本日、2013年3月28日は、ロシア出身の作曲家、
Сергей Васильевич Рахманинов
(スィェルギェーィ・ヴァスィーリァヴィチ・ラフマーニナフ、いわゆる
セルゲイ・ワシリエビッチ・ラフマニノフ、1873-1943)
の、没後70年にあたる日である。
少なくとも当時はほとんど予後が期待できない
メラノーマの全身転移によるものだったが、本人には知らされないまま
ビヴァリー・ヒルズの自宅で死亡した。1943年(昭和18年)、
日米開戦中のことである。山本五十六が撃墜される3週間前のことである。
今日はまた、2代目尾上松緑や山口組3代目田岡一雄の生誕100年の日でもある。
死因の悪性黒色腫とは別に、ラフマニノフはマルファン症候群だったといわれる。
身長が198cmほどで、いつも体の痛みを訴えてた。
マルファン症は結合組織が弱いために、年がら年中組織が破壊されてるので、
ラフマニノフもそのご多分に漏れず、常にしかめっ面だったという。
そんな体質でピアノの鍵盤を強く打鍵することは、
ほとんど拷問だったのではなかろうか。
ラフマニノフの音楽には「あせり」を如実に感じさせるものが多いのも、
その不安神経症的な煩わしさからきてるのだろう。
チャイコフスキーを敬愛し、チャイコフスキーからも有望視されてたが、
チャイコフスキーほどの「パッション」にはほど遠く、代わって、
「感傷」がその音楽を支配する。曲のクライマックスが、
チャイコフスキーのような「パッション」ではなく、
「感傷」で盛り上げられるのである。
「感傷」が一時的な「幸福感」「やすらぎ」「懐古」をもたらす。が、
終いは「あっけなく」閉ざされる。そこに、ラフマニノフの人生を支配した
「諦観」が見てとれる。
作曲家としての前途を悪意で阻まれた20代から復活して
30歳を過ぎて作曲家として成功したものの、
1905年にロシア第一革命が起こって政情が不安になって以降の
「交響曲第2番」(1906-1907)、「ピアノ協奏曲第3番」(1909)、
などにことに特徴的に、
【タ・ター・タ】という律動が用いられてる。
古代ギリシャの詩における韻律の
"amphibrakhys(アンフィブラキュス。英語でamphibrach=アンフィブラック)"
である。接頭辞amphi-(ambi-)は「両方に」「共に」「両端に」を表す。
"ambivalent(アンビヴァレント=両価的な)"のambi-も同源である。
brakhysはラテン語のbrevis(breve)=短い、という意味である。
英語のbrief(短い)はこのbrevisからの派生語である。ともあれ、
この【短-長-短】という韻律は、のちに
西欧各語の詩歌においては[弱-強-弱]となったが、
ロシアにおいてはこのамфибрахий (アンフィブラーヒィ)が、
詩の中でも重要な韻律とされたのである。
祖国ロシアがボリシェヴィキによって赤く汚れていく中で、
貴族・大地主だった家系のラフマニノフにとって、
革命以前のロシアの郷愁をこの韻律にこめたのである。
ラフマニノフの作品の中で、「交響曲第2番」と「ピアノ協奏曲第3番」の
二つが私がもっとも好きな曲なのだが、
そのいずれの終楽章にはくどいほどに
【短-長-短】という韻律があてはめられてるのである。
「交響曲第2番」終楽章
♪●ソ・<シ<レ│<【ファ>ミ・ー>ド】│
<【ミ>レ・ー>シ】│<【レ>ド・ー>ラ】♪
「ピアノ協奏曲第3番」終楽章
♪●ソ・<ラー│ー<ド・<ミー│
ー<ソ・<ドー│ーー・ー>シ│
>【ラ>ソ・ー<ラ】│<【ラ>ファ・ー<ラ】│
<【ド<ミ・ー>レ】│>【シ>ラ・ー<シ】│
<【シ>ソ・ー<シ】│<【レ<ファ・ー>ミ】│
>♯ドー・<レ<ミ│【ミ<ソ・ー>ファ】│
>レー・<ミ<ファ│<【♯ファ<ラ・ー>ソ】│
>ミ<ファ・<ソ<♯ソ│<【ラ<♭シ・ー>ラ】♪
(ピアノをチェレスタに替えて、さらに少し手を加えたものを
TwitSoundにアップしておきました。
http://twitsound.jp/musics/tsmSErFoy )
Сергей Васильевич Рахманинов
(スィェルギェーィ・ヴァスィーリァヴィチ・ラフマーニナフ、いわゆる
セルゲイ・ワシリエビッチ・ラフマニノフ、1873-1943)
の、没後70年にあたる日である。
少なくとも当時はほとんど予後が期待できない
メラノーマの全身転移によるものだったが、本人には知らされないまま
ビヴァリー・ヒルズの自宅で死亡した。1943年(昭和18年)、
日米開戦中のことである。山本五十六が撃墜される3週間前のことである。
今日はまた、2代目尾上松緑や山口組3代目田岡一雄の生誕100年の日でもある。
死因の悪性黒色腫とは別に、ラフマニノフはマルファン症候群だったといわれる。
身長が198cmほどで、いつも体の痛みを訴えてた。
マルファン症は結合組織が弱いために、年がら年中組織が破壊されてるので、
ラフマニノフもそのご多分に漏れず、常にしかめっ面だったという。
そんな体質でピアノの鍵盤を強く打鍵することは、
ほとんど拷問だったのではなかろうか。
ラフマニノフの音楽には「あせり」を如実に感じさせるものが多いのも、
その不安神経症的な煩わしさからきてるのだろう。
チャイコフスキーを敬愛し、チャイコフスキーからも有望視されてたが、
チャイコフスキーほどの「パッション」にはほど遠く、代わって、
「感傷」がその音楽を支配する。曲のクライマックスが、
チャイコフスキーのような「パッション」ではなく、
「感傷」で盛り上げられるのである。
「感傷」が一時的な「幸福感」「やすらぎ」「懐古」をもたらす。が、
終いは「あっけなく」閉ざされる。そこに、ラフマニノフの人生を支配した
「諦観」が見てとれる。
作曲家としての前途を悪意で阻まれた20代から復活して
30歳を過ぎて作曲家として成功したものの、
1905年にロシア第一革命が起こって政情が不安になって以降の
「交響曲第2番」(1906-1907)、「ピアノ協奏曲第3番」(1909)、
などにことに特徴的に、
【タ・ター・タ】という律動が用いられてる。
古代ギリシャの詩における韻律の
"amphibrakhys(アンフィブラキュス。英語でamphibrach=アンフィブラック)"
である。接頭辞amphi-(ambi-)は「両方に」「共に」「両端に」を表す。
"ambivalent(アンビヴァレント=両価的な)"のambi-も同源である。
brakhysはラテン語のbrevis(breve)=短い、という意味である。
英語のbrief(短い)はこのbrevisからの派生語である。ともあれ、
この【短-長-短】という韻律は、のちに
西欧各語の詩歌においては[弱-強-弱]となったが、
ロシアにおいてはこのамфибрахий (アンフィブラーヒィ)が、
詩の中でも重要な韻律とされたのである。
祖国ロシアがボリシェヴィキによって赤く汚れていく中で、
貴族・大地主だった家系のラフマニノフにとって、
革命以前のロシアの郷愁をこの韻律にこめたのである。
ラフマニノフの作品の中で、「交響曲第2番」と「ピアノ協奏曲第3番」の
二つが私がもっとも好きな曲なのだが、
そのいずれの終楽章にはくどいほどに
【短-長-短】という韻律があてはめられてるのである。
「交響曲第2番」終楽章
♪●ソ・<シ<レ│<【ファ>ミ・ー>ド】│
<【ミ>レ・ー>シ】│<【レ>ド・ー>ラ】♪
「ピアノ協奏曲第3番」終楽章
♪●ソ・<ラー│ー<ド・<ミー│
ー<ソ・<ドー│ーー・ー>シ│
>【ラ>ソ・ー<ラ】│<【ラ>ファ・ー<ラ】│
<【ド<ミ・ー>レ】│>【シ>ラ・ー<シ】│
<【シ>ソ・ー<シ】│<【レ<ファ・ー>ミ】│
>♯ドー・<レ<ミ│【ミ<ソ・ー>ファ】│
>レー・<ミ<ファ│<【♯ファ<ラ・ー>ソ】│
>ミ<ファ・<ソ<♯ソ│<【ラ<♭シ・ー>ラ】♪
(ピアノをチェレスタに替えて、さらに少し手を加えたものを
TwitSoundにアップしておきました。
http://twitsound.jp/musics/tsmSErFoy )
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