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映画・舞台の感想や俳優さん情報等。基本各種メディア込みのレ・ミゼラブル廃。近頃は「ただの日記」多し。

デイジーデイジー・107 生は暗く、死もまた暗い

2006-03-07 14:01:21 | デイヴィッド・ウェナム

アカデミー賞は、順当と言うより無難に賞を分け合った感じでしたね。
『ブロークバック・マウンテン』は、とにかく沢山ノミネートされて、監督賞を取れただけでも良しとすべきなのか…?
主演男優賞の『カポーティ』ですが、トルーマン・カポーティだってゲイですよ。映画ではそっち方面には触れてないのかな?
レイチェル・ワイズがGG賞に続いて二冠取ってくれたのは、素直に嬉しいです。
ラジー賞の方は、トムとニコールの元ご夫婦が揃ってトホホなことに…
そしてヘイデン、若い身空で常連になっちゃって…
まあ、この人たちにとっては有名税みたいなものかも知れませんね。

と、華やかなアメリカ映画界をさて置いて、当ブログの扱う話題と言えば、オーストラリア俳優が出たオーストラリアのイベント関連ニュースです。
再三お伝えしているアデレード・フェスティバルでの「(マーラー&ゴッホ)×(オーケストラ&デイヴィッド・ウェナム)」コンサートですが、The Australianにレビューが出ました。今のところ目にはいったのはこの記事だけですね。

某掲示板に日本から実際に観に行かれた方の報告が出ていましたので、ご覧になった方も多いかと思いますが、舞台は二部構成で、一部はオーケストラのみ、二部で『大地の歌』の歌唱とゴッホの手紙が交互に出て来る…ということだったようです。
そして、デイヴィッドの演技の方は、朗読ではなくてやはり一人芝居に近いものだったとか。

一方、オーストラリアンの評は、
『机上でいい思いつきと見えたものが、実際(舞台に乗せてみて)うまく行くとは限らない』
という書き出しから始め、ゴッホの手紙とマーラー『大地の歌』の組み合わせは、話だけ聞くと面白そうな試みと思えるが、実際に観てみると、まあいわゆる「微妙」なものだったという意味のことが書かれています。

この画家と作曲家が同時代人であり、創作の背景に東洋趣味(志向)という共通点があったとしても、またデイヴィッドの演技自体は素晴らしいものであったが、こういう形で両者を並べてみると、その朗唱も、彼らの個性また芸術観における根本的な相違点を際立たせる結果にしかならなかった。
繊細で傷つき易い狂気の画家が「自然」の中に見出したのは、結局人のなすことの素晴らしさだったが、マーラーはもっと知的かつシンボリックで、彼にとって「自然」とは人間が喪失したもののメタファーであり、その手法もアイロニカルなものである、と。

まあ彼らは「魂の双子」ではなかったということでしょうか。
その時代のヨーロッパにおける東洋趣味や自然回帰志向は、この二人にだけ顕著という訳でもありませんしね。
私見ですが、マーラーという人は、現在イメージされる姿よりもっとずっと強靭でパワフルだったと思っています。
彼は高名な指揮者でもあった訳ですが、そちら方の仕事としてはワーグナーとか振っていたんですよ。ウィーン国立歌劇場の独裁者として君臨していたような人ですよ。いつもいつも苦悩したり引きこもってばかりはいられないでしょう。
非常に乱暴な括り方をすると、ゴッホは多分統合失調症ではなかったかと言われていますが(細片のごとく短いストロークで、または「うねうね」に絵具を塗りこめたような晩年の手法からも、それは伺えます)、マーラーは躁鬱系の人だったのではないでしょうか。

しかし、こういう話を聞くと、デイヴィッド=ゴッホは、やはりちゃんと劇なり映画なりで観たいと思ってしまいますね。
なお、本日のタイトルは『大地の歌』第一楽章より。

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