私の実家の裏には、川が流れています。
昭和30年代中盤、物心の付いた頃まで、母は川で洗濯をしていた記憶があります。
すると、川の上流から、大きな桃が・・・いや、流れてはきませんでした。
そこまで、昔の話ではありません。
川は、私を初め、近所の子供達の遊び場でした。
夏は、ゴム草履(ビーチサンダル)をはき、網を持って川で遊びます。
川が蛇行しているところがあって、そこには魚が沢山いるのですが、急に深くなるので絶対に近寄るな、と教えられていました。
大して広くも深くもない川ですが、親は自然で遊ぶ中での約束事や、危険な事を、きちんと教えてくれていたのです。
山に行くときも、同じでした。山でしてはいけないこと、行ってはいけない場所は、すっぱいほど聞かされました。
女子の短パンなどは、なかった時代でしょうか。
スカートのすそをパンツにはさんで川に入り、川下で網を構え、友達が上流から魚を追う。
あるいは、川に迫り出した草むらを足で踏み、隠れていた魚が飛び出して来るのを、網で掬ったり。
川には、地元では「はえ」と呼ぶのですが、「はや」ばかりいて、とても食べれるような魚ではなかったのですが、捕まえるのが楽しかった。
バケツで持ち帰る頃には、魚たちは弱ってしまい、口をぱくぱくさせながら、お腹をみせていました。
それを、再び川に戻す・・というか、捨ててしまうのです。
残酷なことをしているという意識は、ほとんどなかったと思います。
ちょっと話はちがうけど、今ではしない昆虫採集ですが、当時は、夏休みの宿題で、沢山の蝶やトンボを虫ピンでさして提出する子も沢山いましたもん。
今はトンボを取ってもすぐに逃がしてあげるんですよね?
命を大切に・・・すべての命は平等。。。
その割には昔はなかったような問題が。
言えないような残酷な遊びもしていましたが、まあ、ここでの懺悔はやめておきます。
アーメン
さて、大漁で親が喜ぶのは、カワニナ。
私たちは「ニナ」と呼んでいました。
沢山採って帰ると、父が喜ぶ。
なぜなら、茹でると絶好のおつまみになるからです。
父は毎晩、適量の晩酌をしていて、父だけが特別のおつまみを食べていました。
それがうらやましくて、一口ちょうだい、とねだると、母に叱られた。
しかし、カワニナは、見た目が気持ち悪くて、ねだることはなかったです。
爪楊枝で身を出すと、最後にウ〇コみたいなものが付いてるでしょ。
あれ、なに?やっぱう〇こ?
しつれいっ。
洗濯や、生活排水の流れる川で採ったものを食べていたあの頃。
カワニナがいる、ということは、それを餌にする蛍の幼虫も、蛍も沢山いますよね。
川の上を飛ぶ蛍は、先日話にでてきた蛍の数よりは、うんと少なかったですが、部屋の電気を消すと、飛び交う蛍が家から見えるんです。
最高の贅沢です。
最近でも、お盆頃に帰省すると、平家蛍がたまに飛んできます。
私には、わかるんです。
あ、蛍が飛んで来る・・・って。
これは幼い頃のいつかの時期に身についた、嗅覚でも聴覚でもない、なにか特別な「覚」だと思います。
雪の匂いもわかりますよ。
最近ではちょっと退化した感覚ですけど。
川におりて、平らな石を投げる。
あの頃は、最低でも三回は水面を弾いて飛んで行ったけど、今はできないでしょう。
運動神経はだめでも、そういう技は結構器用でした。
川岸のブロックに座って、足でリズムを取って歌を歌っていたら、勢いで川に落ちたことがあります。
浅いところで、多分足から落ちたのでしょうが、一瞬だけ顔が水に浸かったとき、見上げた風景を、今でもうっすら覚えてます。
歌っていたのは、知る人ぞ知る「おーいなかむらくん」でした。
古すぎる昭和の歌。
あるときは、おやつをもちながら川に石を投げて遊んでて、おやつを投げてしまって泣いたこともありました。
どこを切り取っても、運動神経のない、とろくさい自分が垣間見えます。
そうそう、川で遊んでいて、ゴム草履が流されると、道路に上がって走って川沿いを下り、草履がひっかかる場所で待機して、拾っていたような記憶。
川で泳いでいたこともありますが、私の場合は、川に浸かっていただけ。
当時、タイヤのチューブが浮輪の代わりでした。
遊んだり泳いだりしているときに、蛇が泳いで来ることもあり、世界一運動神経のない私も、その時の逃げ足だけは早かったような。
蛇は大嫌いでしたが、石垣などで蛇の抜け殻を見つけたときは、大事に持って帰りました。
財布に入れておくとお金がたまる、と親が言っていました。
母がちゃっかり、自分のお財布に入れておりました。
当時、私はお財布なんて持ってなかったのでしょう。
お小遣は、握りしめられる分しかもらえない時代。
小さな掌がお財布でした。
昭和30年代、戦争が終わって20数年、ものがそこそこあり、そこそこ足りなかった頃、山の奥の小さな川とともに育ちました。
今は、わざわざお金を出してするような体験が、当たり前の日々でした。
お金があれば、ほぼなんでも叶う時代ですが、情緒や心の形成は、長い積み重ねだし、お金では買えないのでしょうね。
だからといって、私が素晴らしく立派な大人になったとは言いませんが、これまで生きてきた毎日が積み重なって、今の自分がいるのだろうな、と思います。
こんないまこそ、自然とともに生きる、ということの大切さを思うときだと感じますが
なかなかどうして、人間様の驕りは、ちょっとやそっとでは消えそうにはありません。
思い出は美しく脚色されることもありますが、考えてみると、よいことの方が多い人生でした。
まだ続きますけどね。
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今日もつつがなく過ぎますように
感謝をこめて
つる姫