QOOTESの脳ミソ

日記や旅の記録(現在進行中および過去の旅)がほとんどですが、たまに「腹黒日記風」になっているのでお気を付けください。

アメリカ南部の思い出 6 [新たな出会いと運転免許取得]

2024-07-19 20:34:35 | Memories of the Southern States
なにせ30年前のことなので、記憶がよみがえってくるのを待っていたら間が空いてしまった。前回は運転試験でいきなり右側通行と左側通行を混同して試験一発中止になったため、勤務先が他の高校で運転の指導をしている先生を家庭教師に付けてくれたところまで書いた。

あの当時、ずっと夢見ていた国アメリカに一年という短い期間でも滞在するということで、僕としては吸収できるものはできるだけ吸収しようと思っていた。欧米人相手では、日本人同士のコミュニケーションとは違って言葉にしないと誰にも伝わらないというのはずっと英語を教えてもらっていたアメリカ人宣教師から聞いていた。また、アメリカでは上司や年長者ともファーストネームで呼び合うというのも書籍などで読んでいた。

運転指導の初日、業務後に勤務先の学校のレセプションで待っていたらその運転の先生の車が止まったとレセプショニストの女性が教えてくれたので、僕は外に出ていきなり「Hi, Bobby!」と大声で呼んだ。事前に先生の名前は聞いていたのだ。

車を降りて近づいてくるBobby先生は少々驚いたような顔で「君がQOOTES?」と言うので「Yes, I am.」。そうやって自動車運転の訓練は始まった。

あとになってわかったことだが(というか読んでいて分かったかもしれないが)、あのような場合、アメリカ人と言えどもいきなりファーストネームで呼ぶことは少ない。僕はアメリカをできるだけ吸収しようという思いで先走ってしまったようだった。

ただ、僕の急激な距離の詰め方が奇妙だったので、Bobbyの方も面白いアジア人が来たと却って興味がわいたようだった。

運転の訓練自体は特に問題がなかった。一度目の試験が中止になったのは単に左右を間違えただけで、僕は日本でも運転免許を持ってたまに運転をしていたので車の運転自体には問題がなかった。ただ左右の違いに慣れることだけが必要だった。それで、一週間毎日仕事が終わるとBobbyがたまにしてくれる注意を聞きながら町中をドライブした、とくに細かいテクニックの練習は必要ないと思ったようだった。

ドライブの途中で、初日のスタッフミーティングでPTAの皆さんが作ってくれたビスケットの話や(アメリカ南部の思い出の過去の回を参照ください)、その2週間ほどの間に学校のカフェテリアで食べたいわゆる「南部料理」は何が美味しかったかと言う話になった。

初日に食べたビスケットが不思議な味がしたという話をし、数日前に学校のカフェテリアで出された「Country Steak」が特に美味しかったと言ったらBobbyは、
「家庭のビスケットは作る人によって癖があるんだ。うちのNancy(奥様)が作るのは美味いんだ。」と言うのに続けて「Country SteakというのはHamburger in Gravyだ。それもNancyが作るのが一番うまいんだ。」と言っていた。

イタリア男にとってマンマのご飯が一番美味しいように、アメリカ南部の男性も妻の料理が一番で、それを遠慮なく言うんだなあと欧米の文化を感じた。日本でも最近は人前で妻の料理を褒める人が多くなってきているがいい傾向だと思う。やっぱ評価されると嬉しいだろうから。

昔ながらの夫婦お互いのことや自分の子供のことを、他人に対してはへりくだって「愚〇」と呼ぶのはあまり聞いていて気持ちはよくない。過剰な家族自慢のはもちろんいただけないけど(笑)。でも過剰にけなすよりはいいかな。

そんな風に運転の訓練をしていたのか単なるドライブだったのかわからない二日ほどが過ぎたときに、訓練の途中でBobbyが「ちょっと家でコーヒーでも飲んでいくか」と提案してくれて寄ったことがある。彼の自宅に着いて入り口のドアに近づくと、メガネの女性が向こうからニコニコと僕らを見ていた。それが彼の妻のNancyだった。

「あなたがQOOTESね。ようこそ。コーヒーでいいかしら。」とコーヒーを出してくれた。広いリビングの大きなソファに座ってコーヒーを飲んでいたら、

「Bobbyにまだ美味しいビスケットを食べてないって聞いたんだけど、PTAが作ったのはおいしくなかった?」
「美味しくないことはなかったんだけど、ちょっと微妙な味だなと思って。」
「そう。で、学校で食べたHamburger in Gravyは気に入ったのね?」
「すごく美味しかったです。」

Hamburger in Gravyというのは牛肉100%を固めただけのハンバーグを一旦焼いたものを、残った肉汁で炒めた玉ねぎに少々の小麦粉を加えて作ったグレービーソースの中で煮込んだ料理だ。

因みに、アメリカ中なのか、南部だけなのか、あの町だけなのかわからないけど、肉を固めたハンバーグも、それをパンで挟んだハンバーガーも、牛肉100%のひき肉も、彼らはすべてを「Hamburger」と呼ぶので、文脈を読まないと誤解してしまうことが多々あった。それも貴重な経験の一つだった。

「Bobbyにそう聞いていたのよ。来週運転の訓練が終わったら家にいらっしゃい。南部料理をご馳走するからね。」と言っていただいた。

Nancyも別の中学校で司書さんをしている経験豊かな先生だった。

そうやって、それ以来現在に至るまで30年にわたる家族ぐるみの付き合いが始まったのだった。

あ、因みにBobbyとの一週間のドライブ練習のおかげで2回目の運転免許試験は見事合格。試験官の不愛想な黒人女性にも「前方後方の確認がExcellentだったわよ。」とお褒めをいただいた。

アメリカ南部の思い出 5

2024-06-17 20:47:15 | Memories of the Southern States
さて授業の日。朝午前中に一コマ授業をするA中学校に行って、自分にあてがわれた教室で緊張していると二クラス分の子供たちがやってきた。学校では習熟度別でクラス分けが行われており、僕の授業には7年生(13歳)のクラスのうち一番下と一番上の計2クラス分の生徒がやってきた。

子供たちには申し訳ないが、見ればどっちのクラスの子どもかはすぐわかった。だけど、できない方のクラスの子供たちはみんなヒップホッパーのようにキマっていて、僕は顔には出さないようにしていたけれども(かっちょいい)と思っていた(笑)。

その中で一番の問題児はドレッドヘアでもう2年も留年して15歳になっているJamesだった。アメリカでは中学校でも最低限の学習ができていないと留年になる。厳しいけれど、いいことだと思った。

Jamesは教室に来るときも、校内を歩いている時も、いつもリズムを刻みながらラップのリリックを口ずさんでいた。授業が始まったらさすがにやめさせたが。日本語の単語や簡単な語法を初級学習者に教えるときに語呂合わせの歌を使ったりするのだが、新学期が始まって数週間後のある日の授業で

「James、君は歌が好きだからこの歌うたってみてよ。」と言ったら、

「・・・センセイ、オレはオレの言葉でしか、歌わない。」

と言われ、不覚にも(かっこいい・・・)と思ってしまい、”OK”と一言で済ませてしまったことがある(笑)。

問題児だったけど、面白い子供でもあった。

で、初日の話に戻ると、最初の方のブログにも書いたように僕はそもそも正規の先生の隣で会話練習要員をするためだけに来ていたので、そんな先生はいないといきなりすべての授業をやってくれと言われても、正直何をやっていいのかわからない。英語もいまいちだし。

一応授業の準備はしていたものの(こんなのつまらないだろうなぁ)と自分でも思うほどだったが、初めは目新しさもあって彼らも全然退屈しなかったようだった。その目新しさが消える数週間後には僕も試行錯誤でなんとか形になる授業ができるようになり、自転車操業のようになんとかなっていった。

ただ、英語はそんなに上手くないままだった(笑)。

午後のB中学の授業でも様子は同じで、不安しかなかった「なんちゃって先生」業の方は、結果的にまあまあなんとかなった。

初日の授業の日に所属しているB中学のメールボックスに教育委員会のオフィスから運転免許の教本が届けられていて、その三日後くらいに免許の試験を受けに行くことにした。ようやく自由に動き回れるようになるのだ。

家に帰ると運転試験に向けてCurtが隣に乗って3日間ほど運転の訓練に付き合ってくれたが、日本でも運転はしていたので問題はなさそうだった。

で、免許試験当日、免許センターに行くとまず視力検査、そして法規のマークシート試験。日本の筆記試験のように底意地の悪いひっかけ問題はそんなになかったと記憶している。アメリカの交通法規で一番気を付けなければならないのは、スクールバス。スクールバスが停止している時は追い越してはいけないし、対向車線の自動車も停止していなければならない。それ以外は日本の法規とそれほど変わらなかったと思う。

法規の試験はすぐに結果が出る。当然合格。すると、カウンターの男性が、

「じゃ、運転試験やります。準備して外に出て。」

外に出て車に乗り込む。試験官のおじさん助手席に乗る。エンジンかけて発進。免許センターから公道に出る手前で一時停止していると、

「はい、じゃ、まずそこ左折ね。」

ずっと余裕だったのに、その時何かがおかしくなって左右がわからなくなり、日本と同じ感覚で左折して左の車線に入ろうとしてしまった。

「はい、試験中止。」

・・・各方面に連絡をして学校関係者に迎えに来てもらって帰宅した。

次の日B中学に行くと「〇〇高校で運転の授業をしている先生に頼んで、仕事の後で運転の個別訓練をしてもらうように手配したから明日から一週間練習してください」と教育委員会から連絡が来ていた。

これがまた別の重要な出会いの一つだった。

今になってみれば全部予定されていたことのようにさえ思える。

アメリカ南部の思い出 4

2024-06-17 03:21:10 | Memories of the Southern States
長文注意です。すみません、テキストだけのブログで。

アメリカ南部に滞在したときの話は、前回は学校の新学年が始まる前にローカルな床屋に行ったところまで書いたが、予定通りあの翌々日あたりにいよいよ「なんちゃって先生」としての仕事が始まった。

初日は生徒は登校せず教師とスタッフの顔合わせを兼ねたミーティングから。僕は午前中と午後で違う中学校一校ずつ、それぞれ1クラスの授業を担当することになっていたが、所属は午前のA中学ではなく午後のB中学だったので、ミーティングもB中学の方に。

教育委員会から車は貸与される予定だったが、現地の運転免許取得に興味があったため現地で取ることにして国際免許を持って行かなかったので、最初は朝にステイ先のご主人のCurtに学校まで送ってもらっていた。

「朝の通勤は車用のマグにコーヒーを入れて出かけるのがアメリカの文化だ(笑)」といわれ、マグを借りてコーヒーを片手に車に乗り込む。何をするにもいちいち(学生時代からあこがれていたアメリカにいるんだ。しかもただの留学ではなく曲がりなりにも仕事をしている。)という事実が余計に嬉しかった。

学校に着いてレセプションに行くと「図書室でミーティングよ」と言われ向かう。すでにほとんどの先生とスタッフがそこにいた。入っていくと一人かっちりスーツの男性が近づいてきて「君が”QOOTES”だね。ようこそ。」とあいさつをされたので、僕も自己紹介をして少し雑談すると、実はその人が校長先生だった。この校長先生は一年の滞在中もっとも親切にしてくださった人の一人だ。

一年後に帰国してこれから何をしようかなぁと思っていた時に、実家の近所の国立大学の大学院の入試が近々あると聞いてなんとなく受けてみたのだが、その時にも推薦状を書いてくれた。

というか、個人的に知り合った人はみんなとても親切だった。まさに”Southern Hospitality”。反面、個人的な付き合いもなく共通の友人もいないあまり知らない人の中にはアジア人に少し意地悪な人もいたが、せっかく一年限定でアメリカに行ったのにそんなのに関わっていること自体がもったいないのでそれほど気にはならなかった。それより圧倒的に親切な人の方が多かったことにも助けられたのだと思う。

校長先生のJimmyは「ミーティングの前にPTO(日本で言うPTA)の皆さんが朝食を用意してくださったから、よかったら好きなもの食べてくれ」と言う。よく見ると図書室の一角の机の上に料理が並べられていた。

これが僕と「Biscuit(ビスケット)」との運命の出会いだった。

生徒の親御さんたちが作ってくれた朝食の中にサンドイッチと同じ皿の上にソーセージを挟んだ南部名物のビスケットと呼ばれるものが並んでいたので、何だろうと思って食べてみたのだ。ビスケットと言ってもクッキーの亜種のビスケットとは形状が違う。どちらかと言うとパン。だけど、一口かじるともさもさして上の歯の裏側にべっとりとくっつく、非常に硬い蒸しパンのような粉くさい代物であった。

結論から言うと、手作りのビスケットだったからかファーストコンタクトはひどいものだったが、その後町のいろいろな店でビスケットを食べるうちに大好物になった。今でもそれを食べに数年ごとにあの町を再訪している。(もともとは南部料理だけど、ニューヨークやボストンのファーストフードでも食べられる。JFK第8ターミナルのマクドナルドは提供しているはずなので機会があれば食べてくださいね。僕のように癖になる人が出てくると思います(笑)。)

日本でもKFCにビスケットというメニューがあるが、種類としてはまさにあれである。ただ、KFCのビスケットは日本向けにデフォルメしているのか、ほとんどパンの優しい食感。本場のビスケットはあれよりももっとサクサクしているのである(人によっては粉っぽいと思うかも)。

日本では沖縄は嘉手納基地内の日本人もノーチェックで入れるダイナー「Seaside」で週末の朝食に出してくれる(平日は出していない)。そのために一年に一回は嘉手納基地まであしを伸ばすことにしている(笑)。海外だと、今は南部料理のPopeye Louisiana Kitchenという店が全米で急速に増殖していてそこでもビスケットが食べられる。実はシンガポールにも進出していたので、去年行ってみた。ただ僕のいた州にはそれほど展開していないチェーン店なんだけど。

学校の初日から生徒の親御さんのおかげで南部料理の洗礼を受けられて、味はともかくこれまた一人異国に暮らしていることが楽しくなった。何もかも新鮮だった。

新鮮と言えば、PTO(PTA)も日本とは全く違って新鮮だった。

その時の職員のミーティングは新年度の顔合わせが主目的で、先生やスタッフの自己紹介から始まり雑談をしたりと和気あいあいと進んだのだが、会の終わりごろに朝食を用意してくださった皆さんとそのまとめ役のような親御さんのご挨拶もあった。

アメリカも広いので、その町またはその学校だけかもしれないが、話を聞いているとPTO活動をしているのは純粋に志のある人たちだけで、日本とは違って興味のない人は特段関わったりもしないようで特に圧力もかけられないようだった。


そんなPTOの在り方が象徴的に見られたことが一年間の滞在中にあった。

仕事にもそこそこ慣れた数か月後の冬頃のことだった。職員会議をしていたらとあるお母さんが一人でみえて(特にPTOの役員などでもない普通のお母さん)、校長にことわって一人で演説を始めたことがあった。

「この学校の校舎は老朽化がひどいので生徒の親、そして市民として子供たちにもっといい環境で学校生活を送ってほしいと思っています。それで私は、他の志ある親御さんにも声をかけて校舎新築の資金集めを始めようと思っています。また子供たちにも資金集めをしてもらいたいと思っています。」

それを境にその後数年に及ぶ校舎新築計画がどんどん進んだことがあった。(日本とはかなり違って、この親御さんたちは完全に税金に頼ることなく自分たちでも新築の資金を集めるつもりなんだ)とアメリカのお母さん、お父さんはたくましいなぁ、かっこいいなぁと思いながら見ていた。

親たちは企業に赴いて寄付を求めたりする一方で、これも一般的なようだったが子供たちは業者から仕入れたチョコバーのようなお菓子に利益をかなり載せて親族や町の大人に売って子供たち自身でも資金集め。トップセールスを記録した子供は表彰されるので子供たちはゲーム感覚でチョコバーを頑張って売っていた。

非常にアメリカ的な気はするけど、大人も子供も当事者意識があって素晴らしいと思うし、その反面協力的でない人に変な圧力をかけていない様子もさらに素敵だなと思った(笑)。親が協力的でない子供もチョコバーを売り歩くのはとても楽しいようで頑張っていましたね。僕も複数の生徒にチョコバーを買わせられた(笑)。

因みに英語ではスニッカーズのようなチョコバーは「Candy Bar」と呼ばれるようで、その町では皆さんそう呼んでいた。地方によって違ったりするのかな。

また脱線した。

そんな感じで職員会議も終わり翌日から「なんちゃって先生」の日々が始まったのだ。

アメリカ南部の思い出 3

2024-06-04 14:31:34 | Memories of the Southern States
そのようにして最初のホームステイ先での1か月の生活が始まったが、数日後に始まる「なんちゃって先生」の日々の前にやっておきたいことがあった。散髪だ。勤務地に来る前に大学のサマースクールに通ったので日本を出てからもう2か月弱も髪を切っていなかった。そこでフランス語使いのお父さん(名前はCurtという)に相談すると「僕もそろそろ行こうと思ってたから、同じところでよければ来るか?結構いいよ。安いし。」と申し出てくれたので、お願いした。

一緒に車に乗って町を南北に走るバイパスを南下する。バイパスと言ってもほとんど高速道路だ。古くからアメリカをほぼ縦断する高速道路として機能していた道路だが、このバイパスに並行するようにInterstate(州際道路とでも訳したらいいでしょうか)と呼ばれるさらに高速で走ることのできる高速道路が建設されてからはそちらが主役になったとのことだった。

そのバイパスの途中でランプを降りて左のダウンタウンの方に車が進んでいくと、どちらかというと無機的なバイパスの風景とは違って、寂れているけれども生活の匂いのするエリアに入った。右にはマクドナルド、左にはPiggly Wigglyという南部諸州でよく見かけるスーパーマーケット。そのあたりで左折するとすぐにある「Peacan Creek Shopping Center」という大きな看板がかかった建物の前に車をとめた。平屋の建屋に長屋のように4軒ほどの商店が入居しているアメリカによくある素朴な「ショッピングセンター」だった。こういうところに映画「カラテキッド」に出てきそうな空手道場やテコンドー道場も入っていることが多い。

Curtは「ここだよ。」と左から2番目の店の中に入っていく。長屋の一番左は美容院、で、二番目床屋、三番目は軍の払い下げ品の迷彩服が山に積んである店、一番右はどんな業種かはよくわからない何の変哲もないオフィスだった。

中に入ると、というか外からすでに分かったが、3人いる理容師が全員黒人のヒップホッパーのようで、客も全員が黒人の床屋だった。(髪を切るのにいらないだろう)と思わせる金の極太喜平ネックレス(笑)、NBLのユニフォームで腰パン。因みにCurtはイギリス起源の白人だ。若い頃から国外に出て異文化に触れていた人間だからか、いろいろな世界に飛び込んでいくのがすきな男だった。

普通に暮らしていると酷い差別なんかはそれほど見かけることはなく、みんな隣人や友人としてうまくやっている。職場なんかは特にそうだった。しかし、文化がそれぞれにあるので自然の成り行きで生活圏が違っている様子が見て取れることもあった。床屋はそんな例の一つのように思えた。

そこに彼はお構いなしに入っていく。本人が言う通りちょくちょく髪を切りに来ているようで、皆と世間話を始めた。しばらくすると急に思い出したように「今日は友達が髪を切りたいって言うんで連れてきた。お願いできるかな?」と。最初はギャングだらけみたいで度肝を抜かれていたが(純粋にただの偏見です)、その頃までには楽しくなってしまっていてニコニコしていると、3人のうち経営者らしい理容師が(ここに座んな)と手招きするので、そこに座った。僕がCurtよりも先のようだ。

どんな風に切ってほしいかをありったけの語彙で伝えてみたが、いまいち伝わっていない気がしたので(もうどうにでもなれ)という気に。自らまな板の上の鯉になった。ハサミは法律上使えないのか、大小二種類のバリカンで器用に髪を整えていく。ギャングのような強面の床屋は「アジア人の髪を切るのは初めてで難しい」と言った。彼がいつも切る黒人の髪は短く縮れていることが多い、一方アジア人の髪は硬く針金のようで、短く切るとハリネズミのようになってしまいうまくいかない。白人のCurtの髪はブロンドで細くて柔らかそうなので、それほど問題なく切りそろえられていく(あ、ブロンドの白人と言っても美形じゃなくてただのでかい熊おじさんです)。

散髪が終わると鏡で今一度よく見てみる。難しいと言った割には元の短髪に近いスタイルでうまくできていると思った。が、何かが違う。自分では何なのかわからなかったけれど。一年の滞在を終える直前、最後にその床屋で散髪をして帰国したら、妹や友人に「黒人の人みたいな髪型ね、アジア人だと面白い(笑)」と言われた。横と後ろがところどころ「直線」だったのだそうだ。

ともかく、それがその後一年間の僕の髪型に決定した。

床屋の代金は一回3~5ドルほどだったと記憶している。とにかく安かった。二回目からは2~3週間に一回の割合で一人で切りに行った。その間、アジア人には一度も会わなかったし、Curt以外の白人には会ったことが無かった。それがアジア人で自分だけがアクセスできる秘密基地を持っているといった優越感のようなものを僕に与えた。マウントを取る相手は周りに一人もいなかったけど(笑)。

客もその床屋では異質な僕のことが気になるらしく、後ろのベンチで待っていると同じように待っている客に話しかけられ、散髪中の客とは鏡越しにおしゃべりを楽しんだ。床屋なのに女性もよくやってきた。ある女性はいろいろと注文を付けて髪を切ってもらっているうちに、どんどん短くなってしまい、最後には「もう、全部切って」ときれいな丸坊主になった。鏡越しに、

「How do you like this?」
「Cool.」と僕。

一度ニューヨークのBronxに教職の求人があるから行ってみようか迷っているという手紙が日本人の友人からきたので、その床屋に行った時に「ニューヨークのBronxって危ないとこなんでしょ、怖いの?」と聞いてみたら、みんなBronxに普通にいそうな強面なのに口をそろえて、

「あんな恐ろしいとこには行けねーよ。」と言った。

見た目で人を判断してはいけないと思った。
僕もいつも見た目で損してるのにな(笑)。

帰国して数年たったころその町を再訪したときにCurtとメキシカンを食いながら積もる話をした。その途中「そう言えばあの床屋はもうなくなったんだ」とつぶやいた。僕らにとってはいい思い出なだけに非常に残念だった。ふと、そういえばあの床屋の店名知らないなと思い彼に聞いてみる、

「・・・そういえば全然知らなかったな。だけど、僕は”Brother“って呼んでた。」と言った。

アメリカ南部の思い出 2

2024-06-03 07:31:10 | Memories of the Southern States
30年前、アメリカ南部で過ごしたときの細かい話を思い出し始めたので書き続けてみます。大切な記憶もこれからどんどん忘れてしまうかもしれないから。

一年間の住まいは勤務先の学校側が準備してくれることになっていたがなかなかいい場所が見つからなかったようで、最初は現地のとある小さい町の町長(Mayor)さんの家でのいわゆるホームステイだった。一か月限定。町長さんと言っても住人はそれほど多くない町なので町内会長くらいの位置づけ。それでも普通に選挙戦を繰り広げて選ぶようだった。さすが「ザ・民主主義」(アメリカ民主主義の内容については異論もあるでしょうが外形の話なのでとりあえず流してください(笑))。

この家庭はお父さんお母さんに中学生が一人、州内だが遠くの大学に通う女の子が一人の4人家族。このお父さんもまたPeace Corpsで若い頃はモロッコを中心とした北アフリカに派遣されていた人物で、任期が終わって「遊学」がてらボルドーなどのワイナリーで試飲しまくっていたらお母さんに出会って恋に落ちたという興味深いご家族。ということでお母さんはフランス人。中学生の息子や離れて暮らす娘も含め、家庭内の会話はフランス語だった。家族の会話の横で僕がキツネにつままれたような表情をしていると、英語で「通訳」をしてくれた。僕は英語がそれほど堪能ではないが、それでもフランス語よりはわかる(笑)。

毎日の食事もザ・アメリカンミールとは全然違って「フランス家庭料理」だった。庭で作ったトマトを湯剥きして自家製のビネグレットソースをかけたサラダ、ラタトゥイユ、キッシュ・ロレーヌのようなものは常備菜として作ってあって毎日前菜として食卓に上った。そのあとチキンをベーコンで巻いてチーズをのせてオーブン焼いたものや(料理名はきっとあると思うが知らない)、クスクスといったものをメインの位置づけでいただく。

食後にはお父さんが「今日のチーズは?」と聞く。フランス料理ではチーズはおつまみでも食事でもなくデザートだということをその時に知った。

お母さんは「今日は〇〇と、〇〇と〇〇よ」とチーズの銘柄を答える。地元のスーパーにもいいチーズはあるが、車で一時間少し行った州都にはフランスの食材を売る店があってそこで買ってくることも多いようだった(日本食の食材店もそこにある。それについてはまたいつか。)。好きなチーズを選んで切り分けてもらっていただく。

バブル期の最後を学生として遊んで過ごしたのでやたら流行ったカマンベールチーズはよくいただいたが、ナチュラルチーズというものの本当の美味しさはそこで初めて教えてもらった。

その後、甘い方のデザート。これは大体アメリカのスーパーに売っているこってりアイスクリームである。僕はアメリカの甘すぎるデザートも全然問題ないので(むしろ好きだが、当然健康には悪い)、当たり前のように美味しい。中でもChocolate Chip and Cookie Doughアイスクリームというチョコチップと生のクッキードウ(クッキー生地)が入った、めちゃくちゃ太るアイスクリームが好きだ(笑)。

この家庭の食事はどれもこれもすごいご馳走だなと思っていたが、僕というゲストがいるから作っていたわけではなかった。大学に行っている娘がフィアンセと帰ってきたときに、お母さんが(今日は腕によりをかけるわね)的に気合を入れて作った料理はもっとスペシャルだったからだ。

このご家族とも今も友達付き合いが続いている。約30年前にアメリカから帰ってきたそのまた一年後に「こっち(アメリカ)の大学生がつくった便利なお友達サイトがあるからそれで連絡取り合わない?」と友人に誘われて始めたのがFacebook。最初は日本語に対応していなくてインターフェイスも非常にシンプルだった。広告もなくて(笑)。当時の友人と今も密につながっていられるのはFacebookのおかげだと思う。

お父さんお母さんは親の世代からの絨毯やカーペットのお店を経営している。ホームセンターのような大規模な店だ。聞いたことはないがもうそろそろ引退される頃かもしれない。20年ほど前遊びに行った際、店に寄ったら「ちょっと人手が足りないんだ、配達に行ってくれ」と無口な従業員と二人で新築のお宅にカーペットを届けたことがある。こいつがまた軽いトークでもすればいいのに不愛想でずっと黙っているので、カーペットを敷きながら僕が苦手な英語で世間話をした。お子さんが結婚を機に新築された家とのことだった。

息子はどこか別の町で会社を経営(詳しくは知らないが、非常に聡明なバイリンガルなのでバリバリ利益を上げているはずだ)。娘はその後ニューヨークに渡り某ファッションブランドの人事部に勤めたあと写真家になった。最近は雑誌に依頼されてヘビーメタルバンドの写真をよく撮っている。Quiet Riot(まだいるみたい)に加え、Slashも撮ったと言っていたような気がする。ヘビメタではないが5年前は「Alicia Keysの仕事が来たの!」と興奮していたことがあった。どんな人だった?と聞いたら「最初は楽屋に行ったんだけど、すごく優しくて、ステキな人だったわ!」というので、「いいなぁ」と本気で思ってそう答えた。仕事だとしてもAlicia Keysに会えるなんてほんとに羨ましかった。やはりNYC(ニューヨークシティ)。

それにしても、華やかなのは僕の周囲だけだ(笑)。