(ローベルト・シューマン生誕200年記念、ライン交響曲作曲160年記念)
「夏が来れば思い出す」というと、私は
あの気持ち悪い形をした水芭蕉が生い茂る尾瀬ではなく、
水が鼻に入ってしまったときの感覚を思い出す。
海とかプールとかの。
いまはむかし、
荒川と隅田川に挟まれた東京ゼロメートル地帯の一角、
現在の墨田区墨田5丁目に、「東京綿商社」という紡績工場があった。
すぐに当時の地名鐘ヶ淵を採って、
「鐘淵紡績」と改称した。やがてその短縮称
「カネボウ」が社名となった。そして、
食品や化粧品など多角経営に乗り出し、その中の
化粧品部門で成功を収めた。高度経済成長期にあって、
東京の町工場から大企業を目指した中小企業らから、
「鬼に金棒、ソニーにカネボウ」
とまで言われた(かもしれない)。最盛期にはTVCMで、
「Kanebo, for Beautiful Human Life」
なんていう和製英語を決めゼリフにしてた。ともあれ、
その跡地から2kmほど西北に向かうと、千住である。
「月日は百代の過客にして、ツヴィッカウ人もまた旅人なり」
「三里に灸すゆるより、Thank youと別れを告げ杉風が別墅に移るに」
という「おくの細道」の序文が思い起こされる。
今はもう8月だが、7月29日はドイツの作曲家
ローベルト・シューマンが死んで154年の日だった。
シューマンが生まれたのはドイツ東南部、当時のザクセン王国の
Zwickau(ツヴィッカウ)という町だった。この南東60kmには、
ベートーヴェンが不滅の恋人、人妻の
アントーニア・ブレンターノと逢瀬を重ねてたボヘミアの
Karlsbad(カールスバート=カレル4世の浴場、
現チェコのカルロヴィ・ヴァリ=カレル王の沸騰)がある。
この保養地で不滅の恋人と恋愛を育んでたのは
1811年の夏と1812年の夏であるが、その時期に書かれたのが、
ベートーヴェンの「交響曲第7番」である。
[第1楽章序奏部=Poco sostenuto、4/4拍子、3♯(イ長調)]**♪
【ドー・ーー・・>ソー・ーー│>ミー・ーー・・<ラー・ーー│>ソー・ーー】♪
シューマンはこの作品に「ベートーヴェンの不倫愛」を感じ取ったのか、
ベートーヴェンの故郷であるボンのライン川の少し上流にあたる
デュッセルドルフのオケの指揮者の職にあった1850年、
「交響曲第3番」となる交響曲を「イ長調」の「対極調」である
「変ホ長調」で書いた。
[Lebhaft(レープハフト=快活に=速く(付点2分音符=66)、3/4拍子、3♭(変ホ長調)]**♪
【ドー・ーー・>ソー│ーー・ソー・ー<ミ│ミー・ーー・<ラー│ーー・>ソー・ー】>♯ファ│
<ソー・ーー・>レー│ーー・レー・ー<ミ│<ファー・ーー・>ドー│>シー・ーー・<ファー│>ミー・ーー・>シー♪
これはヘミオラになってる。
(仮想3/2拍子)**♪
【ドーーー・>ソーーー・ソーー<ミ│ミーーー・<ラーーー・>ソー・ー>♯ファ│<ソーーー・>レーーー・レーー<ミ♪
よく言われてることであるにしても、
やはり垢抜けないオーケストレイションである。
主旋律をvnプリーモとクラリネット1管、そしてそのオクターヴ上のフルート2管、
にしか与えてない。にもかかわらず、
ほぼ同じ律動で主和音の各音を、
オーボエ2管+クラリネット1管+ファゴット2管+チェロ+コントラバス、
になぞらせ、
ホルン4管+トランペット2管+ティンパニ、
にもそれとだいたい同じことをさせ、
vnセコンド+ヴィオーラ、
には8分音符刻みでそれと旋律を交えて重ねる、
という具合である。そんな拙さも併せて、
この箇所を聴いたり思い浮かべたりすると、
じわじわと悲しい感情がわきあがって、
せつなくいたたまれない気持ちになるものである。
ともあれ、
この主題の動機は、「ベト7」の♪【ド>ソ『>』ミ<ラ>ソ】♪を
♪【ド>ソ『<』ミ<ラ>ソ】♪と、
『ミ』への跳躍を下から上にしただけである。ところで、
シューマンを頼ってきた男ブラームスは、この二十数年後に完成させた
"交響曲第1番"の第3楽章で、この楽章の主調変イ長調から
実質「変ホ長調」に転調させてから、オーボエ以外の木管群に、
[2/4拍子]***♪
ミーー>レ・>ドーー>シ│>ラーー>ソ・>ファーー>ミ│
<レーー>ド・>シーー>ラ│>ソーー>ファ・>ミーー>レ│
<【ドーー>ソ・>ミーー<ラ│>ソーーー・ーーー】♪
と吹かせるのである。
ブラームスはこの"交響曲"の第2楽章冒頭の「田園」、
第4楽章の「合唱」(いずれもベートーヴェン)、との類似性を問われて、
激怒したという。つまり、
オマージュでも盗作でもないと否定してしまったのである。つまり、
その程度の"作曲家"なのである。
シューマンの場合は梅毒で神経をやられてたかもしれないので、
他人の作やかつての自作が自分の頭の中で創作されて出てきたもの、
としてしまったこともあるかもしれない。が、
ブラームスは通院歴もなく"正気"である。だから逆に、
"可哀想さ"でいったら、ブラームスは悲惨なシューマンよりさらに、
そのみすぼらしい育ちやプライドだけは高い性格と併せて
可哀想な奴だったのかもしれない。
さて、
シューマンの功績のひとつに、
事件発覚後精神病院に入院し、現在は2度めの妻の姓に
改姓してるらしい旧藤村新一や、
大森貝塚のエドワード・モース並の
鮮やかな「神の手」がある。そう、
「発掘王」なのである。ヴィーンに出かけたおり、
シューベルトの兄のところに置いてあった、まぼろしの
"Gmunden Gasteiner Sinfonie
(グムンデン・ガスタイナー・ズィンフォニー=グムンデン・ガスタイン交響曲)"の自筆譜を
「発見」したのである。そして、
それをライプツィヒに送る話をとりまとめ、
メンデルスゾーンの指揮で初演させた。
シューマンは44歳の1854年2月、豪雨の中を急に
家から飛び出してライン川に入水する。が、
たまたま見てた人に助けられた。そのとき、名を訊ねられた
シューマンはフランス語で「ジュ・スイ・ザタン・ドゥ・スィフィリス」
と答えたとかこたえなかったとか。冗談はともかく、
シューマンはボン近郊のエンデニヒの精神療養施設に入れられ、
そこに2年半軟禁された末、1856年7月29日、肺炎で死んだ。
死の2日前、2年半ぶりに会った妻のクラーラは、
夫が大好きだったワインをその指につけてシューマンにしゃぶらせた、
という。ずいぶんとマニアックな性愛である。が、それはともかくも、
シューマンはそんな妻の腕をたぐり寄せて、こう
ひとことつぶやいたのだという。
"Ich weiss(イヒ・ヴァイス=私は知ってる)"
これは入院中に夫が残した楽譜や手紙を破棄してしまったような
クラーラがのちに書いてる話なのでその真偽のほども図りかねる。が、
実際にそう言ったのだとして、
この言葉には目的語あるいは目的語節がないので、後世、
シューマン研究者や愛好者の間で、その意味が問題にされてるらしい。
「お前の顔がわかるよ」という意味だったのか、
「お前の離心を知ってるよ」という意味だったのか、
という問題である。が、
単純な私は単純にこう思う。
Ichではなくinnig(イニヒ=心のこもった、心からの、思いやりのある)
という形容詞であり、
weissは動詞wissen(ヴィッセン=知ってる)の
直説法現在1人称単数形ではなく
「白い」を表す形容詞weissで、
そのあとにワインを表すWein(ヴァイン)が省略あるいは、
そこまで言えなかったか、または、
WeissとWeinがこんがらがってしまってWeissまで言ったか、
もしくはWeinと言おうとして、
それらのうちいずれであっても、
後ろめたさがあったクラーラには思いこみで
"Ich weiss(イヒ・ヴァイス=私は知ってる)"
と聞こえてしまっただけのこと、なのだと。いずれにせよ、
女好きで女遊びにも熱心だった男の
哀れな最期である。が、
芸術家はこうでなくては本物ではない。
幸せいっぱいの男なんていう凡人の副産物になど、
ありがたみはない。
"Manebo, for Beautiful Schumann Life!"
「夏が来れば思い出す」というと、私は
あの気持ち悪い形をした水芭蕉が生い茂る尾瀬ではなく、
水が鼻に入ってしまったときの感覚を思い出す。
海とかプールとかの。
いまはむかし、
荒川と隅田川に挟まれた東京ゼロメートル地帯の一角、
現在の墨田区墨田5丁目に、「東京綿商社」という紡績工場があった。
すぐに当時の地名鐘ヶ淵を採って、
「鐘淵紡績」と改称した。やがてその短縮称
「カネボウ」が社名となった。そして、
食品や化粧品など多角経営に乗り出し、その中の
化粧品部門で成功を収めた。高度経済成長期にあって、
東京の町工場から大企業を目指した中小企業らから、
「鬼に金棒、ソニーにカネボウ」
とまで言われた(かもしれない)。最盛期にはTVCMで、
「Kanebo, for Beautiful Human Life」
なんていう和製英語を決めゼリフにしてた。ともあれ、
その跡地から2kmほど西北に向かうと、千住である。
「月日は百代の過客にして、ツヴィッカウ人もまた旅人なり」
「三里に灸すゆるより、Thank youと別れを告げ杉風が別墅に移るに」
という「おくの細道」の序文が思い起こされる。
今はもう8月だが、7月29日はドイツの作曲家
ローベルト・シューマンが死んで154年の日だった。
シューマンが生まれたのはドイツ東南部、当時のザクセン王国の
Zwickau(ツヴィッカウ)という町だった。この南東60kmには、
ベートーヴェンが不滅の恋人、人妻の
アントーニア・ブレンターノと逢瀬を重ねてたボヘミアの
Karlsbad(カールスバート=カレル4世の浴場、
現チェコのカルロヴィ・ヴァリ=カレル王の沸騰)がある。
この保養地で不滅の恋人と恋愛を育んでたのは
1811年の夏と1812年の夏であるが、その時期に書かれたのが、
ベートーヴェンの「交響曲第7番」である。
[第1楽章序奏部=Poco sostenuto、4/4拍子、3♯(イ長調)]**♪
【ドー・ーー・・>ソー・ーー│>ミー・ーー・・<ラー・ーー│>ソー・ーー】♪
シューマンはこの作品に「ベートーヴェンの不倫愛」を感じ取ったのか、
ベートーヴェンの故郷であるボンのライン川の少し上流にあたる
デュッセルドルフのオケの指揮者の職にあった1850年、
「交響曲第3番」となる交響曲を「イ長調」の「対極調」である
「変ホ長調」で書いた。
[Lebhaft(レープハフト=快活に=速く(付点2分音符=66)、3/4拍子、3♭(変ホ長調)]**♪
【ドー・ーー・>ソー│ーー・ソー・ー<ミ│ミー・ーー・<ラー│ーー・>ソー・ー】>♯ファ│
<ソー・ーー・>レー│ーー・レー・ー<ミ│<ファー・ーー・>ドー│>シー・ーー・<ファー│>ミー・ーー・>シー♪
これはヘミオラになってる。
(仮想3/2拍子)**♪
【ドーーー・>ソーーー・ソーー<ミ│ミーーー・<ラーーー・>ソー・ー>♯ファ│<ソーーー・>レーーー・レーー<ミ♪
よく言われてることであるにしても、
やはり垢抜けないオーケストレイションである。
主旋律をvnプリーモとクラリネット1管、そしてそのオクターヴ上のフルート2管、
にしか与えてない。にもかかわらず、
ほぼ同じ律動で主和音の各音を、
オーボエ2管+クラリネット1管+ファゴット2管+チェロ+コントラバス、
になぞらせ、
ホルン4管+トランペット2管+ティンパニ、
にもそれとだいたい同じことをさせ、
vnセコンド+ヴィオーラ、
には8分音符刻みでそれと旋律を交えて重ねる、
という具合である。そんな拙さも併せて、
この箇所を聴いたり思い浮かべたりすると、
じわじわと悲しい感情がわきあがって、
せつなくいたたまれない気持ちになるものである。
ともあれ、
この主題の動機は、「ベト7」の♪【ド>ソ『>』ミ<ラ>ソ】♪を
♪【ド>ソ『<』ミ<ラ>ソ】♪と、
『ミ』への跳躍を下から上にしただけである。ところで、
シューマンを頼ってきた男ブラームスは、この二十数年後に完成させた
"交響曲第1番"の第3楽章で、この楽章の主調変イ長調から
実質「変ホ長調」に転調させてから、オーボエ以外の木管群に、
[2/4拍子]***♪
ミーー>レ・>ドーー>シ│>ラーー>ソ・>ファーー>ミ│
<レーー>ド・>シーー>ラ│>ソーー>ファ・>ミーー>レ│
<【ドーー>ソ・>ミーー<ラ│>ソーーー・ーーー】♪
と吹かせるのである。
ブラームスはこの"交響曲"の第2楽章冒頭の「田園」、
第4楽章の「合唱」(いずれもベートーヴェン)、との類似性を問われて、
激怒したという。つまり、
オマージュでも盗作でもないと否定してしまったのである。つまり、
その程度の"作曲家"なのである。
シューマンの場合は梅毒で神経をやられてたかもしれないので、
他人の作やかつての自作が自分の頭の中で創作されて出てきたもの、
としてしまったこともあるかもしれない。が、
ブラームスは通院歴もなく"正気"である。だから逆に、
"可哀想さ"でいったら、ブラームスは悲惨なシューマンよりさらに、
そのみすぼらしい育ちやプライドだけは高い性格と併せて
可哀想な奴だったのかもしれない。
さて、
シューマンの功績のひとつに、
事件発覚後精神病院に入院し、現在は2度めの妻の姓に
改姓してるらしい旧藤村新一や、
大森貝塚のエドワード・モース並の
鮮やかな「神の手」がある。そう、
「発掘王」なのである。ヴィーンに出かけたおり、
シューベルトの兄のところに置いてあった、まぼろしの
"Gmunden Gasteiner Sinfonie
(グムンデン・ガスタイナー・ズィンフォニー=グムンデン・ガスタイン交響曲)"の自筆譜を
「発見」したのである。そして、
それをライプツィヒに送る話をとりまとめ、
メンデルスゾーンの指揮で初演させた。
シューマンは44歳の1854年2月、豪雨の中を急に
家から飛び出してライン川に入水する。が、
たまたま見てた人に助けられた。そのとき、名を訊ねられた
シューマンはフランス語で「ジュ・スイ・ザタン・ドゥ・スィフィリス」
と答えたとかこたえなかったとか。冗談はともかく、
シューマンはボン近郊のエンデニヒの精神療養施設に入れられ、
そこに2年半軟禁された末、1856年7月29日、肺炎で死んだ。
死の2日前、2年半ぶりに会った妻のクラーラは、
夫が大好きだったワインをその指につけてシューマンにしゃぶらせた、
という。ずいぶんとマニアックな性愛である。が、それはともかくも、
シューマンはそんな妻の腕をたぐり寄せて、こう
ひとことつぶやいたのだという。
"Ich weiss(イヒ・ヴァイス=私は知ってる)"
これは入院中に夫が残した楽譜や手紙を破棄してしまったような
クラーラがのちに書いてる話なのでその真偽のほども図りかねる。が、
実際にそう言ったのだとして、
この言葉には目的語あるいは目的語節がないので、後世、
シューマン研究者や愛好者の間で、その意味が問題にされてるらしい。
「お前の顔がわかるよ」という意味だったのか、
「お前の離心を知ってるよ」という意味だったのか、
という問題である。が、
単純な私は単純にこう思う。
Ichではなくinnig(イニヒ=心のこもった、心からの、思いやりのある)
という形容詞であり、
weissは動詞wissen(ヴィッセン=知ってる)の
直説法現在1人称単数形ではなく
「白い」を表す形容詞weissで、
そのあとにワインを表すWein(ヴァイン)が省略あるいは、
そこまで言えなかったか、または、
WeissとWeinがこんがらがってしまってWeissまで言ったか、
もしくはWeinと言おうとして、
それらのうちいずれであっても、
後ろめたさがあったクラーラには思いこみで
"Ich weiss(イヒ・ヴァイス=私は知ってる)"
と聞こえてしまっただけのこと、なのだと。いずれにせよ、
女好きで女遊びにも熱心だった男の
哀れな最期である。が、
芸術家はこうでなくては本物ではない。
幸せいっぱいの男なんていう凡人の副産物になど、
ありがたみはない。
"Manebo, for Beautiful Schumann Life!"
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