♪ミ(よ)ー│<ラ(こ)ーラ(は)ー・ラ(ま)ーラ(い)ー・・>ソ(れ)ー>ミ(ぶ)<ソ(ん)・ー、
>ミ(よ)ー│<ラ(こ)ーラ(は)ー・ラ(ま)ーラ(い)ー・・>ソ(れ)ー>ミ(ぶ)<ソ(ん)・ー♪
(音源から私が採譜採詞したものなので、原作と違ってる箇所が
あると思われるが、悪しからず了承いただきたい)
傷を癒すのは海鳴りよりはどしゃぶりがいいのだそうだが、
島田紳介と元朝日新聞記者で安ワイン評論家と自称し、好きな言葉は
<疾風に勁草を知る>をもじった<失言に軽率を知る>だという
前小金井市長の佐藤和雄の顔の区別がつかず、
ワンガリ・マータイとワンギリ・マータイヘンを聞き違えてしまう、
小学校1年1学期の通知表が「11111111111」だった拙脳なる私には、
「無駄遣い」の意味も、てめえは優雅でいい暮らしをしてながら
左翼思想反日、なんて輩を選出する
選挙民の風変わりなセンスが解るはずもない。
1978年の歌謡曲「横浜いれぶん」は木ノ内みどり女史の
「11」枚めのいわゆるシングルだった。
マリノスのことではなく、ヨコハマの11PM、という意味である。ところで、
ヨコハマではないがオキハマ、福岡市の沖濱稲荷神社には、
川上音二郎(1864-1911)の生誕記念碑がある。この神社は古くて、
空海(774-835)が20年の決まりだった遣唐留学僧の期間を
たった2年で切り上げて帰国してしまったために、すぐに
帰京することを許されず、まず大宰府に留め置かれたのだが、
東支那海で「海鳴りやどしゃ降り」の暴風雨に遭って
ヘロヘロヘトヘトになった体を休めた場所、
ということになってる。それはさておき、
このあたりは秀吉の頃に対馬の宗義智の蔵と屋敷があったことから
「対馬小路(つしましょうじ)」と呼ばれ、
商家が立ち並ぶ町だった。中対馬小路の沖濱稲荷から昭和通りに出て、
中州に架かる東中島橋方面に100mほどのところにある
和菓子屋が音二郎の生家の藍問屋「紺屋」があった場所である。
のちに音二郎は独特のスタイルでオッペケペーを歌ったが、袴は
白縞の小倉袴であり、紺屋の白袴ではなかった。ともあれ、
問屋といっても阿波徳島の藍を仕入れて
福岡藩黒田家に納めるれっきとした御用商人の家である。
やはり徳島特産の和三盆も扱ってた。ちなみに、
その音二郎の生家跡には現在、
「石村萬盛堂」という和菓子屋がある。
博多祇園山笠のTV中継で映りこむ店である。この店は
創業当時は建物を音二郎から借りて店舗を開いたという。
この店の看板商品である「鶴乃子」であるが、
鶏卵素麺を作る過程で余る卵白を使って生み出したという。そして、
音二郎の養女だったツルの名を冠したのである。
青木鶴子(1892-1961)は音二郎の妹カツの娘である。
1899年に音二郎・貞奴が渡米する際に子役として連れてったが、
売上金を持ち逃げされ、児童の労働にうるさいカリフォルニアでは
足手まといになったので、金銭と引き換えに
SF在住の画家青木瓢斎の養女とされた。
瓢斎が死んでから新聞社の白人女性記者に引き取られ、
LAの演劇学校に学んでハリウッド女優となった。のちに、
早川雪洲(1886-1973)と結婚する。ちなみに、
Claude Farrere(クロド・ファレル、=フレデリク・シャルル・バルゴヌ、1876-1957)が
1909年に発表した小説"La Bataille(ラ・バタイユ=戦闘)"は
当時のベストセラーだったらしい。
当時、クーデンホーフ=カレルギ伯爵夫人だったのが日本人女性
Mitsuko Coudenhove-Kalerg(クーデンホーフ・光子、1874-1941)である。
その頃の欧州では、相当に著名だったようである。
ミツコという名が「密子」と解され、そのイマジュが、欧州、とくに
フランス男の日本人女性に対するミステリアスなイマジュとなった。
ゲランの3代めJacques Guerin(ジャック・ゲラン)は
1919年に新発売した香水の名を"Mitsouko"としたのである。
この小説が1923年に映画化された。
主人公ヨシサカ侯爵を雪洲が、その妻Mitsoukoを鶴子が演じた。
さて、
川上音二郎は実母が早くに亡くなったが、継母との仲が悪く、
14歳で家出した。やがて東京で福澤諭吉の書生となって
義塾でも学んだという。自由民権運動に興味があり、
その主旨の政治漫談からそのうちオッペケペーを歌うようになった。
<<堅い裃、角とれて、
マンテルズボンに、人力車。
粋な束髪、ボンネット。
貴女に紳士のいでたちで、
うわべの飾りは、よいけれど、
政治の思想が、欠乏だ。
天地の真理が、解らない。
天地真理は、太ったけれど、
心に自由の、種を蒔け。
オッペケペー、
オッペケペッポー、ペッポッポー>>
そのオッペケペーの音二郎が1894年に結婚したのが貞奴である。
小山貞(1871-1946)は、日本橋の「越後屋」の娘として生まれた。
越後屋といっても三越ではなく、質屋である。が、
生家の商売がうまくいかず、
葭町(よしちょう、=現在の人形町。明暦の大火前にあった遊郭が
浅草の千束に移転されて新吉原となったんでありんすが、その
吉原のヨシはこの葭町のヨシである=葭原)の置屋浜田屋に出され、
「貞奴」として芸妓となった。
美貌でならした貞奴には御贔屓が多くいたようだが、とくに
伊藤博文(先月、個人タクシーが横須賀線の線路に突っ込んで
運転手が死亡した事故があった現場の近くの西大井に
別邸があったが今はそこに墓がある)が囲ってたという。
当時の芸者は場所で等級があり、日本橋・新富町・数寄屋橋と並んで
葭町はトップの新橋に次ぐランクだった。
そんな貞奴と結婚した音二郎だったが、
芝居一座を旗揚げしたまではよかった。ところが、
代議士に立候補して2度落選し、供託金や選挙資金で大赤字となり、
一座は人手に渡る。そこで、
興行師からの誘いに乗って、1899年4月、
神戸から船に乗ってハワイ経由でサン・フランスィスコウに着いた。が、
その興行師はすでに商売に失敗して夜逃げ。音二郎一座の
興行自体は当たるが、興行師の借財分として
演劇衣装・道具などが差し押さえられてしまう。そして、
売上金を持ち逃げされるという踏んだり蹴ったりで、
姪を養女に出し、弟を預け、一座は東を目指す。
フロンティアの逆をいったのである。
スィアトル、シカゴウ、そして、DC。日本公使館で小村寿太郎に歓待され、
再選されたばかりのマッキンリー大統領にも謁見した。ちなみに、
小村は音二郎が死んで2週間ほどのちの
1911年11月26日に亡くなってる。ともあれ、その後、
NYで2月から4月まで公演を行った。マンハッタンでは
オッペンハイマー節を歌ったかどうかは知らないが、当地で見学した
「俳優養成学校」に関心を示した。貞奴はのちに日本で
演劇学校を作る。4月末にNYからロンドンに向かい、
英国王太子アルバート・エドワード(約1年後にエドワード7世として即位)
の前で日本舞踊を舞った。
6月末には万博開催中のパリに着き、所望されて
「腹切り芸」を即興で披露する。フランス人はことのほか
残虐な見世物が好きだと、帰国後に著した
「川上音二郎欧米漫遊記」で書いてる。が、
慶應4年の堺事件時の切腹武士が自らのハラワタを投げつけたことが
フランス人に強烈な印象を与えてたのであって、
フランシス人が英国人その他の白人よりも残虐が好きというのは
正鵠を射てるとは言いがたい。ともあれ、
「芸者と武士」と題された出し物は好評を博し、
アンドレ・ジド、パブロ・ピカソ、パウル・クレー、オギュスト・ロダン、
ジャコモ・プッチーニ、クロド・ドビュッスィ、イサドラ・ダンカン女史などが
"マダム貞奴"に感嘆したのである。
その後も音二郎一行は数度訪欧したのであるが、1910年、
大阪に西洋式劇場の「帝国座」を開いた。それでまた
借財を抱えてしまう。そして、返済のために粉骨演じ、
腹膜炎を起こして1911年11月11日に47歳で死んでしまった。
未亡人となった貞奴はしかし、
映画「ラ・バタイユ」のミツコのようにではなく、かねてから昵懇だった
電力王福澤桃介(1868-1938、福澤諭吉の養子)と連れ添う。
美男美女のカップルである。
「貞女は二夫にまみえず」
ではなく、
「貞奴は二夫にも万夫にもまみえる」
のであった。
>ミ(よ)ー│<ラ(こ)ーラ(は)ー・ラ(ま)ーラ(い)ー・・>ソ(れ)ー>ミ(ぶ)<ソ(ん)・ー♪
(音源から私が採譜採詞したものなので、原作と違ってる箇所が
あると思われるが、悪しからず了承いただきたい)
傷を癒すのは海鳴りよりはどしゃぶりがいいのだそうだが、
島田紳介と元朝日新聞記者で安ワイン評論家と自称し、好きな言葉は
<疾風に勁草を知る>をもじった<失言に軽率を知る>だという
前小金井市長の佐藤和雄の顔の区別がつかず、
ワンガリ・マータイとワンギリ・マータイヘンを聞き違えてしまう、
小学校1年1学期の通知表が「11111111111」だった拙脳なる私には、
「無駄遣い」の意味も、てめえは優雅でいい暮らしをしてながら
左翼思想反日、なんて輩を選出する
選挙民の風変わりなセンスが解るはずもない。
1978年の歌謡曲「横浜いれぶん」は木ノ内みどり女史の
「11」枚めのいわゆるシングルだった。
マリノスのことではなく、ヨコハマの11PM、という意味である。ところで、
ヨコハマではないがオキハマ、福岡市の沖濱稲荷神社には、
川上音二郎(1864-1911)の生誕記念碑がある。この神社は古くて、
空海(774-835)が20年の決まりだった遣唐留学僧の期間を
たった2年で切り上げて帰国してしまったために、すぐに
帰京することを許されず、まず大宰府に留め置かれたのだが、
東支那海で「海鳴りやどしゃ降り」の暴風雨に遭って
ヘロヘロヘトヘトになった体を休めた場所、
ということになってる。それはさておき、
このあたりは秀吉の頃に対馬の宗義智の蔵と屋敷があったことから
「対馬小路(つしましょうじ)」と呼ばれ、
商家が立ち並ぶ町だった。中対馬小路の沖濱稲荷から昭和通りに出て、
中州に架かる東中島橋方面に100mほどのところにある
和菓子屋が音二郎の生家の藍問屋「紺屋」があった場所である。
のちに音二郎は独特のスタイルでオッペケペーを歌ったが、袴は
白縞の小倉袴であり、紺屋の白袴ではなかった。ともあれ、
問屋といっても阿波徳島の藍を仕入れて
福岡藩黒田家に納めるれっきとした御用商人の家である。
やはり徳島特産の和三盆も扱ってた。ちなみに、
その音二郎の生家跡には現在、
「石村萬盛堂」という和菓子屋がある。
博多祇園山笠のTV中継で映りこむ店である。この店は
創業当時は建物を音二郎から借りて店舗を開いたという。
この店の看板商品である「鶴乃子」であるが、
鶏卵素麺を作る過程で余る卵白を使って生み出したという。そして、
音二郎の養女だったツルの名を冠したのである。
青木鶴子(1892-1961)は音二郎の妹カツの娘である。
1899年に音二郎・貞奴が渡米する際に子役として連れてったが、
売上金を持ち逃げされ、児童の労働にうるさいカリフォルニアでは
足手まといになったので、金銭と引き換えに
SF在住の画家青木瓢斎の養女とされた。
瓢斎が死んでから新聞社の白人女性記者に引き取られ、
LAの演劇学校に学んでハリウッド女優となった。のちに、
早川雪洲(1886-1973)と結婚する。ちなみに、
Claude Farrere(クロド・ファレル、=フレデリク・シャルル・バルゴヌ、1876-1957)が
1909年に発表した小説"La Bataille(ラ・バタイユ=戦闘)"は
当時のベストセラーだったらしい。
当時、クーデンホーフ=カレルギ伯爵夫人だったのが日本人女性
Mitsuko Coudenhove-Kalerg(クーデンホーフ・光子、1874-1941)である。
その頃の欧州では、相当に著名だったようである。
ミツコという名が「密子」と解され、そのイマジュが、欧州、とくに
フランス男の日本人女性に対するミステリアスなイマジュとなった。
ゲランの3代めJacques Guerin(ジャック・ゲラン)は
1919年に新発売した香水の名を"Mitsouko"としたのである。
この小説が1923年に映画化された。
主人公ヨシサカ侯爵を雪洲が、その妻Mitsoukoを鶴子が演じた。
さて、
川上音二郎は実母が早くに亡くなったが、継母との仲が悪く、
14歳で家出した。やがて東京で福澤諭吉の書生となって
義塾でも学んだという。自由民権運動に興味があり、
その主旨の政治漫談からそのうちオッペケペーを歌うようになった。
<<堅い裃、角とれて、
マンテルズボンに、人力車。
粋な束髪、ボンネット。
貴女に紳士のいでたちで、
うわべの飾りは、よいけれど、
政治の思想が、欠乏だ。
天地の真理が、解らない。
天地真理は、太ったけれど、
心に自由の、種を蒔け。
オッペケペー、
オッペケペッポー、ペッポッポー>>
そのオッペケペーの音二郎が1894年に結婚したのが貞奴である。
小山貞(1871-1946)は、日本橋の「越後屋」の娘として生まれた。
越後屋といっても三越ではなく、質屋である。が、
生家の商売がうまくいかず、
葭町(よしちょう、=現在の人形町。明暦の大火前にあった遊郭が
浅草の千束に移転されて新吉原となったんでありんすが、その
吉原のヨシはこの葭町のヨシである=葭原)の置屋浜田屋に出され、
「貞奴」として芸妓となった。
美貌でならした貞奴には御贔屓が多くいたようだが、とくに
伊藤博文(先月、個人タクシーが横須賀線の線路に突っ込んで
運転手が死亡した事故があった現場の近くの西大井に
別邸があったが今はそこに墓がある)が囲ってたという。
当時の芸者は場所で等級があり、日本橋・新富町・数寄屋橋と並んで
葭町はトップの新橋に次ぐランクだった。
そんな貞奴と結婚した音二郎だったが、
芝居一座を旗揚げしたまではよかった。ところが、
代議士に立候補して2度落選し、供託金や選挙資金で大赤字となり、
一座は人手に渡る。そこで、
興行師からの誘いに乗って、1899年4月、
神戸から船に乗ってハワイ経由でサン・フランスィスコウに着いた。が、
その興行師はすでに商売に失敗して夜逃げ。音二郎一座の
興行自体は当たるが、興行師の借財分として
演劇衣装・道具などが差し押さえられてしまう。そして、
売上金を持ち逃げされるという踏んだり蹴ったりで、
姪を養女に出し、弟を預け、一座は東を目指す。
フロンティアの逆をいったのである。
スィアトル、シカゴウ、そして、DC。日本公使館で小村寿太郎に歓待され、
再選されたばかりのマッキンリー大統領にも謁見した。ちなみに、
小村は音二郎が死んで2週間ほどのちの
1911年11月26日に亡くなってる。ともあれ、その後、
NYで2月から4月まで公演を行った。マンハッタンでは
オッペンハイマー節を歌ったかどうかは知らないが、当地で見学した
「俳優養成学校」に関心を示した。貞奴はのちに日本で
演劇学校を作る。4月末にNYからロンドンに向かい、
英国王太子アルバート・エドワード(約1年後にエドワード7世として即位)
の前で日本舞踊を舞った。
6月末には万博開催中のパリに着き、所望されて
「腹切り芸」を即興で披露する。フランス人はことのほか
残虐な見世物が好きだと、帰国後に著した
「川上音二郎欧米漫遊記」で書いてる。が、
慶應4年の堺事件時の切腹武士が自らのハラワタを投げつけたことが
フランス人に強烈な印象を与えてたのであって、
フランシス人が英国人その他の白人よりも残虐が好きというのは
正鵠を射てるとは言いがたい。ともあれ、
「芸者と武士」と題された出し物は好評を博し、
アンドレ・ジド、パブロ・ピカソ、パウル・クレー、オギュスト・ロダン、
ジャコモ・プッチーニ、クロド・ドビュッスィ、イサドラ・ダンカン女史などが
"マダム貞奴"に感嘆したのである。
その後も音二郎一行は数度訪欧したのであるが、1910年、
大阪に西洋式劇場の「帝国座」を開いた。それでまた
借財を抱えてしまう。そして、返済のために粉骨演じ、
腹膜炎を起こして1911年11月11日に47歳で死んでしまった。
未亡人となった貞奴はしかし、
映画「ラ・バタイユ」のミツコのようにではなく、かねてから昵懇だった
電力王福澤桃介(1868-1938、福澤諭吉の養子)と連れ添う。
美男美女のカップルである。
「貞女は二夫にまみえず」
ではなく、
「貞奴は二夫にも万夫にもまみえる」
のであった。
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