また冬が来て、マイケルはすっかり大きくなった。
首に巻きついて眠ることもなくなり
自分の体重を気にしているはずはなかろうが
出窓から、お腹にジャンプしてくる事もなくなった。
彼は、毎朝お化粧をしている間中、部屋を走りまわっていた。
しかし、口紅をつけ始めると
決まって遊ぶのをやめ、私の膝に入って眠り始める。
なぜだろうと、ずっと考えていた。
大抵の女性は、お化粧の最後に口紅をひく。
きっと、鼻のいいマイケルは、
紅の匂いがした後で、私がドアを出て行く事を学習したのだ。
ピンクの口紅の蓋を、カチッと閉めて
膝からマイケルをおろすと、先に玄関に走っていく。
扉と私を交互に見つめて、靴の前に座っている。
内側の鍵の金具が回って、足音が遠ざかった後
彼は、どのように一日を過ごしていたのだろう。
マイケルと暮らし始めた事を悔やんだ。
自分のさみしさを埋めるため
マイケルを孤独にしてしまったのではないか。
しかし、あのままでは三味線になったのだ。
いずれにしても、人間のエゴではないか。
マイケルがいるので、泊りの旅行に出る事もなかったのだが
ある時、親せきに不幸があり
どうしても一晩だけ、家を空けなければならない事になった。
猫は、必要な分だけしか餌を食べないので
一度に多く餌を置いておいても、食べすぎる事はない。
一度教えただけで、ウンチもおしっこも、トイレできたし
爪も爪とぎのところでしか研がない、聡明なマイケル。
一日くらいなら何とかなるだろう。
新幹線に乗り、夜遅くに、お通夜の終わった親戚の家に着き
翌日の告別式が終わると、東へ行く新幹線に飛び乗った。
暮れ始めた道を、マイケル、マイケルと心で呼びながら
部屋に向かって急ぎ足で歩く。
階段を上り始めた所で、すでにマイケルの鳴き声が聞こえてきた。
耳のいいマイケルは、どの辺りから、私の足音を認識していたのだろう。
玄関の向こうで、待ち構えている彼の顔が目に浮かぶ。
急いで鍵を開ける。
にゃあにゃああああ~にゃあああああ~ふにゃにゃにゃ~あ。
マイケルが、靴を履いたままの足にまとわりつくが
部屋には、私が食べるものが何もない。
一旦荷物を置いて、そのままコンビニに行こうとすると
マイケルが着いて出てきそうになり、ドアが閉められない。
こんな事は初めてだ。
外に付いて来ようとするそぶりなど、一度も見せた事がない。
「ごめんね、今度はすぐに帰ってくるから」
再び鍵をかけて階段を下りても、まだ大声で鳴いている。
食料を買って戻ってくると
ぴったりとくっついて離れようとしない。
脱ごうとするストッキングに爪を立てて伝線させる。
やっと着替えを済ませて座ると、膝の上に乗ったきり
びくとも動こうとしない。
よほど不安で淋しかったのだろう。
何度も何度も、玄関の鍵を見あげに行ったのだろうか。
その夜マイケルは、初めてゆるいウンチをした。
緊張が胃腸に来るのは、人間だけではないようだ。
華やかなクリスマスも、年末の喧騒も
みんな、マンションの外にある。
除夜の鐘を聞く事もなく、マイケルと眠る。
気がつくと、空を飛んでいた。
雪を被った富士山の横を通り過ぎる。
雲を突き抜けると、頬に雲の粒が当たって痛いほどの猛スピードだ。
さあ~っと雲の下に出ると
眼下に東京の街が広がった。
米粒のような家や四角い建物。
黄緑色の山手線が、まるいカーブを描いて走っている。
黄色い電車が横切っている。
その景色がだんだん狭まって、米粒程の大きさだった家が、目の前に迫った。
瞬間に目が開いた。
たった今まで寒空を飛んでいたように、頬はまだ冷たい。
雲の粒が当たった感覚が、しっかりと残っている。
神聖な風で洗い清められた魂が、身体にすうっと還ってきたような
かつてないほど、爽快な目覚めの朝。
東京は快晴。
先ほど俯瞰で見たのと、全く同じ明るさの街が
窓の外に広がっていた。
新しい年の初夢だった。
それからひと月ほど後、
女性として、人生節目の誕生日を迎えた。
もう、迷っている時間はない。
やりたかったことを、いまやろう。
待っていても、何も来てはくれない。
こっちから、捕まえにいってやる。
自分のオールを握りしめて、違う海に出よう。
そのためのタネは、蒔いたではないか。
自信を持って前に進もう。
首をかしげて私を見あげ
生まれつき、引きちぎられたように短いしっぽを
ゆっくりと動かしていたマイケルが
いきなり背を向けて、お気に入りの出窓に飛び乗った。
別れを予感したかのように。
凛と背筋を伸ばして座る、マイケルの黒いシルエットの向こうに
赤い電気が点滅している。
その上で、真冬の星が、鈴を鳴らすように輝いている。
あと一回つづく
今日もご訪問くださりありがとうございます。
感謝をこめて つる姫