ムラカミの公開制作的ブログ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

「富士山~矢倉岳ミステリー(仮題)」・・・矢倉岳資料

2023-06-23 11:18:19 | 日記

先ず、江の島の頁に画像を追加した。

「富士山~矢倉岳ミステリー(仮題)」・・・江の島 - ムラカミの公開制作的ブログ (goo.ne.jp)

 

*********

 

矢倉岳資料まとめ

南足柄市苅野からの矢倉岳

 

「古事記」や「日本書紀」での日本武尊の東征以外にも、矢倉岳には伝わる話がある。

南足柄市立図書館に出かけ、矢倉岳に関する本を探したのは2010年12月のことだった。やはり、地元の図書館には幾つかの該当する書が収蔵されていたので、その中から幾つかを要約しようと思う。

 

「私たちのふるさと昔ばなし」社団法人小田原青年会議所 より 南足柄市 矢倉岳の主 p.124 下 l.6

〈矢倉岳の主(大きな蛇)は、富士山が大きく姿がきれいだといってチヤホヤされているのが面白くなかった。そこで大蛇は、富士山に負けるものか、と、自分の山をしぼりあげて形を整えた。出来るだけ高くして、富士山をおおいかくそうとした。・・・場所によっては矢倉岳のために富士山が見えなくなることがある。〉

このアンダーライン部が、以下頁の矢倉岳に富士山が隠されてしまうことに繋がる。

「富士山~矢倉岳ミステリー(仮題)」・・・南足柄・開成 - ムラカミの公開制作的ブログ (goo.ne.jp)

 

 

「郷土南足柄 歴史をたずねて」南足柄町教育委員会

〈足柄明神(足柄神社) 祭神 ニニギノミコト ヤマトタケルノミコト〉

併せて以下も参照されたい。

神奈川県神社庁/神社検索/足柄神社 (kanagawa-jinja.or.jp)

 

「足柄ものがたり」生沼淸二著 みなみ書店p.134 あずまはや(足柄峠) l.13~

〈日本武尊は急な坂をお登りになりました。峠からは、曽我山、大磯丘陵を超えてはるかに相模野の果てまでが見渡せます。この相模野の果てにかすむ走水の方をご覧になり、急に東京湾を超えるときの大暴風雨を思い出し、自分の命を捨てて尊の安全を祈ってくれた可愛い御后の弟橘姫のことを思い出されたのでしょう。〉

 

この記述は、日本書紀とは異なる。

〈常陸を経て甲斐国に至り、酒折宮においでになった・・・日本武尊がいわれるのに、「蝦夷の悪い者たちはすべて罪に服した。ただ信濃国、越国だけがすこし王化に服していない」と。甲斐から北方の、武蔵・上野をめぐって、西の碓日坂にお着きになった。日本武尊は常に弟橘姫を思い出される心があって、碓日の峯にのぼり、東南の方を望んで、三度歎いて「吾嬬はや(わが妻は、ああ)といわれた。それで碓日の嶺より東の諸国を、吾嬬国という。(全現代語訳 日本書紀 宇治谷孟 講談社学術文庫)

古事記での該当箇所は次のようになる。

〈其れより入り幸でまして、悉に荒ぶる蝦夷等を言向け、亦山河の荒ぶる神等を平げ和して、還り上り幸でます時、足柄の坂本に到りて、御粮食す処に、其の坂の神白き鹿に化りて来立ちき。爾に即ち其の咋い遺したまひし蒜の片端を以ちて待ち打ちたまへば、其の目に中りて乃ち打ち殺さえぎ。故、其の坂に登り立ちて、三歎かして、「あづまはや」と詔云りたまひき。故、其の国を号けて阿豆麻と謂ふ。・・・(中略)・・・其の国より科野国に越えて、乃ち科野の坂の神を言向けて、尾張国に還り来まして、先の日に期りたまひし美夜受比売の許に入り坐しき。(古事記 上代歌謡 小学館)

 

私としては、日本書紀の記述の方が、東征のルートとして無理がないように感じている。「足柄ものがたり」は、古事記の内容に近いと思われる。

他にも関連しそうな資料があったので、以下に記しておく。

 

「南足柄の石仏案内 庶民信仰の遺産を次世代へ残そう」 高峯良一著 平成21年11月吉日発行 p.147 矢倉明神社信仰の塔

〈矢倉澤村の矢倉ヶ嶽の頂にあることが、相模国風土記稿に書かれている。史談足柄44集にのっていた”足柄の神の変遷”の45pによると、時代が移るにつれ、足柄の神は祭神、神社名、位置ともに変化しており、この場所は3番目だったようである。

番号1
造立日 天保三 所在地 矢倉沢━矢倉岳頂上
銘分等 下部の右 願主村中 下部の正面 奉納矢倉大明神 下部の左 天保三年六月吉日 背面 なし
形状 石灯篭
h×w 上部分 90×45 下部分 65×24
初調査日 平成16.5.2
備考 上部と下部が別々に置かれている。

番号2
造立日 不明 所在地 矢倉沢━矢倉岳頂上
銘文等 右 なし 正面 なし 左 なし 背面 なし
形状 石祠型
h×w 66×30
初調査日 平成16.5.2
矢倉明神社信仰にした理由
証拠となるものはないが、相模国風土記稿に”頂に矢倉明神の小祠あり”と書かれているので。〉

 

アンダーライン部の「頂に矢倉明神の小祠あり」との関連は、以下頁にある画像の祠であろう。また〈1970年代、昭文社の分県地図では、矢倉岳山頂には神社の記号とともに「日本武尊」といった記述がされていた〉ということの、ひとつの証明になると思われる。

「富士山~矢倉岳ミステリー(仮題)」・・・矢倉岳 - ムラカミの公開制作的ブログ (goo.ne.jp)

 

「かながわの山 山名をたずねて」植木知司著 企画 神奈川県県民部文化室 製作・発行 神奈川合同出版(神奈川新聞社内)
矢倉岳 870メートル p.56

〈「足柄の和乎可鶏山(わおかけやま)のかづの木の、わをかづさねも、かづさかづとも」(万葉集)
わおかけやま・・・矢倉岳の旧名であると「新編相模風土記稿」は記している。〉

 

以下は、今回の私のテーマからは逸れるが、頼朝の物語の場でもあることも覚えておきたい。

「広報みなみあしがら 市史の散歩道」狩川をたどる 矢倉岳と源頼朝の夢 200 市専門員 平野富雄

〈源頼朝の夢の舞台
世によく知られた源頼朝の夢の話は、夢がただの夢で終りませんでした。夢解きで、夢を現実のものとしました。その頼朝の夢は、矢倉岳が重要な位置を占めていて、「源平盛衰記」や「源平闘諍録(げんぺいとうじょうろく)」などの「平家物語」系の本や、「曽我物語」にも載っている有名な話です。〉

 

ということで、今回は本制作に関連して調べたことをまとめてみた。勿論、矢倉岳と足柄峠界隈は、金太郎伝説の地であることから、その物語所縁のものについては多数あるが、それは本制作とは別のテーマとなるので割愛する。

 

※ 推敲 2023/06/24

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿