チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「腑わけぇーのお待ちなせぃ、で腑に入った疑問/杉田玄白没後194年」

2011年06月01日 01時05分34秒 | 歴史ーランド・邪図
寛永5年(およそ西暦1628年)、
武蔵川越領主・老中酒井忠勝(5年後に加増され若狭小浜領主に)は、
家光から牛込に下屋敷を拝領した。
竹矢来の垣根をめぐらしたことから→
一帯は矢来町と呼ばれるようになった。
現在の新宿区矢来町である。ちなみに、
この酒井忠勝は30台前半の頃に御城内で伊達政宗に
相撲の勝負を挑まれた。忠勝はやんわりと断った。が、
正宗はしつこかった。組まれてしまった以上、
適当に相手をして取らないわけにはいかなくなった。すると、
諸侯が見物に集まってきた。井伊直孝などは、
「讃州(当時、忠勝は讃岐守)が負けてはわれら譜代衆の名折れぞ」
とけしかける。しかたなく、
20歳も年上の政宗を力任せに投げ捨てた。すると、投げられた政宗、
「さても御身は相撲巧者かな」
と、芝居がかった賛辞を送った。が、
実はこれ、大阪の陣も終わり、徳川将軍も3代となって、
立場がはっきりした外様の政宗による、
譜代へのおべんちゃら処世術だったらしい。
元祖八百長相撲である。さらにちなみに、
忠勝の弟忠吉の三女茂姫は、吉良上野介の母である。

ところで、
母といえば、享保18年(およそ西暦1733年)、
その牛込の酒井家下屋敷で藩医の子として、
「解体新書」「蘭学事始」で知られる医師杉田玄白は生まれた。が、
そのときに母親は死亡した。そして、そのおよそ84年後、
文化14年4月17日は、杉田玄白が死んだ日である。
現行グレゴリオ暦換算、1817年6月1日、今から194年前のことだった。
杉田家はもとは真野氏(近江源氏、佐々木氏系)である。
美人熟年女優姉妹の真野響子・あずさ両女史と同族であり、
戦国時代に北条早雲に仕えた間宮氏の家臣で、
その功績によって主君の間宮を名乗った時代もあり、
間宮林蔵とも縁戚である。で、
玄白の時代の名字「杉田」は、
戦国時代に領してた武蔵国久良岐(くらき)郡杉田郷、現在の
横浜市磯子区杉田から名乗ったものであるが、
後北条氏が秀吉に滅ぼされて主を失い、故郷に戻って
杉田に復したものである。

明和8年(およそ西暦1771年)、
玄白のもとに中川淳庵が江戸に参上してたオランダ商館から借りてきた
「ターヘル・アナトミア」(蘭語版)を持ってきた。その
精緻な解剖図が、当時流布してた漢医の五臓六腑説とは
まったく違うことに困惑した。で、3月に小塚原で
死罪となった遺体の腑分けを淳庵や前野良沢らと見学した玄白は、
「ターヘル・アナトミア」の正確さに驚愕し、それまで、
【支那人と紅毛人とでは体が違うのだろうか?】
と医師らが抱いてた疑問……喉元は
過ぎたものの【腑に落ちなかった】ものが、
食道から胃へと一気に入ってったのである。

さて、
一般に【否定形でしか用いられない副詞(的言い回し)】というものがある。
「全然」「全く」「ほとんど」「滅多に」「未だに」「あまり」「しか」「いっこうに」など。
同様に否定に呼応するものとされてた言い回しに、
【腑に落ち(入)】
がある。「腑(フ)」とは一般に臓器のことを言う。また、
「こころ」の意味もある。熱川温泉を舞台にした
花登筺(ハナト・コバコ、1928-1983)の大衆芝居「銭の花」が原作である
「細腕繁盛記」で、牛乳瓶の底のようなレンズの眼鏡の冨士眞奈美女史が、
兄の滝田裕介に向かってよく吐いてた、
「まったく、腑甲斐にゃーずらよ!」
というその「腑甲斐ない(不甲斐ない)」の腑、腑抜けの腑、である。で、
それはともあれ、
【腑に落ちず(入ぬ)】
という否定で使うべきもの、と主張する者もあれば、
【腑に落つ(入る)】
と肯定で用いて何が悪い、と唱える者もある。肯定派は、
有島武郎、夏目漱石、のような文豪がそのように使ってる、
ということを盾にしてる。が、それはひとまずおいといて、

漢医の後世派(室町時代末期)では、
五臓六腑説を採り、それに陰陽説が加わってた。
五臓(心、肺、肝、脾、腎)に、六腑(胃、小腸、大腸、膀胱、三焦、胆)。
臓は陰、腑は陽、に充てられる。
五行説では、辰巳の時刻を陽升之時(陽気が上昇する時間帯)とした。
外感と内傷のうち、外感(風、暑さ、湿気)を陽が受け、
それが腑に入るとしたのである。障害があると
「腑に入らない」。そこからこの言い回しが生まれたのである。さて、

[用例]
△織田作之助「わが町」(第三章昭和)
<この日頃の他吉の言葉は、だから、理屈ではなかっただけに、
一そう君枝の腑に落ちていたのだった。>
(ここでは時間的な経過を隔ててて、前よりも「いっそう」落ちてる、
という使いかたである)
○織田作之助「わが町」(第三章昭和)
<君枝はますます訳がわからなかったが、帰り途、
朋輩の春井元子の口からきいて、はじめて、
主任が自分に大西質店へ行けと言った意味などが腑に落ちた>。
(ここでも時間経過をふまえ、それまでは"腑に落ちなかった"ものが
このとき"はじめて"腑に落ちた、という語法を採ってる)

◎夏目漱石「彼岸過迄」
<何しろこういう問題に就て、出来るだけ本人の自由を許さないのは
親の義務に背くのも同然だという意味を、
昔風の彼女の腑に落るように砕いて説明した。>
(理解できない者に"説明して"解らせた、という意味で使った、
漱石ならではの斬新かつ意味をゆがめてない使用法である)

○夏目漱石「明暗」(八)
<お延が一概に津田の依頼を斥けたのは、夫に同情がないというよりも、
むしろ岡本に対する見栄に制せられたのだという事が
ようやく津田の腑に落ちた。>
(それまで理解できなかったものがこのときになって
"ようやく"わかった、という意味で用いてる)

×有島武郎「或る女」
<もう私は耳をふさいで居ります。あなたから伺った所がどうせ
こう年を取りますと腑に落ちる気遣いは御座いません。>
(文章を生活の糧にするに不向きな"作家"である)

つまり、
「なんらかの障害があって飲み込んだものが食道から胃に運ばれなない」
=腑に入らぬ、腑に落ちない
が基本である。だから、自然と「否定形」で使われる。
が、「腑に入る」「腑に落ちる」と、
"敢えて"肯定で使うのは、その
「まず障害となる事柄があることが前提。そして、
なんらかの理由で障害が取り除かれて胃に落ちてった」
ということを文学的に表現した創意工夫である。それゆえ、
はなから単に「理解できた」「なんとなく判った」という意味で
「腑に落ちた」という文句を使用するのは「愚の骨頂」である。が、
そんな言い回しが物書きの素人、または、
文章・文学・物書きのテクニックもなければ
センスもとんと持ち合わせぬ者の文章では散見される。ちなみに、
「玄白」とは、玄=玄人(クロうと)=北、白=素人(シロうと)=西、
であるとともに、医師には玄のつく通称を名乗る者が多かった。
吉原では、女犯坊主が医師を装ってやってくるので、
玄様という符牒で呼んでたのである。いずれにせよ、
玄白はクロとシロなので灰色である。が、
玄白らが見学した青茶婆の腑分けがその後、
"Glay's Anatomy"
というTVドラマになってポンペイウス劇場で上演された、
という話は"まるで"聞か"ない"。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「ドーヴィル・サミット式馬... | トップ | 「ビゼー『アルルの女』とマ... »

コメントを投稿

歴史ーランド・邪図」カテゴリの最新記事