幸福を掴む生き方シリーズ
当旧HP 2003/3/15---2022/10/10 ブログへ掲載
自己の存在意義と魂の学習(主に霊脳通信1992年8月号より抜粋)
人は社会人となり、一人前として仕事を与えられて働くようになると、様々な困難や苦しみ挫折などに出会い、昔の楽しかった学生時代のことを懐かしむものです。
人として地上で生活するための存在意義は本来において魂の学習でありますから、自分に与えられた様々な苦労や苦難を通して創意工夫して、魂の向上する機会を与えられた試練であると思い、それを素直に受け入れて全身全霊を込めて自ら解決して行こうと決意し実行するとき、守護霊は良いヒントを与えてくれるものです。
義務教育のようにたとえ及第点に達しなくても、出席さえしていれば1年毎に進級し、やがて卒業できることは常識でありますが、地上生活で人生に於ける魂の学習としてはそれではインチキであり、宇宙や霊界の掟として認めてもらえないのです。
ですから、自分の魂に於ける各ステップでの学習や修養は、高校とか大学のような入学試験や進級試験があるように、今まで学んできた事柄について各科目が全てについて及第点に達しないと入学できなかったり、あるいは進級できないのと同様に、人生に於ける様々な魂の体験学習と試練についても一つ一つクリヤーしないと、次なるステップのレベルへは上がれないものです。
人というものは、魂的に観ると物質的に恵まれていても精神的な進歩向上がない時は、退屈を感じ焦燥するものです。
そのためには常に何か自分に適する目標を持ち、それに向かって方法を講じるのに思考・創意工夫して達成するために実践するのです。
計画した目標が建設的であり、大きく魅力あるものならば意欲を駆り立てられるものであり、途中に起こるであろう様々な困難も左程は苦にならないでしょう。
そして夢と希望に溢れて有意義で喜び多く感動と生き甲斐を感じ、心は明るく積極的になれるものです。
人は何事につけ勇気と主体性に乏しいと、人生上において起こる様々な出来事の中で、苦難に出会うとすぐに挫折して絶望感を強く抱き、生きている意義と生き甲斐を失うものです。
しかし、永い時の流れというものの中において、直面する色々な問題を試練であると素直に受け止めて、一歩一歩と前進し与えられた課題・課程を乗り越える努力を通して、自分の存在感と力量が少しづつ認識できるようになるでしょう。
そして、確りした人生設計に基づいて有意義に且つ、生き甲斐を得られる様に生きられるような能力・才覚を身に付けていくものです。
人は個生命が各自に表現されたものであり、人生に於いて様々な体験を通して魂の学習から自己の存在理由を知るに至り、自らの使命・役割と運命を全うすることが出来るようになるでしょう。
自由意志と思考の相違は文殊の知恵(主に霊脳通信1993年2月号より抜粋)
あなたの意見や主張とか、信条や信念を他の者が仮に完全に理解できないとしても、それはそれで良いのです。
何故ならば、人は皆それぞれに誰とも違ったところが必ずあるからです。
顔つきにしても、容貌にしても、声や話し方、感情さえも違うでしょう。人は画一ではないのですから、他者には真似が出来ない方法で躍動する生命を表現すれば良いのです。
今までの人生で経験した出来事の事実は事実として、自分が体得したことを述べるのは別にかまわないわけです。
それを他者が信じるか、信じないかは相手側の課題であり、例え相手が信じなかったところで、あなた自身が傷つく事もないでしょう。
それは、相手があなたの主張などをどう受けて、どう感じどう見るか、そしてどう評価するか、それ自体は相手が思考し判断する選択に係っているからです。
ですから、こちらから一方的に、相手が信じるとか、信じないとかを予想して、そこまで見込んではならないのです。
ましてや世間では往々にしてあることですが、他者に向って「自分の言うことが聞けないのか」と、怒っているようでは利己主義になるでしょう。
人は大生命より与えられた個々の自由意志を持っています。
前世から続いている性格とか運命、生まれ育った環境などにより習慣を始め考え方や価値観は自ずから違ってくるわけです。
ですから、それぞれの意見の相違があろうとも互いに争うような気持ちにならず、心を広く持って、このような考え方や観方があったのかと思うようにするのです。
特に聖人の教えに基づく真理の話は皆と共同的に聴くことはできたとしても、各自は人格により各々の先天的な徳の分量に応じてしか理解は出来ないものです。
さらにその実行となると、一人一人は個人的に霊的な進化の段階(ステップ)レベルを始め、生き方や人生観とか習慣や思考などは互いに違いますから、同志と相談して共同に行なうことなどは不可能なのです。
昔から3人寄れば「文殊の知恵」と云われるように、様々な発想法から奇抜や独創的な良い考えを得ることもあります。
個々の意見や考え方に相違があろうとも夫々を尊重することで調和を図り、その中から優れた点を取り上げることが大切でしょう。
それを課題としてさらに飛躍した奇抜な発想を求めるようにすると、あらゆる問題の道は開けて良い方向へ展開して行くのです。
人の価値は生き方と思考と能力の発揮で決まる(主に霊脳通信1994年2月号より抜粋)
人はどんな生まれ方をしたとか、幼少時に両親と死別して孤児だったとか、幼少の時代から少年の頃に貧困でろくに食べてなかったり、学校も休みがちで衣服は綻びひどい格好をしていたとか、辛く苦しく哀れな生活を送っていたからとて、現在の立場における価値に変わりはないものです。
つまり、人の価値は過去において、どんな環境だったとか境遇を送って来たのかではなく、その人が今までにどのような人生観で思考を続けて、どんな心構えで生き方をして来たかが重要なのです。
それはその人の未来は、その人を取り巻く環境とか境遇という周囲が決めるのではなく、本人の思考とか意志である「心」という内なる想いが人生を決めていくからです。
例え今が堪え難い苦しみや辛い境遇にあろうとも、自己の志しによって人生の流れ・運命を変えて行くことが出来るものです。
人は先ず心・意識が動いてこそ、思考も行動も全てが動き出すわけですから、自己の「心・意識の中に何を受け容れるか」が重要な問題なのです。
未来を豊かで実り多くバラ色に輝く人生にしたいのなら、自己のみでなく他者にも恩恵のある建設的な夢や願望という利他的な目標を定め、真理を学んで実践し光明波動に心の波長を合わせて自己の適性を知り、個性的な得意とする分野の才能を伸ばすようにすることが懸命でしょう。
つまり例え過去はどうであれ、今の「心境・心得」が大切なのです。
自らの存在意義に気付き、これからの人生をさらに価値あるものとするには、自己に内在する個性的な本領を見い出して発揮するのがよいでしょう。
それには常日頃から自分の生き様や性格を把握して、適性とか子供の頃から得意とする分野を見い出すようにしたり「内なる声」に耳を傾けて、天分としての個性・才能を開発することが望ましいのです。
自分に秘められた能力を信じることも大切です。
ただ表面的に現れたところの学問とか知識、技術や技能のみに頼ることは、本質である霊的な存在を見失うことにもなりかねません。
それは卒業証書とか免許・資格や認定書が決して、自分の代わりをするものではないからです。
しかしながら、現実の社会は学歴偏重で免許・資格が重宝されて、学問とか技能を優先させていますから遺憾なことです。
本当をいえば霊的な人間とした立場から見れば、それらは魂の器量を表現する枝や葉に相当するものに過ぎないわけです。
真理から言えば学問や技術の能力が人一倍優れていても、人格が低いと人柄に現れて必要な人材が集まらなかったり追て来なくて、チャンスに恵まれず能力を発揮できず実社会で生かせないのです。
今の世の中は唯物的な練金術が蔓延っていますから、一般の考え方に偏見・偏狭があることもいたしかないでしょう。
ここで、精神世界に目覚めた人々は自己の存在を霊的と自覚し、霊格・霊性を高めるように努めることが、真の幸福を得る近道であることを知るのです。