チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「ゴンドラの唄(作詞=吉井勇、作曲=中山晋平、唄=松井須磨子)」

2010年08月06日 01時23分40秒 | 歴史ーランド・邪図
♪いのち短し。恋せよ少女(をとめ)♪
(****♪ドーーードー・ドー<レー<ミー│<ソー>ミー<ドー・>ソーーーーー│
    ソー<ラー>ソー・>ミ>レ>ドー<ソー│>ミーーーーー・ーーーー●●♪)
黒澤明の映画「生きる博士とハイド氏」の
市役所市民課課長役の志村喬が雪の降る夜に
児童公園のブランコに乗って歌うスィーンが有名である。が、
「影武者」にスッペの「軽騎兵」序曲を使うような
音楽のセンスのない黒澤のことである。なんの関係もない。

島村抱月が主宰した芸術座の第5回公演、
ツルゲーネフの小説「その前夜(ナカヌーニェ)」を舞台化した劇の
劇中歌として作られた。大正4年(1915年)のことである。その2年前、
松井須磨子(スマコ)は妻子(ツマコ)ある島村とのゴスィップが問題になって
坪内逍遙の怒りを買って同時に文芸協会から追放された。島村は
早大教授職も退くことを余儀なくされた。結果、
二人は芸術座を旗揚げして、トルストイの「復活」を
同じく中山晋平が作曲した「カチューシャの唄」でヒットさせてたのである。
松井須磨子(本名=小林正子=小林は全国的にも8番めに多い名だが、
信州が発祥の名字で、長野市には特に多い)は明治19年(1886)に
真田家松代藩士小林藤太の五女として、
現在の長野市松代町清野に生まれた。

須磨子は女優として名が知れるにつれて傲慢になってったらしい。
次々と座員が離れてったという。そんな1918年10月、
須磨子は流行ってたスペイン風邪に罹り、高熱で寝込んだ。そして、
看病してた島村にスペイン風邪はうつってしまう。皮肉なことに、
須磨子は回復するが、自分がうつした病で11月5日、
島村はあっけなく死ぬ。
翌年1月5日、「カルメン」の公演中にあった須磨子は、島村の月命日に、
現在の新宿区横寺町11番地にあった芸術座の本拠地、芸術倶楽部で、
島村と自分の写真を並べて花と線香を手向け、首を吊った。
「舞台のいろはから教えていただいた先生に背いてまでも縋った人に先立たれ、
どう思っても生きてゆけません。申し上げにくいことですが、
何卒私の死体はあの方の墓へ埋めるようお取り計らい願います」
師である坪内逍遙宛の手紙にも、須磨子の傲慢さがよく現れてる。
妻子あった島村の墓に入れるはずもなく、須磨子の遺骨は、
松代町清野の小林家墓所(生家の裏山)に収められた。また、
新宿区弁天町100番地の多聞院に分骨されてる。
32歳。いーのちいみじいかしーー。
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