今日、9月11日日曜日の港区の休日診療指定機関のひとつは、
桜田通りと目黒通りに挟まれた一角、清正公の隣、
現在のシェラトン都ホテル東京の地下1階にある
「都ホテル東京メディカルクリニック」だった。最近は、
京都での投宿先は都ホテルでも新・都ホテルでもないが、
東京の都ホテルは若い頃から現在までなにかと利用してる。
演歌歌手新沼謙治が
♪よーーめにーーーーーーーーーーー、
こないかーーーーーーーーーーー♪
と求婚しはしなかったが、夫人でバドミントンの元世界チャンピオンだった
湯木博恵女史が乳癌原発性甲状腺転移癌で先日死んだ。
この[ド<レ<ミ<ソ>ミ>レ<ミ]という音列は、
*ヴァンサン・ダンディ「フランスの山人の歌による交響曲」終楽章(1886)
♪ド●<レ・<ミ●ミ│<ソ●>ミ・>レ●>ラ│
<ド●<レ・<ミ●ミ│<ソ>ミ>レ・<ミー●♪
→*エルネスト・ショーソン「交響曲変ロ長調」終楽章(1890)
♪ドー・ーー│
>ラー・ーー・・ーー・ーー│>ソー・ーー・・
<ドー・ーー│>ラー・ーー・・ーー・ーー│>ソー・ーー・・
<ドー・ーー│<レー・ーー<ミー・・ーー<ソー・ーー│
>ミー・ーー・・ーー・ー>レ│<ミーーーーーーー♪
→*宮城道雄「春の海」(1929)
♪レ<ミーーーーーーー・ーーーーーーーー・・<ソーーーーー>ミ>レ・>シーーー>ラーーー│
<シーーーーーーー・ーーーーーーーー・・ーーーーーーーー・●●●●●●●●♪
→*マルガリータ・レクオーナ女史「タブー」(1934)
(加藤茶の「あんたも好きね」)
♪ミーーー・ミーーー│ーーー>レ・<ミ<ソ>ミ>レ│
<ミーーー・ミーーー│ーーーー♪
→*團伊玖磨「ぞうさん」(1953)
♪ドー・ー>ラ・>ソー│<ドー・ー>ラ・>ソー│
<ドー・ー<レ・<ミ<ソ│>ミミ・>レ>ド・<レー♪
→*川口真「嫁に来ないか」(1976)
♪ドーー<レ│<ミーーー・ーーーー・・ーーーー、・<ソ>ミ>レ│
<ミーーー・ーーーー・・ーーーー♪
→*船村徹「矢切の渡し」(1983)
♪●●ドー・ドー<レー・・ミー<ソーー・ソ>ミ>レ│<ミーーー・ーーーー・・ーーーー・●●●●♪
と受け継がれてきた。
受け継がれるといえば、
「死の町」「放射能、くっつけてやる」
というバカガキ程度の言動で経産大臣職を別人に受け渡した、
貶日左翼なりすまし日本人集団民主党所属、
北朝鮮の手先機関である鉢呂吉雄は、
北海道樺戸郡新十津川町出身である。この町は、
明治22年8月の奈良県十津川村が、今回の
台風接近による大雨水害と同様の洪水で壊滅した村から、
新天地を求めて同村民が移住してできた町である。
奈良の十津川村は前田武志国交大臣の出身地でもある。いっぽう、
鉢呂という名字は、
金沢前田家の流刑地五箇山(合掌造りで有名な地)に多い。
この五箇山の民謡「こきりこ節」の
♪はーれのさんさもデデレコデン♪
の箇所の音型は、
♪ドー<レレ・>ドー>ラ>ソ│<ララララ・ラー●●♪
と一般には西洋音階の短調ふうに採譜されてるが、これは、
♪ソー<ララ・>【ソー>ミ>レ│<ミミミミ・ミー】●●♪
と長調ふうにスキャンすることもできる。ともあれ、
この民謡は日米戦争後にはほとんど途絶えようとしてた。が、
西条八十が訪れてこの歌をただひとり伝承してた
山崎しい媼を見つけて採譜に成功したとされてる。
途絶えたといえば、
昭和57年に火災で営業を閉ざしたのが、
ホテル・ニュージャパンである。この火災は
英国人宿泊客の寝煙草が原因とはいえ、
経営の才覚がなかった藤山愛一郎から買収した
横井英樹のケチケチ経営がもとで大火災をもたらした。
死者は33人だったが、そのうち日本人は
11人だった。ところで、
藤山愛一郎(1897-1985)といえば、
民間財界人から外務大臣になった人物である。が、
政治の世界に入ってから自民党総裁をめざし金を注ぎ込み、
父から受け継いだコンツェルンの屋台骨を危うくしてしまった。まだ、
ユナイティド航空もアメリカン航空も日本に就航してなかった頃、
日本航空もその設立時に藤山愛一郎が一枚噛んでた。
藤山愛一郎といっても今の人は知らないだろうが、
藤山一郎との区別もおぼつかない拙脳なる私にも、
神奈川1区から出馬してた自民党の政治家、
くらいの記憶しかない。が、
父藤山雷太が築いた「藤山コンツェルン」の2代目である。
新沼謙治が所属してた「コロムビア・レコード」もその傘下だった。ともあれ、
藤山家は佐賀鍋島家のいちおう家臣だった家柄である。
雅子皇太子妃殿下の母方の「江頭家」と同じく、
佐賀藩の中で「手明槍(てあきやり)」という階級だった。
鍋島家は主君だった龍造寺氏の衰退に乗じて主になった家である。
そのもともとの龍造寺氏の家来の中で、さほど
禄の高くなかった(50石未満といわれる)武士団を、「役なし」の、つまり、
とりあえず武士の身分を保障して有事に備えて切米の微禄を与えるが
平素は農家でも商家でもやっててかまわない、
という身分とされた家である。
藤山雷太も慶應出であるが、倅の愛一郎も幼稚舎から慶應に入った。
のちにその寄附で日吉キャンパスに作られたのが藤山記念図書館、現在の
藤山記念館である。ところで、
明治になって日本人が牛肉を一般に食うようになった頃、
もっとも食ってたのが塾生だった。それは、
塾唯一の先生である、白金に広大な土地と邸宅を所有した
福澤諭吉が牛肉を好んで食したことに、
塾生らがあやかったことにある。
明治2年に芝露月町(しばろうげつちょう、現在の新橋4丁目)に開店した
「中川屋」が東京で初の牛鍋屋だとされてる。幕末、
高輪東禅寺にあった英国公使館に牛肉をおろすために、
岡崎出身の中川嘉兵衛が横浜からでは鮮度が落ちるので、
親類である白金今里町の名主堀越藤吉所有の畑を借りて
場にした。東京で唯一の場だったので、
この牛はつまり、地方から運んできた食肉より傷んでないので
一種のブランド品だった。だから、
この場から仕入れた牛肉を扱ってる東京の牛鍋屋は
今里町の「今」を屋号に採り入れた。それが、
「今半」「今朝」である。
品川の港南口の芝浦屠場もそうだが、かつては場だったところが、
今では高級高層マンションが立ち並ぶ一角となってるのは
皮肉である。
都ホテル東京は昭和54年、白金台清正公隣の
藤山家の豪邸跡に建てられた。ちなみに、
藤山愛一郎は22日生まれで22日が命日である。この
シェラトン都ホテル東京の周りには、明治学院、清正公などがある。そして、
その清正公を桜田通りで挟んだ向かいには、
「シティータワー高輪」という高級高層マンションが聳え立つ。
ツインタワーもどきの外観であるが、ルーフバルコニーがチャチなのが惜しい。
高級マンションになど背伸びしても住めない低収入の私はこれから、
5300枚もの煎餅を焼かなければならない。
怠惰な私にはとてつもなくおっくうな作業である。
桜田通りと目黒通りに挟まれた一角、清正公の隣、
現在のシェラトン都ホテル東京の地下1階にある
「都ホテル東京メディカルクリニック」だった。最近は、
京都での投宿先は都ホテルでも新・都ホテルでもないが、
東京の都ホテルは若い頃から現在までなにかと利用してる。
演歌歌手新沼謙治が
♪よーーめにーーーーーーーーーーー、
こないかーーーーーーーーーーー♪
と求婚しはしなかったが、夫人でバドミントンの元世界チャンピオンだった
湯木博恵女史が乳癌原発性甲状腺転移癌で先日死んだ。
この[ド<レ<ミ<ソ>ミ>レ<ミ]という音列は、
*ヴァンサン・ダンディ「フランスの山人の歌による交響曲」終楽章(1886)
♪ド●<レ・<ミ●ミ│<ソ●>ミ・>レ●>ラ│
<ド●<レ・<ミ●ミ│<ソ>ミ>レ・<ミー●♪
→*エルネスト・ショーソン「交響曲変ロ長調」終楽章(1890)
♪ドー・ーー│
>ラー・ーー・・ーー・ーー│>ソー・ーー・・
<ドー・ーー│>ラー・ーー・・ーー・ーー│>ソー・ーー・・
<ドー・ーー│<レー・ーー<ミー・・ーー<ソー・ーー│
>ミー・ーー・・ーー・ー>レ│<ミーーーーーーー♪
→*宮城道雄「春の海」(1929)
♪レ<ミーーーーーーー・ーーーーーーーー・・<ソーーーーー>ミ>レ・>シーーー>ラーーー│
<シーーーーーーー・ーーーーーーーー・・ーーーーーーーー・●●●●●●●●♪
→*マルガリータ・レクオーナ女史「タブー」(1934)
(加藤茶の「あんたも好きね」)
♪ミーーー・ミーーー│ーーー>レ・<ミ<ソ>ミ>レ│
<ミーーー・ミーーー│ーーーー♪
→*團伊玖磨「ぞうさん」(1953)
♪ドー・ー>ラ・>ソー│<ドー・ー>ラ・>ソー│
<ドー・ー<レ・<ミ<ソ│>ミミ・>レ>ド・<レー♪
→*川口真「嫁に来ないか」(1976)
♪ドーー<レ│<ミーーー・ーーーー・・ーーーー、・<ソ>ミ>レ│
<ミーーー・ーーーー・・ーーーー♪
→*船村徹「矢切の渡し」(1983)
♪●●ドー・ドー<レー・・ミー<ソーー・ソ>ミ>レ│<ミーーー・ーーーー・・ーーーー・●●●●♪
と受け継がれてきた。
受け継がれるといえば、
「死の町」「放射能、くっつけてやる」
というバカガキ程度の言動で経産大臣職を別人に受け渡した、
貶日左翼なりすまし日本人集団民主党所属、
北朝鮮の手先機関である鉢呂吉雄は、
北海道樺戸郡新十津川町出身である。この町は、
明治22年8月の奈良県十津川村が、今回の
台風接近による大雨水害と同様の洪水で壊滅した村から、
新天地を求めて同村民が移住してできた町である。
奈良の十津川村は前田武志国交大臣の出身地でもある。いっぽう、
鉢呂という名字は、
金沢前田家の流刑地五箇山(合掌造りで有名な地)に多い。
この五箇山の民謡「こきりこ節」の
♪はーれのさんさもデデレコデン♪
の箇所の音型は、
♪ドー<レレ・>ドー>ラ>ソ│<ララララ・ラー●●♪
と一般には西洋音階の短調ふうに採譜されてるが、これは、
♪ソー<ララ・>【ソー>ミ>レ│<ミミミミ・ミー】●●♪
と長調ふうにスキャンすることもできる。ともあれ、
この民謡は日米戦争後にはほとんど途絶えようとしてた。が、
西条八十が訪れてこの歌をただひとり伝承してた
山崎しい媼を見つけて採譜に成功したとされてる。
途絶えたといえば、
昭和57年に火災で営業を閉ざしたのが、
ホテル・ニュージャパンである。この火災は
英国人宿泊客の寝煙草が原因とはいえ、
経営の才覚がなかった藤山愛一郎から買収した
横井英樹のケチケチ経営がもとで大火災をもたらした。
死者は33人だったが、そのうち日本人は
11人だった。ところで、
藤山愛一郎(1897-1985)といえば、
民間財界人から外務大臣になった人物である。が、
政治の世界に入ってから自民党総裁をめざし金を注ぎ込み、
父から受け継いだコンツェルンの屋台骨を危うくしてしまった。まだ、
ユナイティド航空もアメリカン航空も日本に就航してなかった頃、
日本航空もその設立時に藤山愛一郎が一枚噛んでた。
藤山愛一郎といっても今の人は知らないだろうが、
藤山一郎との区別もおぼつかない拙脳なる私にも、
神奈川1区から出馬してた自民党の政治家、
くらいの記憶しかない。が、
父藤山雷太が築いた「藤山コンツェルン」の2代目である。
新沼謙治が所属してた「コロムビア・レコード」もその傘下だった。ともあれ、
藤山家は佐賀鍋島家のいちおう家臣だった家柄である。
雅子皇太子妃殿下の母方の「江頭家」と同じく、
佐賀藩の中で「手明槍(てあきやり)」という階級だった。
鍋島家は主君だった龍造寺氏の衰退に乗じて主になった家である。
そのもともとの龍造寺氏の家来の中で、さほど
禄の高くなかった(50石未満といわれる)武士団を、「役なし」の、つまり、
とりあえず武士の身分を保障して有事に備えて切米の微禄を与えるが
平素は農家でも商家でもやっててかまわない、
という身分とされた家である。
藤山雷太も慶應出であるが、倅の愛一郎も幼稚舎から慶應に入った。
のちにその寄附で日吉キャンパスに作られたのが藤山記念図書館、現在の
藤山記念館である。ところで、
明治になって日本人が牛肉を一般に食うようになった頃、
もっとも食ってたのが塾生だった。それは、
塾唯一の先生である、白金に広大な土地と邸宅を所有した
福澤諭吉が牛肉を好んで食したことに、
塾生らがあやかったことにある。
明治2年に芝露月町(しばろうげつちょう、現在の新橋4丁目)に開店した
「中川屋」が東京で初の牛鍋屋だとされてる。幕末、
高輪東禅寺にあった英国公使館に牛肉をおろすために、
岡崎出身の中川嘉兵衛が横浜からでは鮮度が落ちるので、
親類である白金今里町の名主堀越藤吉所有の畑を借りて
場にした。東京で唯一の場だったので、
この牛はつまり、地方から運んできた食肉より傷んでないので
一種のブランド品だった。だから、
この場から仕入れた牛肉を扱ってる東京の牛鍋屋は
今里町の「今」を屋号に採り入れた。それが、
「今半」「今朝」である。
品川の港南口の芝浦屠場もそうだが、かつては場だったところが、
今では高級高層マンションが立ち並ぶ一角となってるのは
皮肉である。
都ホテル東京は昭和54年、白金台清正公隣の
藤山家の豪邸跡に建てられた。ちなみに、
藤山愛一郎は22日生まれで22日が命日である。この
シェラトン都ホテル東京の周りには、明治学院、清正公などがある。そして、
その清正公を桜田通りで挟んだ向かいには、
「シティータワー高輪」という高級高層マンションが聳え立つ。
ツインタワーもどきの外観であるが、ルーフバルコニーがチャチなのが惜しい。
高級マンションになど背伸びしても住めない低収入の私はこれから、
5300枚もの煎餅を焼かなければならない。
怠惰な私にはとてつもなくおっくうな作業である。
記事を拝読しても、むずかしくてタジタジです。
中では、太田道灌に着目しましたので、熱川との奇縁を残すことにしました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/b9c54bd205ba8889fa0e92cc5418b0c9