QOOTESの脳ミソ

日記や旅の記録(現在進行中および過去の旅)がほとんどですが、たまに「腹黒日記風」になっているのでお気を付けください。

アメリカ南部の思い出 8 [Boarding Houseとはどういうところか]

2025-02-15 11:07:51 | Memories of the Southern States
約束の時間に指定された家に着き、車寄せに駐車するとすでに勤め先の初老の女性の担当者が待っていた。

ニューヨークの方からフロリダの方にまで続く線路の真ん前にある古い大きな木造二階建ての家。一階は外をぐるっと囲むように一段高くなったところにポーチがあり、玄関脇には映画「カラーパープル」でウーピーゴールドバーグが乗っていたような二人乗りのブランコがある、典型的なアメリカ南部の民家。

担当者に付き添われて玄関のベルを押すと、でっぷりと、でもがっしりとした大家の女性が出てきた。南部のGreasy(脂っこい)でタンパク質たっぷりの料理で作られた頑丈な身体だ(笑)。これが、英語の時間で習う「Landlady」だなと思った。Landloadが家主、Landladyがその女性版、女家主と言う意味。

ただ、スチュワーデスさんと同じで、今の英語では性別によって単語を使い分けるようなことを避ける傾向にあるので、実際にはOwnerとか呼ばれているのかもしれない。会話の中でそれに対応する単語は出てこなかったのでその部分は不明だ。

今時の正確な用法はわからなくてもLandload、Landlady、Ownerのどれかで意味は伝わる。最近は「正しい英語」について「いちゃもん」・・・もとい、アドバイスをされる方が多いが。間違ったor時代遅れの単語でも近い単語を言えば文脈で伝わるし、その時にネイティブが正しい単語を教えてくれるのでその時に正しい表現を覚えれば十分。今の人が好きな「タイパ的正義」である。

語学の堪能な方とか語学系Youtuberの皆さんには、「その単語は古い(or間違ってる)、今は〇〇〇って言うのよ」とか、初学者に不必要な余計なアドバイスをする方が多い。

語学留学の行き先選択で「〇〇の英語はなまりなあるから・・・」と言っている人をよく見かけるが、大丈夫。逆になまりが身に着いたら大成功。そこまで英語が習得できる人の方が少ない(笑)。僕の英語は日本に帰って来る頃には南部訛りだったが、メディアの力で訛りはだんだんとなくなっていった。全然心配する必要はない。

大家さんを含め3人、ひとしきり挨拶をして世間話を終えると、勤務先の担当者は「じゃ、大丈夫そうね。Have fun!」と一言確認して帰って行った。

家主の女性は「じゃ、家の中を案内するね。」と僕を中に促す。

Boarding HouseをGoogleの辞書で調べると「有料の宿泊客に食事や設備を提供する個人住宅、または下宿(屋)を指します 」とあった。僕の場合、部屋を一部屋お借りするのみで食事の提供はない、気楽な環境だった。

内部もハリウッド映画に出てくるような典型的なアメリカの住宅で、まず一階に入ると正面に映画「エクソシスト」でリンダ・ブレア演じる少女リーガンがブリッジしたまま降りてきて血反吐を吐きそうな階段がある。

「左側が私『達』が住んでいるエリアで、こっちの右側は今はアラブ人の一家が住んでいるけど家賃滞納してるのよね・・・」と困った顔で言うので、僕も困った表情を作って「そうなんですか・・・」と言っておいた。

「使ってもらう部屋は2階。」

エクソシストの階段を上ったところに一部屋、その裏ホールに面して何部屋かあった。その時点ではすべての部屋がどうなっているのかは知らなかったが、その後結果的にすべての部屋の内部を知ることができたので、間取りを書いておくと、

エクソシスト階段を上がったところの一部屋はベッドルームとリビングルームの二部屋の一番大きい世帯。あとの4部屋は全てワンルームだが、一部屋だけが広い12畳ほどのワンルームで他の3部屋が各8畳ほど。3部屋のうち一部屋は電子レンジとでかい共用の冷蔵庫があるのみの「キッチン」スペースだったので、じっさいに居住できるのは4世帯。そのうち一番広い方から2世帯はすでに住んでいる人がいるとのことだった。

大家さんは残り2部屋のうちの一部屋の鍵を開けて「ここを使ってもらおうと思う。」と僕を促した。「もう一部屋の方も空いてるけど、あっちがいい?」と聞くので、両方見比べたらどちらもそうたいして変わらないので「こっちで問題ないです。」と返答。

部屋にはベッドと棚があり、棚にはテレビが置いてあった。窓には窓用のエアコンが設置してありその上から裏庭が見えた。裏庭にはビニールのモノだがやたら大きな円形のスイミングプールがあった。「夏はあのプールで泳いでもいいよ。ちゃんと水質のメンテナンスもしてるから、安心して使ってもらえると思う。」と家主。

暖炉もあったがセメントで埋められて使えないようになっていた。その代わりただ燃やすだけの質実剛健なガスストーブがあった。ただ、ガスストーブが必要な時期まではそこにはいないだろうと思っていた。

「今見たと思うけど、向かいの部屋が『キッチン』。自分の食糧はわかるようにして冷蔵庫に入れて。これも見たと思うけど、部屋を出て左にあったのが共同のトイレとシャワー。一つしかないから朝は混雑するかもしれないよ。気を付けて。電気代は家賃に含まれてる。家賃は職場が払うからあなたが追加で払うものは全くない。テレビはケーブルテレビで、有料チャンネルのうちHBO(チャンネル)だけは観られるようにしてある。」

「あ、そうそう。ちょっとこっち来て。」と部屋の外へ促されると、部屋の外ドアのわきの柱に電話が設置してあった。

「電話は共用。市内は無料でかけられる。市外にはかけられないけど、市外からかかってくる電話はつながる。海外、日本からかかってくる電話もつながるはずだよ。電話が鳴ったのに気づいたら出て取り次いであげて。その辺は適当に。」

「質問は?」

「ないです。」

そうやって僕のBoarding Houseでの一人暮らしが始まった。

後で聞いた話だが、僕が住んだその部屋の家賃は一週間40ドルだった。



アメリカ南部の思い出 7 [Boarding Houseへ一時転居が決まる]

2025-02-15 00:03:45 | Memories of the Southern States
前回の続きと考えればここで南部料理の夕べと言うことになるのだが、その前に一つ大きな出来事があった。

最初にお世話になっていた家での滞在期限が迫っていたが、その後一年に渡るステイ先の都合を勤め先が用意できないとのことで「街のはずれにあるBoarding Houseにしばらく住んでもらえないかな」と打診を受けた。Boarding Houseというのはなんと訳したらいいかわからないけど、アパートとは違う下宿と言えばいいのかそういう住居。

一人で暮らすのもアメリカの思い出に残る経験になると思い、二つ返事でそこへの移転を受け入れた。アメリカ人のお父さんとフランス人のお母さんのステキな家での暮らしはとても居心地が良かったが、ずっと住むわけにはいかないからそれは仕方ない。

お母さんが「一人で料理作るのは大変だろうから、たまにご飯食べにいらっしゃい」と言ってくださって、その通りその後も帰国するまでの1年間、1~2週間に一回ほど夕飯をいただきに伺うようになった。ステイしていた時もだったが、フランスの方らしく毎食ラタトュイユが副菜に出てきて、日本に帰ってきてからも自分で作るようになった。クスクスもよくいただいた。自分の料理のレパートリーも増えた。

キッシュも毎食出てきたが「パイ生地で作る茶碗蒸し」だということが分かった。なんでも知ってみれば意外と難しくはない。

たまに奥様が息子を連れてフランスに里帰りしてしまったりして暇になると、誰もいなくてつまらないから遊びに来いとご主人が電話をくれて、一緒にテレビを観ながらビールを飲んだ。

一度は、日曜日の昼間に同じように暇だからと電話をかけてきて、ホンダ系部品メーカーの工場がある(と後で知った(笑))隣町の公園で開催されたコンサートに行った。もしかしたら駐在の日本人の方もあの会場にいたのかもしれない。あの当時、あの工場に何人の日本人がいたのかは知らないが。

ただ、その田舎町では1年間の滞在中、僕は日本人には一度も会うことはなかった。おそらくすれ違ってさえいない。それくらい、日本とは縁遠い町だった。それは僕にとって圧倒的なプラス要素だった。折角アメリカに住んだからには、その間は日本人にはできるだけ会いたくなかった。100%機会を活かしたかった。

約束した時間に家に行くと、彼は目下鍋でポップコーンを大量製造中(笑)。何度か鍋でPopさせてでかい紙袋一杯にポップコーンを作ると「じゃ、行こうか」と、パントリーから赤ワインを一本取って、ワイングラスを二つ持って車で20分ほどかけて公園に向かった。コンサートはオーケストラで、曲のほとんどは映画音楽、ジョンウィリアムズの作品が多かった。E.T.とスターウォーズのテーマでは特に会場が盛り上がった。

The United States of America.

それを聴きながらオジサン二人が芝生に寝転がって、ポップコーンをつまみながら赤ワインを飲んで午後のひと時を過ごした。

今思い返してみても、ステキな午後だった。

1995年6月の終わりごろだったかな、そんなご家族と別れてBoarding Houseに転居した。もう運転免許も車もあるので、スーツケース一つをトランクに入れて、お世話になったご家族に感謝を伝えてハイウェイを20分ほど南に下った新しい住居に向かった。

新住居はなかなか面白いところだった。



アメリカ南部の思い出 6 [新たな出会いと運転免許取得]

2024-07-19 20:34:35 | Memories of the Southern States
なにせ30年前のことなので、記憶がよみがえってくるのを待っていたら間が空いてしまった。前回は運転試験でいきなり右側通行と左側通行を混同して試験一発中止になったため、勤務先が他の高校で運転の指導をしている先生を家庭教師に付けてくれたところまで書いた。

あの当時、ずっと夢見ていた国アメリカに一年という短い期間でも滞在するということで、僕としては吸収できるものはできるだけ吸収しようと思っていた。欧米人相手では、日本人同士のコミュニケーションとは違って言葉にしないと誰にも伝わらないというのはずっと英語を教えてもらっていたアメリカ人宣教師から聞いていた。また、アメリカでは上司や年長者ともファーストネームで呼び合うというのも書籍などで読んでいた。

運転指導の初日、業務後に勤務先の学校のレセプションで待っていたらその運転の先生の車が止まったとレセプショニストの女性が教えてくれたので、僕は外に出ていきなり「Hi, Bobby!」と大声で呼んだ。事前に先生の名前は聞いていたのだ。

車を降りて近づいてくるBobby先生は少々驚いたような顔で「君がQOOTES?」と言うので「Yes, I am.」。そうやって自動車運転の訓練は始まった。

あとになってわかったことだが(というか読んでいて分かったかもしれないが)、あのような場合、アメリカ人と言えどもいきなりファーストネームで呼ぶことは少ない。僕はアメリカをできるだけ吸収しようという思いで先走ってしまったようだった。

ただ、僕の急激な距離の詰め方が奇妙だったので、Bobbyの方も面白いアジア人が来たと却って興味がわいたようだった。

運転の訓練自体は特に問題がなかった。一度目の試験が中止になったのは単に左右を間違えただけで、僕は日本でも運転免許を持ってたまに運転をしていたので車の運転自体には問題がなかった。ただ左右の違いに慣れることだけが必要だった。それで、一週間毎日仕事が終わるとBobbyがたまにしてくれる注意を聞きながら町中をドライブした、とくに細かいテクニックの練習は必要ないと思ったようだった。

ドライブの途中で、初日のスタッフミーティングでPTAの皆さんが作ってくれたビスケットの話や(アメリカ南部の思い出の過去の回を参照ください)、その2週間ほどの間に学校のカフェテリアで食べたいわゆる「南部料理」は何が美味しかったかと言う話になった。

初日に食べたビスケットが不思議な味がしたという話をし、数日前に学校のカフェテリアで出された「Country Steak」が特に美味しかったと言ったらBobbyは、
「家庭のビスケットは作る人によって癖があるんだ。うちのNancy(奥様)が作るのは美味いんだ。」と言うのに続けて「Country SteakというのはHamburger in Gravyだ。それもNancyが作るのが一番うまいんだ。」と言っていた。

イタリア男にとってマンマのご飯が一番美味しいように、アメリカ南部の男性も妻の料理が一番で、それを遠慮なく言うんだなあと欧米の文化を感じた。日本でも最近は人前で妻の料理を褒める人が多くなってきているがいい傾向だと思う。やっぱ評価されると嬉しいだろうから。

昔ながらの夫婦お互いのことや自分の子供のことを、他人に対してはへりくだって「愚〇」と呼ぶのはあまり聞いていて気持ちはよくない。過剰な家族自慢のはもちろんいただけないけど(笑)。でも過剰にけなすよりはいいかな。

そんな風に運転の訓練をしていたのか単なるドライブだったのかわからない二日ほどが過ぎたときに、訓練の途中でBobbyが「ちょっと家でコーヒーでも飲んでいくか」と提案してくれて寄ったことがある。彼の自宅に着いて入り口のドアに近づくと、メガネの女性が向こうからニコニコと僕らを見ていた。それが彼の妻のNancyだった。

「あなたがQOOTESね。ようこそ。コーヒーでいいかしら。」とコーヒーを出してくれた。広いリビングの大きなソファに座ってコーヒーを飲んでいたら、

「Bobbyにまだ美味しいビスケットを食べてないって聞いたんだけど、PTAが作ったのはおいしくなかった?」
「美味しくないことはなかったんだけど、ちょっと微妙な味だなと思って。」
「そう。で、学校で食べたHamburger in Gravyは気に入ったのね?」
「すごく美味しかったです。」

Hamburger in Gravyというのは牛肉100%を固めただけのハンバーグを一旦焼いたものを、残った肉汁で炒めた玉ねぎに少々の小麦粉を加えて作ったグレービーソースの中で煮込んだ料理だ。

因みに、アメリカ中なのか、南部だけなのか、あの町だけなのかわからないけど、肉を固めたハンバーグも、それをパンで挟んだハンバーガーも、牛肉100%のひき肉も、彼らはすべてを「Hamburger」と呼ぶので、文脈を読まないと誤解してしまうことが多々あった。それも貴重な経験の一つだった。

「Bobbyにそう聞いていたのよ。来週運転の訓練が終わったら家にいらっしゃい。南部料理をご馳走するからね。」と言っていただいた。

Nancyも別の中学校で司書さんをしている経験豊かな先生だった。

そうやって、それ以来現在に至るまで30年にわたる家族ぐるみの付き合いが始まったのだった。

あ、因みにBobbyとの一週間のドライブ練習のおかげで2回目の運転免許試験は見事合格。試験官の不愛想な黒人女性にも「前方後方の確認がExcellentだったわよ。」とお褒めをいただいた。

アメリカ南部の思い出 5

2024-06-17 20:47:15 | Memories of the Southern States
さて授業の日。朝午前中に一コマ授業をするA中学校に行って、自分にあてがわれた教室で緊張していると二クラス分の子供たちがやってきた。学校では習熟度別でクラス分けが行われており、僕の授業には7年生(13歳)のクラスのうち一番下と一番上の計2クラス分の生徒がやってきた。

子供たちには申し訳ないが、見ればどっちのクラスの子どもかはすぐわかった。だけど、できない方のクラスの子供たちはみんなヒップホッパーのようにキマっていて、僕は顔には出さないようにしていたけれども(かっちょいい)と思っていた(笑)。

その中で一番の問題児はドレッドヘアでもう2年も留年して15歳になっているJamesだった。アメリカでは中学校でも最低限の学習ができていないと留年になる。厳しいけれど、いいことだと思った。

Jamesは教室に来るときも、校内を歩いている時も、いつもリズムを刻みながらラップのリリックを口ずさんでいた。授業が始まったらさすがにやめさせたが。日本語の単語や簡単な語法を初級学習者に教えるときに語呂合わせの歌を使ったりするのだが、新学期が始まって数週間後のある日の授業で

「James、君は歌が好きだからこの歌うたってみてよ。」と言ったら、

「・・・センセイ、オレはオレの言葉でしか、歌わない。」

と言われ、不覚にも(かっこいい・・・)と思ってしまい、”OK”と一言で済ませてしまったことがある(笑)。

問題児だったけど、面白い子供でもあった。

で、初日の話に戻ると、最初の方のブログにも書いたように僕はそもそも正規の先生の隣で会話練習要員をするためだけに来ていたので、そんな先生はいないといきなりすべての授業をやってくれと言われても、正直何をやっていいのかわからない。英語もいまいちだし。

一応授業の準備はしていたものの(こんなのつまらないだろうなぁ)と自分でも思うほどだったが、初めは目新しさもあって彼らも全然退屈しなかったようだった。その目新しさが消える数週間後には僕も試行錯誤でなんとか形になる授業ができるようになり、自転車操業のようになんとかなっていった。

ただ、英語はそんなに上手くないままだった(笑)。

午後のB中学の授業でも様子は同じで、不安しかなかった「なんちゃって先生」業の方は、結果的にまあまあなんとかなった。

初日の授業の日に所属しているB中学のメールボックスに教育委員会のオフィスから運転免許の教本が届けられていて、その三日後くらいに免許の試験を受けに行くことにした。ようやく自由に動き回れるようになるのだ。

家に帰ると運転試験に向けてCurtが隣に乗って3日間ほど運転の訓練に付き合ってくれたが、日本でも運転はしていたので問題はなさそうだった。

で、免許試験当日、免許センターに行くとまず視力検査、そして法規のマークシート試験。日本の筆記試験のように底意地の悪いひっかけ問題はそんなになかったと記憶している。アメリカの交通法規で一番気を付けなければならないのは、スクールバス。スクールバスが停止している時は追い越してはいけないし、対向車線の自動車も停止していなければならない。それ以外は日本の法規とそれほど変わらなかったと思う。

法規の試験はすぐに結果が出る。当然合格。すると、カウンターの男性が、

「じゃ、運転試験やります。準備して外に出て。」

外に出て車に乗り込む。試験官のおじさん助手席に乗る。エンジンかけて発進。免許センターから公道に出る手前で一時停止していると、

「はい、じゃ、まずそこ左折ね。」

ずっと余裕だったのに、その時何かがおかしくなって左右がわからなくなり、日本と同じ感覚で左折して左の車線に入ろうとしてしまった。

「はい、試験中止。」

・・・各方面に連絡をして学校関係者に迎えに来てもらって帰宅した。

次の日B中学に行くと「〇〇高校で運転の授業をしている先生に頼んで、仕事の後で運転の個別訓練をしてもらうように手配したから明日から一週間練習してください」と教育委員会から連絡が来ていた。

これがまた別の重要な出会いの一つだった。

今になってみれば全部予定されていたことのようにさえ思える。

アメリカ南部の思い出 4

2024-06-17 03:21:10 | Memories of the Southern States
長文注意です。すみません、テキストだけのブログで。

アメリカ南部に滞在したときの話は、前回は学校の新学年が始まる前にローカルな床屋に行ったところまで書いたが、予定通りあの翌々日あたりにいよいよ「なんちゃって先生」としての仕事が始まった。

初日は生徒は登校せず教師とスタッフの顔合わせを兼ねたミーティングから。僕は午前中と午後で違う中学校一校ずつ、それぞれ1クラスの授業を担当することになっていたが、所属は午前のA中学ではなく午後のB中学だったので、ミーティングもB中学の方に。

教育委員会から車は貸与される予定だったが、現地の運転免許取得に興味があったため現地で取ることにして国際免許を持って行かなかったので、最初は朝にステイ先のご主人のCurtに学校まで送ってもらっていた。

「朝の通勤は車用のマグにコーヒーを入れて出かけるのがアメリカの文化だ(笑)」といわれ、マグを借りてコーヒーを片手に車に乗り込む。何をするにもいちいち(学生時代からあこがれていたアメリカにいるんだ。しかもただの留学ではなく曲がりなりにも仕事をしている。)という事実が余計に嬉しかった。

学校に着いてレセプションに行くと「図書室でミーティングよ」と言われ向かう。すでにほとんどの先生とスタッフがそこにいた。入っていくと一人かっちりスーツの男性が近づいてきて「君が”QOOTES”だね。ようこそ。」とあいさつをされたので、僕も自己紹介をして少し雑談すると、実はその人が校長先生だった。この校長先生は一年の滞在中もっとも親切にしてくださった人の一人だ。

一年後に帰国してこれから何をしようかなぁと思っていた時に、実家の近所の国立大学の大学院の入試が近々あると聞いてなんとなく受けてみたのだが、その時にも推薦状を書いてくれた。

というか、個人的に知り合った人はみんなとても親切だった。まさに”Southern Hospitality”。反面、個人的な付き合いもなく共通の友人もいないあまり知らない人の中にはアジア人に少し意地悪な人もいたが、せっかく一年限定でアメリカに行ったのにそんなのに関わっていること自体がもったいないのでそれほど気にはならなかった。それより圧倒的に親切な人の方が多かったことにも助けられたのだと思う。

校長先生のJimmyは「ミーティングの前にPTO(日本で言うPTA)の皆さんが朝食を用意してくださったから、よかったら好きなもの食べてくれ」と言う。よく見ると図書室の一角の机の上に料理が並べられていた。

これが僕と「Biscuit(ビスケット)」との運命の出会いだった。

生徒の親御さんたちが作ってくれた朝食の中にサンドイッチと同じ皿の上にソーセージを挟んだ南部名物のビスケットと呼ばれるものが並んでいたので、何だろうと思って食べてみたのだ。ビスケットと言ってもクッキーの亜種のビスケットとは形状が違う。どちらかと言うとパン。だけど、一口かじるともさもさして上の歯の裏側にべっとりとくっつく、非常に硬い蒸しパンのような粉くさい代物であった。

結論から言うと、手作りのビスケットだったからかファーストコンタクトはひどいものだったが、その後町のいろいろな店でビスケットを食べるうちに大好物になった。今でもそれを食べに数年ごとにあの町を再訪している。(もともとは南部料理だけど、ニューヨークやボストンのファーストフードでも食べられる。JFK第8ターミナルのマクドナルドは提供しているはずなので機会があれば食べてくださいね。僕のように癖になる人が出てくると思います(笑)。)

日本でもKFCにビスケットというメニューがあるが、種類としてはまさにあれである。ただ、KFCのビスケットは日本向けにデフォルメしているのか、ほとんどパンの優しい食感。本場のビスケットはあれよりももっとサクサクしているのである(人によっては粉っぽいと思うかも)。

日本では沖縄は嘉手納基地内の日本人もノーチェックで入れるダイナー「Seaside」で週末の朝食に出してくれる(平日は出していない)。そのために一年に一回は嘉手納基地まであしを伸ばすことにしている(笑)。海外だと、今は南部料理のPopeye Louisiana Kitchenという店が全米で急速に増殖していてそこでもビスケットが食べられる。実はシンガポールにも進出していたので、去年行ってみた。ただ僕のいた州にはそれほど展開していないチェーン店なんだけど。

学校の初日から生徒の親御さんのおかげで南部料理の洗礼を受けられて、味はともかくこれまた一人異国に暮らしていることが楽しくなった。何もかも新鮮だった。

新鮮と言えば、PTO(PTA)も日本とは全く違って新鮮だった。

その時の職員のミーティングは新年度の顔合わせが主目的で、先生やスタッフの自己紹介から始まり雑談をしたりと和気あいあいと進んだのだが、会の終わりごろに朝食を用意してくださった皆さんとそのまとめ役のような親御さんのご挨拶もあった。

アメリカも広いので、その町またはその学校だけかもしれないが、話を聞いているとPTO活動をしているのは純粋に志のある人たちだけで、日本とは違って興味のない人は特段関わったりもしないようで特に圧力もかけられないようだった。


そんなPTOの在り方が象徴的に見られたことが一年間の滞在中にあった。

仕事にもそこそこ慣れた数か月後の冬頃のことだった。職員会議をしていたらとあるお母さんが一人でみえて(特にPTOの役員などでもない普通のお母さん)、校長にことわって一人で演説を始めたことがあった。

「この学校の校舎は老朽化がひどいので生徒の親、そして市民として子供たちにもっといい環境で学校生活を送ってほしいと思っています。それで私は、他の志ある親御さんにも声をかけて校舎新築の資金集めを始めようと思っています。また子供たちにも資金集めをしてもらいたいと思っています。」

それを境にその後数年に及ぶ校舎新築計画がどんどん進んだことがあった。(日本とはかなり違って、この親御さんたちは完全に税金に頼ることなく自分たちでも新築の資金を集めるつもりなんだ)とアメリカのお母さん、お父さんはたくましいなぁ、かっこいいなぁと思いながら見ていた。

親たちは企業に赴いて寄付を求めたりする一方で、これも一般的なようだったが子供たちは業者から仕入れたチョコバーのようなお菓子に利益をかなり載せて親族や町の大人に売って子供たち自身でも資金集め。トップセールスを記録した子供は表彰されるので子供たちはゲーム感覚でチョコバーを頑張って売っていた。

非常にアメリカ的な気はするけど、大人も子供も当事者意識があって素晴らしいと思うし、その反面協力的でない人に変な圧力をかけていない様子もさらに素敵だなと思った(笑)。親が協力的でない子供もチョコバーを売り歩くのはとても楽しいようで頑張っていましたね。僕も複数の生徒にチョコバーを買わせられた(笑)。

因みに英語ではスニッカーズのようなチョコバーは「Candy Bar」と呼ばれるようで、その町では皆さんそう呼んでいた。地方によって違ったりするのかな。

また脱線した。

そんな感じで職員会議も終わり翌日から「なんちゃって先生」の日々が始まったのだ。