上手な写真、見栄えの良い写真を撮影する方法を学びたい。そして素晴らしいと感じた作品のような写真を、私も撮りたい。それは多くの人たちが思うことだろう。
だが、そうした写真は、人間が努力して獲得する必要が日に日に薄らいできた。カメラは様々な機能が自動化され、今やカメラという単独機能の道具さえ必要なくなり、高性能なスマホがあれば十二分に失敗なく綺麗な画像が得られるようになった。
そして、画像補正や修正についても自動化されつつある状況では、もはやわざわざ撮影技術を学ぶ必要も無くなってきた。
ちょっと考えてもみてほしい。要領よく綺麗に編集されたyoutubeの映像など、もはやプロフェッショナル集団が作り上げたはずのテレビ番組よりも見やすくて面白いものがある。素人がプロを凌駕する時代になった。
なぜだろう。おそらくユーチューバーのうちには、面白くて仕方ないから作っている方たちが多く、もっと楽しもうとする目的にある。一方、プロは滞りなく、プロとしての仕事を全うして稼ぐことが主たる目的だろう。
個人表現という言い方が頻繁に使われた頃、同時にマスメディアという言葉も頻繁に聞かれた。最近は一見、多様になったメディア環境のためか、そんな二項対立的は言われ方も少なくなったような気がする。
前提は移ろい続けている。
さて、前置きはこのぐらいにして本題に入る。
Aiがなんであろうと、街並みはストリートビューが網羅し、監視カメラが定点観測していようと、人間がカメラを持ち、その手でシャッターボタンを操作し、一枚の画像を得る動機は消え去るだろうか。道具としてのカメラがスマホに替わり、またその先には予想もつかない道具に切り替わっていくだろうが、それを撮影して記録しておく衝動が失われる日がやってくるのだろうか。その衝動は欲求に等しいのではないか、と思うのだが。或いは、その欲求は他のなにかに置き換わるのだろうか。
それはやがて、だれも富士山に登らなくなるか、見もしなくなるようなことのようにも思える。
写真を撮影すること。さらには写真という影を記録として残すこと。その行為が個人的な身体を通してなされたということ。もう少しかみ砕くと、写真は技巧よりも「撮影者が何処に立ったか?ということが決定的だ」ということ。そんな当たり前のことが、不思議と問われることがない。そうした疑問が、私の制作のはじまりだった。
一度に多くのことを書き過ぎないようにしよう。少しずつ、折につけ、書いていこうと思う。
さて、「立つ位置について」、或いは「立つ場について」ということを考えながら、20代の頃は制作を始めた。いずれこのブログにも掲載出来ればと思う幾つかの作品がある。その中から今回は、発表の機会がなかった「富士山~矢倉岳ミステリー(仮題)2009年制作」を数回に分けて採り上げて行こうと思う。
今日はその前段階として、上画像をよく見て欲しい。これは神奈川県足柄上郡大井町、県道77号の法面上から撮影した富士山と箱根外輪山の姿だ。平野は松田町、開成町、南足柄市になる。そして富士山は説明するまでもないとしても、矢倉岳については説明しておこう。
この特徴的な山の形は、どこから見ても一目瞭然である。これから始まる話を分かりやすくするためにも、覚えておいてほしい。
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