チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「MLB(大リーグ)における背番号44の意義」

2005年05月12日 17時10分43秒 | 野球新陰流(上泉偐勢守のホウボウ剣
大リーグにおいて、2塁手としての1シーズン最多本塁打は43本。記録保持者は、
1973年アトランタ・ブレイヴズ時代の
デイヴィー・ジョンスン(元読売ジャイアンツ)である。これは、
同僚のあのハンク・アーロンの40本より多かったのである。ところが、
今シーズンも、レインジャーズのアルフォンソ・ソリアーノ(元広島カープ)が
すでに10本を打ってて、この記録を毎シーズンおびやかすのである。さらに、突如、
オウリオウルズのブライアン・ロバーツも本塁打を飛ばすようになり、
10本で並んでるのである。これは今季、11本のA・ロッドの次点である。ときに、
オウリオウルズのホウムラン打者といえば、今季に移籍したサミー・ソウサである。
が、現在、故障者リストに入ってるのである。SFのボビー・ボンズも同様である。
同じ筋肉増強剤疑惑でも、ボンズのアナボリク・ステロイドに対して、
ボーティモーのサミーはアナポリス・ステロイドの疑いでソウサされて、はいない。
冗談はともかく、ボンズは先シーズンまでに通算703本をかっとばしてるのである。
今シーズン、「普通に」やってたら、
ヘンリー・アーロンの記録755本を抜いてしまったかもしれないのである。
ちなみに、アーロンがベイブ・ルースの記録を破ったのは、
上記のデイヴ・ジョンスンが43本打った年の翌年のことである。
アーロンがルースの記録714号に並んだのは、1974年「4月4日」、
スィンスィナティのリヴァーフロント・ステイディアムでの対レッズ戦。
相手投手はジャック・ビリンガムである。けっしてダメ・ピッチャーではない。
このシーズン、19勝11敗することになる、たいした投手である。
そのユニフォーム・ナンバーは「43」。そして、ついにその日は訪れる。
同年同月8日、地元アトランタのフルトン郡球場での開幕戦。
相手はLAドジャーズの左腕アル・ダウニング。これも、かつて
20勝したことがある投手である。そして、そのユニフォーム・ナンバーは、
「44」。奇しくもアーロンの栄光の背番号「44」とおんなじだったのである。
ところで、アーロンは生涯に1度たりとも、
1シーズン50本以上のホームランを打ったことがない。
が、40本以上は8度。そのうち、「44」本を「4」度打ってるのである。
後続の「黒人スラッガー(外野手)」らが、背番号「44」をつけたがったのは、
この「44マグナム弾」ヘンリー・アーロンにあやかりたかったからである。
そして、20年くらい前からは、白人の強打者も「44」をつけたがるようになった。
さらには、たいしたことがない者まで。が、このハンク少年が、
1952年に(ミルウォーキー、そしてアトランタ移転前の)
ボストン・ブレイヴズのトライ・アウト(テスト)を受けたとき、
右打ちであるにもかかわらず、右手をグリップ・エンドに、左手をその上に、という、
「左打ちの握り」で右打席に入って、ボンボンかっとばした、のだとか。
この「後の大打者」は、バットの握りかたも知らなかったのである。
さて、昨今の「44」番といえば、アトランタとミルウォーキーはアーロンの欠番、
ヤンキーズはレジー・ジャクスンの欠番で、つけれないのであるが、
その2選手のことも知らない世代となった現在、威光も消え、他の27球団では、
投手や捕手などがつけてることが多い。そこそこ本塁打を打てる「44」番の外野手は、
メッツのマイク・キャメロン、ロッキーズのプレストン・ウィルスン、
レッズのアダム・ダン(白人)くらいなものである。
レッドソックスのジェイ・ペイトンの「44」番は、ご愛敬である。
1塁手には、ミルウォーキーでは欠番の「44」をつけれなかった、
今季マリナーズ移籍の大男リッチー・セクスン(白人)がいる。
ところで、「44」はソロイメである。「4」が2個ライである。
チャイコフスキーの「2番pf協」は、「1番pf協」でヒトモンチャクあった
シシょうのニコライ・ルービン師弟ンに改めて捧げるつもりで書かれたものである。
作品番号「44」である。
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