」、とか。当然に、
「浄瑠璃坂の仇討ち」の話には強い関心を抱いた。都心なので、
その坂跡に行ってみたりもした。同様に、
護持院跡にも出かけた。そこは、
現在の千代田区神田錦町2丁目で、将軍綱吉があの
隆光を住職に据えた寺である。享保2年の火事で焼失して、
音羽の護国寺に移された。が、跡地は、
江戸城外堀に近かった(現在の神田税務署から、
神田警察署の南、島津製作所あたり)ので、
その辺一帯が召し上げられて、一番原乃至四番原という
火除け地にされてた。その二番原が、
護持院の跡地で、護持院原(ごじいんがっぱら)と呼ばれてた。
将軍家の鷹狩りまで行われるほどの一面草の「原っぱ」だった。
そこでは数々の仇討ちが行われたらしい。で、
この天保6年(概ね1835年)の仇討ちを、
弘化3年(概ね1846年)の仇討ちと取り違える
偉い先生もいるくらいである。
余談だが、
弘化3年(概ね1846年)の8年前の天保9年(概ね1838年)に、
道場指南井上伝兵衛が金の無心を断ったことで逆恨みされ、
闇討ちされた。仇を討たれる前に先手をうって
その実弟で松山藩士の熊倉伝之丞を人を使って殺害した
本庄茂平次(鳥居曜藏の家来)は別件で捕まる。が、
遠島から中追放に刑を軽減されて小伝馬町の牢を出た。
牢屋暮らしで足が弱ってて歩けなかったので駕籠を頼んだ。
その駕籠が護持院原に差しかかったとき、
熊倉伝之丞の子伝十郎が井上伝兵衛の門弟で浪人の
小松典膳を助太刀に茂平次を討ち果たした。が、
見事本懐を遂げた二人だったが、
伝十郎は梅毒で死ぬことになる。
さて、
天保6年(概ね1835年)の仇討ちは、
「娘仇討ち」といわれる。多くの娘仇討ちは実際には、
助太刀が傷を負わせて、娘はとどめを刺すだけである。が、
この娘仇討ちは一の太刀を娘が入れた点で
他とは大きく異なる。ともあれ、
被害者の娘が仇を討ち取った仇討ちで、
当時は大変な評判になったようである。そして、
当時だけでなく、明治になってからも、
この仇討ちでりよの助太刀をした
叔父山本九郎右衛門によって綴られた
「山本復讐記」をもとにして、
三田村鳶魚が「烈女利与」、森鴎外が「護持院原の仇討ち」
という話を仕立てて書いてるほどである。
【事件のあらまし】
天保4年(概ね1833年)の師走26日の夜、
江戸城大手門前の姫路15万石酒井雅楽頭忠実(ただみつ)
(先々代藩主忠以(ただざね=酒井泡一の兄)の次男)の上屋敷。
上屋敷ではあるが、このとき、藩主は国元。
御金奉行(下士=下級武士)で55歳の山本三右衛門が、
相方が病気引きしたために単独で御金部屋で宿直をしてた。
使いの手紙を持って訪れた男を三右衛門は中に入れ、
手紙を読む。が、そのすきをはかって男は
三右衛門のうしろにまわる。変に気づいた三右衛門は
避けようとしたが、頭を打たれる。そして、
防御のために挙げた右手を切り落とされる。
老体なうえに無刀で応戦したものの、男は
金子(キンス)を盗むこともできずに逃げ去った。
駆けつけた他の藩士らが聴取した三右衛門の証言から、
下手人はこの藩の中間(ちゅうげん=脇差を許された雑用係。
山縣有朋は長州藩の中間身分だった)の亀蔵と判じた。が、
三右衛門は翌朝、絶命する。
【仇討ちの旅】
年末年始でやっと2月に敵討届出を許可された三右衛門の子は、
叔父九右衛門と犯人亀蔵の顔を知ってる
文吉という小者(こもの=中間より身分が低い雑用係)を伴って
仇討ちの旅に出ようとする。江戸幕府下では、
父母・兄などの尊属が殺害された場合に仇討ちが許される。
妻子や弟妹などの卑属の仇討ちは認められてなかった。つまり、
仇討ちは被害者の親や兄はできない。
三右衛門の娘は叔父によって女であることを理由に、とりあえず
江戸にて待つように説きふされる。
3人は亀蔵の生まれ故郷である伊勢に向かうことにした。
中山道の途中、まず上州厩橋(=前橋)に立ち寄った。酒井家は
姫路に転封になる前は前橋が所領だった。姫路のほうが
実入りがいいと考えて転封工作をした結果、
忠以の先代忠恭のときに移ったのである。ともあれ、
先祖代々の墓がある前橋で墓参をして本懐成就を祈願した。
そうして一行は伊勢に向かうが、亀蔵が戻った形跡はなく、
罪滅ぼしに高野山に向かったという頼りない証言をもとに
紀伊に向かうが埒があかない。大阪から四国、中国、
果ては九州にまで向かう。が、九右衛門の体調が悪くなる。
そこで、大阪で九右衛門は文吉が面倒をみながら養生し、
宇平一人が探索の旅に出ることになった。
【本懐】
すでに1年半が過ぎてた。九右衛門の体調は戻ったが、
宇平からの音信が絶えてた。そこに、
江戸表から亀蔵を江戸で見たという情報を得たという知らせが届く。
九右衛門と文吉は宇平を待たず江戸に戻る。
天保6年(概ね1835年)7月11日、九右衛門と文吉は品川に着く。
翌々日の13日、二人はまず浅草寺でお参りをして亀蔵を探す。
芝居小屋も人はまばらになってた。髪結床の前に来たとき、
何気なく簾の中を覗くと月代をそらせてる男がいた。
亀蔵だった。二人はあとをつける。
亀蔵は柳原から筋違御門八ツ小路(現在の神田須田町あたり)、
三河町(現在の神田司町と美土代町のあたり)、そして、
護持院原あたりまで歩いていった。そこで、
九右衛門は亀蔵を誰何する。
亀蔵は虎蔵だととぼける。そこで、
文吉を対面させる。やっと往生する亀蔵。ただ、
亀蔵というのが偽名で泉州生まれの虎蔵が本当だったと判る。ずっと
酒井家の親戚の旗本酒井亀之進の御茶の水の屋敷に奉公に出てた
りよを呼びにやった。表向きは、
母親の体調が悪いので四、五日暇をいただきたい旨の書状を持って。が、
主人亀之進をはじめ、みなが「そのときがいよいよ来た」
ということを心得てたのである。
りよは護持院原に駆けつけた。すでに深夜である。
りよの到着と同時に、九右衛門と文吉は
それまで捕縛してた虎蔵を解き放つ。
虎蔵はりよに体当たりして逃げようとはかる。が、
りよは気丈にも父の形見の短刀を袈裟懸けに振り下ろし、
虎蔵の肩から胸に一の太刀を入れた。次いで、
ニの太刀、三の太刀を入れる。そして、
九右衛門がとどめを刺した。
【事後】
三人は仇討ちを遂げた最寄りの辻番所である
本多伊予守頭取に届け出た。辻番人が聞き取り、
大目付に届けられた。りよの亡き父の主君である
酒井家にも知らせが届けられた。ちなみに、
姫路藩酒井家は4月に藩主が忠学に替わってた。
各方面の取り調べを経て、「敵討成就」が認められる。
最終的に御沙汰済みとなるのは半月以上あとである。
その間、何度も呼び出されて聴取される。
検視などもきちんと行われ、疵の箇所や深さまで
克明に記録される。証言と証拠の間に齟齬がないか、
卑怯なことが行われなかったか、
確かに比べられるのである。ともあれ、明けて
三人の身柄は酒井家が出した駕籠でその上屋敷に移される。
現場である護持院原は朝から庶民でごったがえす。これも
現在と変わらない。
りよは亡父の家禄を安堵され家名存続を許された。
姫路の家老本多意気揚(ほんだ・いきり)に仕えてた九右衛門は、
藩主酒井忠学から本多への思し召しによって、
百石取りに加増され、しかも用人の上席とされた。
文吉も酒井家の目付役所に呼び出された。そして、
九右衛門の家来という身分で、
「格段の働きによって小役人格に召し抱える」
ということになり、四両二人扶持という最下等ではあるが、
れっきとした士分になって、酒井家の
小石川原町(現在の文京区千石、白山あたり)の
下屋敷の番人に取り立てられた。
宇平は仇討ちへの意欲が続かず木曾路から江戸への道中で
長逗留してしまい、大事の場にも居合わさなかったとして、
不謹慎につき押込隠居を申し付けられたという。
ある意味、幸せ者である。ただ
家督を継げないというだけであって、
押込の期間が解ければあとは自由なのだから。
本でも読んで余生を送るもよし、
チャイコフスキーの音楽を聴いたり考えたりするもよし。
羨ましいかぎりである。が、
武士とはそういうものではないのである。
ひとつ腑に落ちないことがある。
この仇は、浅草から柳橋、神田須田町、そして、護持院原、と、
なぜそんな方面なんぞに向かって歩ってったんだ、
ってことである。護持院原を抜ければ、その先は、
「現場」である。つまり、てめえが悪事を働いた
酒井家の上屋敷に出ちまうってえのに。
「現場」近くを歩いても誰にも気づかれないか、
大胆にも楽観的に探りに行ったのかもしれない。
往々にしてそういうことが命取りになる、
ということは歴史に学ぶことができる。虎蔵は、
もとより歴史に学ぶ類の人間でも人生でもないが。
NHKがテレビマンユニオンに外注してる
「世界ふれあい街歩き」を観てた母が言った。
「イギリスって必ず道端に車を駐めとくのね」
母は欧州の中では英国に行ったことがない。が、
そうかもしれない。確かに、
英国では車庫証明も要らないし、
大きな庭があってもそこには駐めずに
外の道に車を駐めてることがよくある。それに、
英語に「駐車場」にあたる言葉がない。
いわゆるガレージ(garage)は
フランス語のガラージュ(<garerガレ=しまう)である。
清水ミチコ女史と南明菜女史の顔を10ぺんに1度は
見間違えてしまう拙脳なる私は、子供の頃から
勉強ができないので本ばかり読んでた。
借りるのは大嫌いなので、すべて買ってしまう。
それが倉庫に溜まってしまって、
車庫にまで及ぶようになってしまった時期があった。
わざわざ近くに駐車場を借りてまで。
子供の頃から好きだった読み物の中でも、
洋の内外を問わず古典の
「敵討(仇討)」「復讐」ものが好きだった。
シェイクスピアの「ハムレット」、父デュマの「モンテ・クリスト伯」、
ユーゴーの「レ・ミゼラブル」、菊池寛の「恩讐の彼方に」、とか。当然に、
「浄瑠璃坂の仇討ち」の話には強い関心を抱いた。都心なので、
その坂跡に行ってみたりもした。同様に、
護持院跡にも出かけた。そこは、
現在の千代田区神田錦町2丁目で、将軍綱吉があの
隆光を住職に据えた寺である。享保2年の火事で焼失して、
音羽の護国寺に移された。が、跡地は、
江戸城外堀に近かった(現在の神田税務署から、
神田警察署の南、島津製作所あたり)ので、
その辺一帯が召し上げられて、一番原乃至四番原という
火除け地にされてた。その二番原が、
護持院の跡地で、護持院原(ごじいんがっぱら)と呼ばれてた。
将軍家の鷹狩りまで行われるほどの一面草の「原っぱ」だった。
そこでは数々の仇討ちが行われたらしい。で、
この天保6年(概ね1835年)の仇討ちを、
弘化3年(概ね1846年)の仇討ちと取り違える
偉い先生もいるくらいである。
余談だが、
弘化3年(概ね1846年)の8年前の天保9年(概ね1838年)に、
道場指南井上伝兵衛が金の無心を断ったことで逆恨みされ、
闇討ちされた。仇を討たれる前に先手をうって
その実弟で松山藩士の熊倉伝之丞を人を使って殺害した
本庄茂平次(鳥居曜藏の家来)は別件で捕まる。が、
遠島から中追放に刑を軽減されて小伝馬町の牢を出た。
牢屋暮らしで足が弱ってて歩けなかったので駕籠を頼んだ。
その駕籠が護持院原に差しかかったとき、
熊倉伝之丞の子伝十郎が井上伝兵衛の門弟で浪人の
小松典膳を助太刀に茂平次を討ち果たした。が、
見事本懐を遂げた二人だったが、
伝十郎は梅毒で死ぬことになる。
さて、
天保6年(概ね1835年)の仇討ちは、
「娘仇討ち」といわれる。多くの娘仇討ちは実際には、
助太刀が傷を負わせて、娘はとどめを刺すだけである。が、
この娘仇討ちは一の太刀を娘が入れた点で
他とは大きく異なる。ともあれ、
被害者の娘が仇を討ち取った仇討ちで、
当時は大変な評判になったようである。そして、
当時だけでなく、明治になってからも、
この仇討ちでりよの助太刀をした
叔父山本九郎右衛門によって綴られた
「山本復讐記」をもとにして、
三田村鳶魚が「烈女利与」、森鴎外が「護持院原の仇討ち」
という話を仕立てて書いてるほどである。
【事件のあらまし】
天保4年(概ね1833年)の師走26日の夜、
江戸城大手門前の姫路15万石酒井雅楽頭忠実(ただみつ)
(先々代藩主忠以(ただざね=酒井泡一の兄)の次男)の上屋敷。
上屋敷ではあるが、このとき、藩主は国元。
御金奉行(下士=下級武士)で55歳の山本三右衛門が、
相方が病気引きしたために単独で御金部屋で宿直をしてた。
使いの手紙を持って訪れた男を三右衛門は中に入れ、
手紙を読む。が、そのすきをはかって男は
三右衛門のうしろにまわる。変に気づいた三右衛門は
避けようとしたが、頭を打たれる。そして、
防御のために挙げた右手を切り落とされる。
老体なうえに無刀で応戦したものの、男は
金子(キンス)を盗むこともできずに逃げ去った。
駆けつけた他の藩士らが聴取した三右衛門の証言から、
下手人はこの藩の中間(ちゅうげん=脇差を許された雑用係。
山縣有朋は長州藩の中間身分だった)の亀蔵と判じた。が、
三右衛門は翌朝、絶命する。
【仇討ちの旅】
年末年始でやっと2月に敵討届出を許可された三右衛門の子は、
叔父九右衛門と犯人亀蔵の顔を知ってる
文吉という小者(こもの=中間より身分が低い雑用係)を伴って
仇討ちの旅に出ようとする。江戸幕府下では、
父母・兄などの尊属が殺害された場合に仇討ちが許される。
妻子や弟妹などの卑属の仇討ちは認められてなかった。つまり、
仇討ちは被害者の親や兄はできない。
三右衛門の娘は叔父によって女であることを理由に、とりあえず
江戸にて待つように説きふされる。
3人は亀蔵の生まれ故郷である伊勢に向かうことにした。
中山道の途中、まず上州厩橋(=前橋)に立ち寄った。酒井家は
姫路に転封になる前は前橋が所領だった。姫路のほうが
実入りがいいと考えて転封工作をした結果、
忠以の先代忠恭のときに移ったのである。ともあれ、
先祖代々の墓がある前橋で墓参をして本懐成就を祈願した。
そうして一行は伊勢に向かうが、亀蔵が戻った形跡はなく、
罪滅ぼしに高野山に向かったという頼りない証言をもとに
紀伊に向かうが埒があかない。大阪から四国、中国、
果ては九州にまで向かう。が、九右衛門の体調が悪くなる。
そこで、大阪で九右衛門は文吉が面倒をみながら養生し、
宇平一人が探索の旅に出ることになった。
【本懐】
すでに1年半が過ぎてた。九右衛門の体調は戻ったが、
宇平からの音信が絶えてた。そこに、
江戸表から亀蔵を江戸で見たという情報を得たという知らせが届く。
九右衛門と文吉は宇平を待たず江戸に戻る。
天保6年(概ね1835年)7月11日、九右衛門と文吉は品川に着く。
翌々日の13日、二人はまず浅草寺でお参りをして亀蔵を探す。
芝居小屋も人はまばらになってた。髪結床の前に来たとき、
何気なく簾の中を覗くと月代をそらせてる男がいた。
亀蔵だった。二人はあとをつける。
亀蔵は柳原から筋違御門八ツ小路(現在の神田須田町あたり)、
三河町(現在の神田司町と美土代町のあたり)、そして、
護持院原あたりまで歩いていった。そこで、
九右衛門は亀蔵を誰何する。
亀蔵は虎蔵だととぼける。そこで、
文吉を対面させる。やっと往生する亀蔵。ただ、
亀蔵というのが偽名で泉州生まれの虎蔵が本当だったと判る。ずっと
酒井家の親戚の旗本酒井亀之進の御茶の水の屋敷に奉公に出てた
りよを呼びにやった。表向きは、
母親の体調が悪いので四、五日暇をいただきたい旨の書状を持って。が、
主人亀之進をはじめ、みなが「そのときがいよいよ来た」
ということを心得てたのである。
りよは護持院原に駆けつけた。すでに深夜である。
りよの到着と同時に、九右衛門と文吉は
それまで捕縛してた虎蔵を解き放つ。
虎蔵はりよに体当たりして逃げようとはかる。が、
りよは気丈にも父の形見の短刀を袈裟懸けに振り下ろし、
虎蔵の肩から胸に一の太刀を入れた。次いで、
ニの太刀、三の太刀を入れる。そして、
九右衛門がとどめを刺した。
【事後】
三人は仇討ちを遂げた最寄りの辻番所である
本多伊予守頭取に届け出た。辻番人が聞き取り、
大目付に届けられた。りよの亡き父の主君である
酒井家にも知らせが届けられた。ちなみに、
姫路藩酒井家は4月に藩主が忠学に替わってた。
各方面の取り調べを経て、「敵討成就」が認められる。
最終的に御沙汰済みとなるのは半月以上あとである。
その間、何度も呼び出されて聴取される。
検視などもきちんと行われ、疵の箇所や深さまで
克明に記録される。証言と証拠の間に齟齬がないか、
卑怯なことが行われなかったか、
確かに比べられるのである。ともあれ、明けて
三人の身柄は酒井家が出した駕籠でその上屋敷に移される。
現場である護持院原は朝から庶民でごったがえす。これも
現在と変わらない。
りよは亡父の家禄を安堵され家名存続を許された。
姫路の家老本多意気揚(ほんだ・いきり)に仕えてた九右衛門は、
藩主酒井忠学から本多への思し召しによって、
百石取りに加増され、しかも用人の上席とされた。
文吉も酒井家の目付役所に呼び出された。そして、
九右衛門の家来という身分で、
「格段の働きによって小役人格に召し抱える」
ということになり、四両二人扶持という最下等ではあるが、
れっきとした士分になって、酒井家の
小石川原町(現在の文京区千石、白山あたり)の
下屋敷の番人に取り立てられた。
宇平は仇討ちへの意欲が続かず木曾路から江戸への道中で
長逗留してしまい、大事の場にも居合わさなかったとして、
不謹慎につき押込隠居を申し付けられたという。
ある意味、幸せ者である。ただ
家督を継げないというだけであって、
押込の期間が解ければあとは自由なのだから。
本でも読んで余生を送るもよし、
チャイコフスキーの音楽を聴いたり考えたりするもよし。
羨ましいかぎりである。が、
武士とはそういうものではないのである。
ひとつ腑に落ちないことがある。
この仇は、浅草から柳橋、神田須田町、そして、護持院原、と、
なぜそんな方面なんぞに向かって歩ってったんだ、
ってことである。護持院原を抜ければ、その先は、
「現場」である。つまり、てめえが悪事を働いた
酒井家の上屋敷に出ちまうってえのに。
「現場」近くを歩いても誰にも気づかれないか、
大胆にも楽観的に探りに行ったのかもしれない。
往々にしてそういうことが命取りになる、
ということは歴史に学ぶことができる。虎蔵は、
もとより歴史に学ぶ類の人間でも人生でもないが。
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