リタイヤおじさんの日々

日常のほっとする風景を描いています

体力の現実を知る・スキー遊び

2011-05-06 07:17:29 | 日記
1週間が過ぎて、筋肉痛が治った。
先日、GWに入る前、一人で白馬五竜のゲレンデで春スキーを楽しんできた。
この時期スキーゲレンデは好き者か、地元の連中で占領されている。そして各々が好きなように楽しんでいる。
ゴンドラを利用して最長滑走距離5kmと言うコース。この時期、雪質は上の方と下の方ではかなり違う、上部は快適だが下の方は雪質も悪く雪解けでコース巾も狭くなっている。滑走はどうにか可能だった。
 

そんな春スキー、日ごろ調整した最新のスキー道具で楽しんでいるが、滑りのコントロールはしょせん人間の技術と体力だ。
体力。毎年、感じることではあるが、(シーズンオフに体力作りのトレーニングを継続していても)年ごとにというか、加齢からか、体力の落ち込みを感じる。今年は一人で滑りすぎたせいか、特に感じたのかも知れない。

年代、年齢から言うならばごくごく平凡な自然現象なのだろうが。滑降中、転ぶ・転倒ということはほとんでないが、転んで起きるという場面に遭遇すると起き上がるエネルギーが体力の消耗を更に促すように感じる。
スキーを滑ることについて、“歳だから“を理由にしたくはないというイコジさはある。またこのイコジさがいけない、というのも理解している。・・・このことで毎年、葛藤している。
その葛藤、
具体的に言うと、春の特有の腐ったボコボコの雪、斜面のところどころに潜む雪が消え現れた赤土などが滑りの神経を使う。(若いころはこれも楽しんだものだ。)
そんなコンデションのなか若い時と違い、イメージした雪面のコース取りが微妙に外れる。この微妙な誤差が繰り返されるうちイメージしたコースを外れることになり、スピードも増して危険な滑りになりかねない、その結果ブレーキをかけストップする。そのストップ毎に費やすにエネルギーが消費される。即ち疲れる。

これを何回か繰り返すと、呼吸も乱れ、ヘルメット内の頭は汗、顔も汗、モモ筋はパンパンになり、コントロール不能になりやすい。・・・体力の現実を知る。

このスキーで滑る、という“遊び” 何時までできるかわからない。これを止めてしまえば、急速にオジンになり、「過去のお話をする」をする年代になるだけだろう。
この“遊び”に対し常にベストな状態で対応するため日ごろそれなりのトレーニングを積んでいる。
それが昨今、年間を通してのリタイヤおじさんの行動リズムになっている。そのリズムの具体的な行為として、-----とうの昔(50代)にたばこは止めたし、ここ数年来飲む酒の量も控え(6年前の急性膵炎後)ている。-----週、何回かの早朝ランニングを欠かさないでいる。
このような行動リズムだが、ただ加齢だけは突き進む、止まらない。

加齢から、歳だ。と一蹴するのは簡単であり、スキーで怪我でもすれば叩かれるのは目に見えている。
そのため日ごろのトレーニングだが「体力の現実」は怪我を防止しようとする警告だと受け止めている。

それでもやるスキーをやろうとするのはしょせん、“好きだから”、それだけだ。雪に乗っている、そしてその瞬間、瞬間のスピード感は何にも代えがたい。
体力の現実を知りながらも、遊びとは楽しいものなのだ。  

今はその体力を知りつつそれなりの現役で、その瞬間を大切にしたい。それだけだ。

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