娘と共に二泊三日の静岡旅行から帰って来ました。静岡で最後に行ったのは静岡市歴史博物館。企画展「QuizKnockと巡る 江戸東京博物館展」を見るためです。目当ては「QuizKnock」の井沢さんたちではなく、あくまでも江戸東京博物館の収蔵品です 詳しくはまた後日。
慌ただしいながら3時台の新幹線ひかりに乗って東京に戻りましたが、静岡駅も新幹線を降りた新横浜駅もとても混んでいました。連休最後の日曜日とは言え、あんなに混んでいることは滅多にないです。
電車を乗り継いで自宅最寄駅前で晩ごはんを食べ、娘と別れて帰りました。帰宅後、荷物整理や買ったものの仕分け、お金の計算に追われました。明日は大洗濯ですね。
大河ドラマ『光る君へ』は無事リアルタイム視聴できました。
道長の詠んだ望月の歌については四納言の間でも解釈が分かれる。
敦康親王が21歳の若さで急死。妻も娘も得て、穏やかで幸せな日々を送り、太皇太后彰子や内大臣頼通たちとも和やかに語り合ったりした後のことだった。
「道長に奪われ尽くした生涯だった」というナレーションが悲しくもキツいです。そこはきっちり断罪するのですね。
その道長は、新左大臣・顕光や右大臣・公李のあてつけや嫌がらせに手を焼く頼通を叱咤激励などしていたが——
藤式部が『源氏の物語』続編を書き終えた頃、娘・賢子は宮仕えすることを決心。それを喜んだまひろは、自らも旅に出ることを家族に告げる。作品に描いた須磨明石や、亡夫・宣孝が赴任していた大宰府にも訪れてみたいと。賢子も出家した父・為時もそれを受け入れる。
旅立つ前に、まひろは賢子を彰子に引合せ、道長と倫子にも挨拶に行く。まひろが『源氏の物語』とその続編を賢子に託した後、道長がその局に現れ「行かないでくれ」と引き止めるが、まひろはそれを拒み、賢子は道長の娘であると告げた。
まひろは乙丸を供に旅立ち、賢子は土御門殿の女房となって「越後弁」の名を与えられる。
道長はまひろに去られたショックもあってか体調を崩し、頼通を独り立ちさせるという名目で出家を決意。妻の倫子の必死の引きとめも聞き入れられなかった。
倫子や頼通、彰子らの子供たちが見守る中、道長は剃髪する。
柄本佑さんが役のために伸ばした髪を、役のために本当に剃ったそうです。それにしても、道長は倫子様には常に言葉が足らず、最後まで本当の思いを伝えることも、心通わせることもなかったのですね……視聴者から「4F」と呼ばれた公任、斉信、そして行成とは来し方のことを語り合ったりもするのですが。労をねぎらってもらって行成くんも少しは報われたかな。
とは言え、出家後も道長は隠然たる権力を有し、左大臣・顕光を辞任に追い込むためのパワハラを頼通に奨めたりしています。
一方で倫子は、そんな道長の栄華を物語として書き残してほしいと、赤染衛門に依頼します。一度は藤式部に依頼し「わたしは人の闇の部分に惹かれる質だからちょっと…」と断られた話です。そうして赤染衛門が書き始めるのが『栄花物語』になると思われます。
宮中でそのようなことがある中、須磨の浜に来たまひろが海辺を疾走するシーンが見事でした。空撮による美しい海と浜。全てのしがらみを捨て、振りはらい、やっと自由になった彼女の思いが溢れるようです。
やがてまひろと乙丸は大宰府にたどり着く。そこは宋の商人たちも溢れ、活気に満ちて賑わっていた。「越前を思い出しますね」などと話す乙丸。と、市場の群衆の中で、まひろは一人の男の姿に目を留める。それは、まさにその越前でかつて出会った宋人、周明だった——
あの人混みの中、数十年ぶりでありながら一目で互いを認識したまひろと周明。もしや彼らも「運命のふたり」なのでしょうか?
周明の再登場は視聴者には直前まで知らされず、大河ドラマガイドブックなどにも記載は全くなかったから、今後の彼らがどうなるのかは不明です。そして、次回サブタイトルはついに「刀伊の入寇」。まひろもそれに巻き込まれることとなりそうです。
大河の後はEテレでクラシック……ではなく、最終週ゆえ【古典芸能への招待】。かつて十八世勘三郎さんが九州・硫黄島で演じて話題となった野外歌舞伎『俊寛』を、現・勘九郎さんが同じ硫黄島で演じます。前日まで台風による欠航などがあり、ほぼぶっつけ本番で演じた作品。本物の自然を「舞台」とし、背景としたからこその迫力を感じました。
後半では勘三郎さんの思い出の舞台も少し紹介。二世吉右衛門さんや岳父の芝翫さんとの共演舞台が懐かしかったです。
その後はNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』再放送も視聴。義和団事件の後、平定のために派遣された各国軍の中、ロシア軍の蛮行に義憤を覚える秋山好古。ますます険悪化する日露情勢にあって唯一の癒しであるボリスくんと広瀬武夫の友情。病状が悪化する中でも意気軒昂に執筆を続ける正岡子規。そして外務大臣に内定した小村寿太郎は、日英同盟を推進する——
と、殆どいつもの日曜日の日記でした。旅行記は改めて記します。