音曲亭ぱつら

ジャズプレイヤー金子雄生の音曲話と与太郎的日常生活におけるその傾向と対策に関する一考察

親父との二か月間。

2024年12月18日 | 徒然
親父が逝った。



事の始まりは9月7日

前日に肺炎球菌ワクチンを打ってから、どうも具合が悪かったらしいが

我慢強い人で

明け方まで我慢していたが吐き気と脱力状態。ここで私にSOS。

遅いよ。

救急車で搬送され、様態が安定し、しばらく様子を見ましょうということで一度帰されるも

再度発熱。解熱剤で抑えてみてもアップダウン激しく、翌朝39.7°まで上昇。再度救急搬送。

心臓カテーテルなどの検査など合わせ、入院。IMCUに。


ここからだ。


翌朝、ドクターから電話。

劇症型心筋炎にて血圧上がらず ECMO(エクモ)を装着するという。

数日後、容態芳しくなくIMPELA(インペラ)という心臓内部にじかにアプローチする最新の技術まで導入。

さらに、腎不全のための透析。

「長期戦になる」というドクターの声。

いろいろが頭を駆け巡り、目の前が暗くなり、足取り重くなる

が、

その一週間後にはエクモもインペラも取れて、麻酔を覚ましている。

強いねぇ~w

その後、見舞いに行くと口から入れていた呼吸器も取れていて

目を開けてこっちを見ている。

「今回はえらい目にあった。」なんて言ってる。

えらい目にあったのはこっちだ、とうそぶく。

冗談を言い合い、ベッドの脇に起きあがりリハビリをするまでになるも

一週間もすると 心肺の状態が弱くなり、再び呼吸器をつけてはまた回復し

と幾度と繰り返し

最後は気管切開して呼吸器を装着したけど

私に伝えようと、50音表で指を差し

めんどくさいことを言った。


腎機能も回復せず 透析やむなし

回復処置によっておこるやむを得ない感染症

施術中に起きた脳梗塞など

絶望せず立ち向かった。

そして「非閉塞性腸管虚血」

これが直接の死因となる。


11/17
夜中に病院から最後の電話が鳴った。


2か月間、親父は戦った。

生きようとがんばった。

倅と一緒にうちに帰ろうと。

それと同時に

親子として特別意味のある2か月間だった。

考えさせられ、迷い、悩んだ。

親父と一緒にうちに帰ろうと。



親父は「堅治郎」という名前がいやだったそうだ。

堅く治める。おじいちゃんがこの家をどうか治めてくれと思って名付けたんだろうと。

それでも

その名の通りやってのけたんだと思っている。

諸々の書類はきちんとファイルに整理され

余分なものは何も持たず

洗濯物ひとつ残さなかった。

完璧だった。




親父殿

ありがとうございました。

貴方と、おふくろのおかげで

とても幸せな人生です。

私からは 何の恩返しもできませんでした。

これからも一生懸命生きていきますから、それで勘弁してください。

本当に、ありがとうございました。






令和6年11月18日
金子堅治郎 死去
享年86歳
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