チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「かぐや姫(筒=竹)と香具山とKAGIROHI/菟田のかがり火(07)」

2011年01月26日 00時31分01秒 | 歴史ーランド・邪図
「竹取物語」のあらすじを以下に示す。

今はもう昔となった時代の話である。竹を取って
いろんなものに利用してる讃岐造(さぬきのみやつこ)という翁がいた。
ある日、翁は光り輝いている竹に出くわす。その竹の中には、
三寸の体長のそれはそれは可愛い女の子がいたんやで。
翁はこれも縁だと妻の媼に育てさせることにした。すると、
翌日からは翁が切り出す竹は、
節と節との間の筒に金が入ってるものばかりになった。
翁は裕福になっていった。
拾った子も3箇月で大人の女の体の大きさにまで成長した。
(中略)
御室戸斎部の秋田を呼んでこの子の名をつけさせた。
「なよ竹(しなやかな竹)のかぐや姫」とつけた。
三日間盛大に宴を開いた。
(中略)
評判を聞きつけていろいろな者が言い寄った。が、
姫が出す課題に応えれた者はいなかった。そして、
帝も姫を召したいと所望する。が、姫は固辞する。とはいえ、
帝と姫は歌のやりとりをするようになる。が、それから
3年経った八月十五夜近くの月の夜に、かぐや姫はひどく泣いた。
不審に思って問うと、かぐや姫は答えた。
「私はこの人間世界の者ではありません。月の都の者です。
前世からの縁でこちらに参りました。でも、もう帰らねばなりません」
月より迎えの使者がやってきた。が、翁は姫を帰したくない。
姫を閉じこめてしまった。しかしながら、誰も手をかけてないのに、
戸も格子もすべて外れて開いてしまった。姫は翁を慰める。
「私とて月に戻るのは不本意です。でも、しかたありません。
せめて見送ってください」といって着物を形見に置いた。
優しい心をかけてくれた帝にも、壷の薬を置きみやげにした。
そうして姫は天の羽衣を羽織って昇天してしまった。
姫が去ったあと、翁と媼は血の涙を流して悲嘆にくれた。
帝も元気を失い、管弦の遊びなどもしなくなってしまった。
大臣や上達部を召して、「どの山が一番天に近いか」と尋ねると、
「駿河の国にある山が都からも近く、天にも近い」ということだった。
姫からもらった不老不死の薬も姫がいなくては何にもならないと、
「調岩笠(つきのいはかさ)」を召して、駿河の国にあるという山の頂上に
運んで燃やしてくれと命じる。
つきの岩笠は兵を伴って山へ登ったので、その山を
士に富む山→富士の山、と名づけた。
その煙は今でも雲の中へ立ち上ってると言い伝えられてる。

以上がおおすじである。
姫に言い寄る男たちのうち最終候補にしぼられた5人の中で、
阿倍御主人(あべのみうし、およそ635-703、最高位右大臣)、
大伴御行(おおとものみゆき、およそ646-701、最高位大納言)、
石上麻呂(いそのかみのまろ、およそ640-717、最高位左大臣)、
は実在の人物である。他の
車持皇子は藤原不比等(ふじわらのふひと、およそ659-720、最高位右大臣)、
石作皇子は多治比嶋(たじひのしま、およそ624-701、最高位右大臣左大臣)、
がモデルだろうと推定されてるらしい。5人はみな、
【壬申の乱に勝利した天武天皇とその妃で後に天皇となる持統、その孫文武天皇】
という天武系時代、すばわち、
【藤原京】時代に優勢だった人物ということになる。ただし、
石上麻呂と藤原不比等は事情が異なる。
石上麻呂は壬申の乱のときには大友皇子に付き従ってた。
バリバリの敗戦側である。しかしながら、敗戦後しぶとく、
外交官として天武の信任を得てくのである。一部では、
5人すべてが<壬申の乱の功臣>と書いてるむきもがるが、
明かな誤りである。ともあれ、もうひとり、
天智天皇の落胤という風評の藤原不比等は、壬申の乱のとき子供だったため、
処罰されずに田辺史大隅に匿われた。とはいえ、天武系の中にあって、
日の目を見ることはないはずだった。が、
アラフォーになってやっと、持統女帝が軽皇子を皇位につけるにあたって働き、
その軽皇子(文武天皇)に娘宮子を入内させる。これで、
不比等は権力を手に入れることに成功した。
宮子は首皇子(おびとのみこ、のちの聖武天皇)を産むのである。ついで、
宮子には異母妹にあたる光明子を首皇子に嫁がせる。
不比等の死後に光明子は皇后となるが、それは初の人臣皇后であり、
藤原氏の娘が皇后となる先例となったのである。
【光明】子、である。
石上麻呂は左大臣、藤原不比等は右大臣で、地位は前者が高いものの、
実質は後者が"プライム・ミニスター"だった。
およそ710年、平城京遷都のおりには、
石上麻呂は旧都となる藤原宮の留守居役を命じられ、
左大臣は完全なる名誉職となった。

さて、
帝はかぐや姫からもらった不老不死の薬を
【燃やす】のである。
記紀において、「火の神」を
【カグツチ】という。軻遇突智、迦具土などと書いたりする。
この燃やし役(ヤク)を仰せつかった調(ツキ)氏は、
中国後漢第12代皇帝霊帝の子孫といわれてる。
九州に勢力を張る。
坂上、大蔵、丹波、星野、黒木、蒲池などの名は、
この調氏の末裔である。黒木瞳女史や松田聖子女史も。ちなみに、
調(ツキ)とは「ミツギ」である。
租庸調の調である。絹やその他の布で納める税である。ともあれ、
帝は調(ツキ)を使者にして不老長寿の薬を日本一高い山への
ミツギ物にしたのである。

竹取の翁は、
「讃岐造(さぬきのみやつこ)」とされてる。また、
かぐや姫のゴッドファーザーは、
「三室戸斎部秋田(みむろとのいんべのあきた)」となってる。
讃岐国の忌部氏は、竹細工を献上(ミツグ)するために、
大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷に移り住んだ、とする説もある。
その三室戸斎部秋田が名付けた「かぐやひめ」は、似た名が、
「古事記」に垂仁天皇の妃「迦具夜比売命」として記されてる。
開化天皇の孫「大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)」の娘、
である。「筒(ツツ)」である。ちなみに、
垂仁天皇の皇后は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)である。
同皇后が薨去したとき、垂仁天皇は
野見宿禰の進言で、殉死者を埋める替わりに
埴輪を埋納することにした、ということに日本書紀ではなってる。
埴安の埴(=粘土)、である。
埴安を西麓に香具山は聳える。

いずれにせよ、
「竹取物語」は
[その煙いまだ雲の中へ立ちのぼるとぞ言ひ伝へたる]
と結ばれる。
【煙】が【立】ちのぼる、のである。
[東野炎立所見而反見為者月西渡]
この[炎]はいわゆる「ほのお」である。しかし、
燃焼は可燃物質と酸素の反応である。
煙は燃焼のうち、不完全燃焼で生じるススである。つまり、
本質的には同じものなのである。
故筑紫哲也さまは阪神淡路大震災発生反日、否、半日後に
上空からヘリコプターで長田区を見くだして、
「一番の印象はなんか温泉街に来たような感じがします」
と仰せになった。筑紫さまは、中央区佃の
お月様にまで届きそうな超高級超高層住宅に
生前は住まわれてたという。
ヘヴィスモウカーな筑紫さまは、常に副流煙を立ちこめさせてたという。

月には菟(ウサギ)がいる。
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