Y君と一緒にルームメートのX君の家を尋ねた。X君のお宅へは初めてお邪魔するのでその辺の勝手はよくわからなかった。「玉前街」かというバス停で降りたらしばらくするとX君が迎えに来てくれた。案内をもらって家にたどり着いた。長い長い坂道だった。山にでも登るかのように思われる程だった。その頂上に位置しているだけに登るのに時間が随分かかった。途中で小学も見えた。X君の通った小学だそうだ。
X君の家を一通り見物した。少しは窮屈に感じながらもきちんと片付いていた。おばさんにとても手厚いもてなしを受けた。ワールドカップの再放送を見ながら四方山話をしている内に時間のたつのを忘れてしまい、気がついたらもう午後4時半だった。おれは駅へ切符を買いに行かなければならないからそろそろ行く時間だと別れた。いつかわからないけど、きっとまたおれがお邪魔するだろう。
バス停までX君が見送りに来てくれた。その後おれは一人で駅前行きのバスに乗った。24日晩23時の切符を買った。やっと家に帰る決心がついた。楽しいというか、寂しいというか、言うに言われぬ感情が胸に広がってきた。さらば、鞍山!
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X君の家を一通り見物した。少しは窮屈に感じながらもきちんと片付いていた。おばさんにとても手厚いもてなしを受けた。ワールドカップの再放送を見ながら四方山話をしている内に時間のたつのを忘れてしまい、気がついたらもう午後4時半だった。おれは駅へ切符を買いに行かなければならないからそろそろ行く時間だと別れた。いつかわからないけど、きっとまたおれがお邪魔するだろう。
バス停までX君が見送りに来てくれた。その後おれは一人で駅前行きのバスに乗った。24日晩23時の切符を買った。やっと家に帰る決心がついた。楽しいというか、寂しいというか、言うに言われぬ感情が胸に広がってきた。さらば、鞍山!
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今日は大学生英語四六級試験の本番です。
午前は四級試験、午後は六級試験。朝目覚めたらもう八時半、トイレに行った時硝子窓越しに大勢の受験生が教室棟の入り口で群れて待っているのが見えた。試験は午前9時から始まるようだ。彼らの姿を見たら自分のあのごろを思い出した。おれは四級試験を何回受けたか自分さえわからない。そして何回目で受かったのかも忘れた。少なくないことだけは確かだ。六級試験も何回受けた覚えはあるが今でも合格してないままだ。四六級英語試験は中国で行われる大学生向けの試験だ。四級と六級の2レベルがある。日本語を勉強して初めてわかった、中学から何年も英語を勉強していても上達しない原因。本当は自分から進んで勉強することはなかった。おれいつも試験のために勉強してきたんだ。自信がないほど英語が嫌い、嫌いなほど英語に自信がなくなる。その悪循環の繰り返し。この間鄭州で筆記試験を受けた時はとうとう英語読解力はゼロになったと同然、さっぱり分からなかった。再勉強もしたいがこの年頃ではもう無理かな。日本語だけはちゃんと勉強したい。
↓↓↓試験が始まる半時間前、受験会場の外
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午前は四級試験、午後は六級試験。朝目覚めたらもう八時半、トイレに行った時硝子窓越しに大勢の受験生が教室棟の入り口で群れて待っているのが見えた。試験は午前9時から始まるようだ。彼らの姿を見たら自分のあのごろを思い出した。おれは四級試験を何回受けたか自分さえわからない。そして何回目で受かったのかも忘れた。少なくないことだけは確かだ。六級試験も何回受けた覚えはあるが今でも合格してないままだ。四六級英語試験は中国で行われる大学生向けの試験だ。四級と六級の2レベルがある。日本語を勉強して初めてわかった、中学から何年も英語を勉強していても上達しない原因。本当は自分から進んで勉強することはなかった。おれいつも試験のために勉強してきたんだ。自信がないほど英語が嫌い、嫌いなほど英語に自信がなくなる。その悪循環の繰り返し。この間鄭州で筆記試験を受けた時はとうとう英語読解力はゼロになったと同然、さっぱり分からなかった。再勉強もしたいがこの年頃ではもう無理かな。日本語だけはちゃんと勉強したい。
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已然形はなぜ消滅したの?
動詞などの活用形として、「未然」「連用」「終止」「連体」「命令」は現代文でも続いているのに、已然形はありません。
なぜ消えてしまったのでしょうか?
#######################################
已然形という活用形には、
(1) 接続助詞「ば」、「ど」「ども」を下に伴って、順接・逆接の確定条件を表す。
(2) 完了の助動詞「り」を下に付ける。
(3) 係助詞「こそ」の結びになる。
というはたらきがあります。
しかし江戸時代後期の話し言葉(および話し言葉調の文章)になると、
(1)の意味は、
行くので、行くと
行くけれど、行くのに、行くが
などのような形で表すようなります。
(2)の完了の助動詞「り」も、とっくに使われなくなっています。
(3)の係り結びもほとんど行われなくなりました。
というわけで江戸時代には已然形の働き場所がなくなっていったのです。
その一方で、従来「未然形+ば」の形で表現されていた「仮定条件」が、江戸時代後期になると、
もし明日行けば、
のように、「已然形+ば」の形で表現されることが多くなっていきます。
この用法は、「已然形+ば」の本来の用法の一つだった「順接の恒常条件」から発達したものと考えられています。「順接の恒常条件」というのは、
ある条件のもとでは、必ず一定の結果があらわれる
というもので、単純な例でいえば、
風吹けば、葉動く。
のようなものです。
現代語でいうと、
風が吹くと、(かならず)葉が動く。
ということで、さらに、
風が吹いたら、(かならず)葉が動く。
と言い換えることも可能です。
「順接の恒常条件」と「仮定条件」とは、けっこう近い関係にあることが納得していただけると思います。
以上の事情で、古典文法で「已然形」と呼ばれる形が、口語文法では「仮定形」と呼ばれるようになったのです。新装開店みたいなものです。
「未然形+ば」の仮定条件が完全に使われなくなったわけではありませんし、また未然形の機能すべてが仮定形に移ったわけでもありませんので誤解のないようお願いします。
さらに江戸時代でも現代でも文語調の文章では、已然形が本来の用法で使われる例もあります。
「あわよくば」については、
奈良時代以来、形容詞や打消しの助動詞「ず」を仮定条件にする際には、
恋しくは、
知らずは、
のような形が使われることがありました。「は」の部分はもともと清音です。後に濁音化したのです。
文法的な考え方としては、
イ、形容詞、「ず」の連用形に、係助詞「は」がついたもの
ロ、形容詞、「ず」の未然形に、接続助詞の「は」がついたもの
という二つの考え方があります。
かなり厄介な問題ですし、「已然形はなぜ消滅したか」という問題とはまた別の問題ですので、この辺で私の回答を終わりにします。
動詞などの活用形として、「未然」「連用」「終止」「連体」「命令」は現代文でも続いているのに、已然形はありません。
なぜ消えてしまったのでしょうか?
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已然形という活用形には、
(1) 接続助詞「ば」、「ど」「ども」を下に伴って、順接・逆接の確定条件を表す。
(2) 完了の助動詞「り」を下に付ける。
(3) 係助詞「こそ」の結びになる。
というはたらきがあります。
しかし江戸時代後期の話し言葉(および話し言葉調の文章)になると、
(1)の意味は、
行くので、行くと
行くけれど、行くのに、行くが
などのような形で表すようなります。
(2)の完了の助動詞「り」も、とっくに使われなくなっています。
(3)の係り結びもほとんど行われなくなりました。
というわけで江戸時代には已然形の働き場所がなくなっていったのです。
その一方で、従来「未然形+ば」の形で表現されていた「仮定条件」が、江戸時代後期になると、
もし明日行けば、
のように、「已然形+ば」の形で表現されることが多くなっていきます。
この用法は、「已然形+ば」の本来の用法の一つだった「順接の恒常条件」から発達したものと考えられています。「順接の恒常条件」というのは、
ある条件のもとでは、必ず一定の結果があらわれる
というもので、単純な例でいえば、
風吹けば、葉動く。
のようなものです。
現代語でいうと、
風が吹くと、(かならず)葉が動く。
ということで、さらに、
風が吹いたら、(かならず)葉が動く。
と言い換えることも可能です。
「順接の恒常条件」と「仮定条件」とは、けっこう近い関係にあることが納得していただけると思います。
以上の事情で、古典文法で「已然形」と呼ばれる形が、口語文法では「仮定形」と呼ばれるようになったのです。新装開店みたいなものです。
「未然形+ば」の仮定条件が完全に使われなくなったわけではありませんし、また未然形の機能すべてが仮定形に移ったわけでもありませんので誤解のないようお願いします。
さらに江戸時代でも現代でも文語調の文章では、已然形が本来の用法で使われる例もあります。
「あわよくば」については、
奈良時代以来、形容詞や打消しの助動詞「ず」を仮定条件にする際には、
恋しくは、
知らずは、
のような形が使われることがありました。「は」の部分はもともと清音です。後に濁音化したのです。
文法的な考え方としては、
イ、形容詞、「ず」の連用形に、係助詞「は」がついたもの
ロ、形容詞、「ず」の未然形に、接続助詞の「は」がついたもの
という二つの考え方があります。
かなり厄介な問題ですし、「已然形はなぜ消滅したか」という問題とはまた別の問題ですので、この辺で私の回答を終わりにします。