⇒前回の記事はこちら
さきほどの鹿島北古墳と周辺の地形を見てようやくこの辺の古墳について理解が深まってきました。
つづいて一本松古墳を探しますが、ここから400mほど先のようです。
段丘縁の道を歩きながら、鹿島古墳、鹿島北古墳、それに一本松古墳以外にも、何基か古墳はあったのだろうと想像します。
地元では、いくつかの古墳の霊を鹿島北古墳に合祀したという言い伝えがあるそうなので、湮滅してしまった古墳が数基あったのでしょう。
八王子市は群集墳がない場所と言われていますが、この周辺は群集墳として認めて良いと考えます。
ただし、列島各地でたまに見られるような数百基もあるあからさまな群集墳とは趣が違います。
仮に10基ほどだったとすれば、数百基の群集墳と小さな古墳が10基集まった程度のものとでは違う意味を持つものとして考察するのがいいかもしれません。
おや、前方の道端に松のような木が1本立っていますよ。
一本松?
あ、少し墳丘の面影が・・・
一本松古墳って、これだ!
おお・・・、これはよくよく注意しないと分からないかもしれません。
さて、一本松古墳もさきほどの鹿島北古墳と同様、詳細は不明です。
『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』(多摩地区所在古墳確認調査団/編)によると、復元すると径10m前後になり、残っているのは墳丘の東側だそうです。
楽しいな!
この次は川口古墳ですが、ここから900mくらいの距離があり、別エリアという雰囲気があります。
鹿島古墳、鹿島北古墳、そしてこの一本松古墳と、湮滅してしまった数基はあったであろう古墳を一くくりの古墳群として考えていいと思います。
そしてそれらの築造時期は、古墳時代後期になりますから、群集墳として認めてよいでしょう。
実態がほとんど分からないのにこんなことを言うのは怒られそうですが、以上のことから、私は八王子市にも群集墳は存在したと結論します。
・・・と言っておきながら、ちょっと弱気になります。
群集墳は「墳」が付いている以上、墳墓の集まりですよね。
最近思うのは、石室だけ見つかった場合、研究者は元々は墳丘があったが削平されたと決めつけることが多いですが、墳丘がなくて石室だけのものもあったのではないかと考えます。
実際、全長が1mくらいの小さな石室だけが見つかることもあるのです。
もし仮に、石室のみの墓も構成要素として見た場合は、それを古墳群と呼んでよいのでしょうか。
古代の墓制はもしかしたら私たちの想像の斜め上を行くバラエティさがあったのかもしれませんよ。
では、川口古墳へ向かいましょう。
⇒この続きはこちら
さきほどの鹿島北古墳と周辺の地形を見てようやくこの辺の古墳について理解が深まってきました。
つづいて一本松古墳を探しますが、ここから400mほど先のようです。
段丘縁の道を歩きながら、鹿島古墳、鹿島北古墳、それに一本松古墳以外にも、何基か古墳はあったのだろうと想像します。
地元では、いくつかの古墳の霊を鹿島北古墳に合祀したという言い伝えがあるそうなので、湮滅してしまった古墳が数基あったのでしょう。
八王子市は群集墳がない場所と言われていますが、この周辺は群集墳として認めて良いと考えます。
ただし、列島各地でたまに見られるような数百基もあるあからさまな群集墳とは趣が違います。
仮に10基ほどだったとすれば、数百基の群集墳と小さな古墳が10基集まった程度のものとでは違う意味を持つものとして考察するのがいいかもしれません。
おや、前方の道端に松のような木が1本立っていますよ。
一本松?
あ、少し墳丘の面影が・・・
一本松古墳って、これだ!
おお・・・、これはよくよく注意しないと分からないかもしれません。
さて、一本松古墳もさきほどの鹿島北古墳と同様、詳細は不明です。
『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』(多摩地区所在古墳確認調査団/編)によると、復元すると径10m前後になり、残っているのは墳丘の東側だそうです。
楽しいな!
この次は川口古墳ですが、ここから900mくらいの距離があり、別エリアという雰囲気があります。
鹿島古墳、鹿島北古墳、そしてこの一本松古墳と、湮滅してしまった数基はあったであろう古墳を一くくりの古墳群として考えていいと思います。
そしてそれらの築造時期は、古墳時代後期になりますから、群集墳として認めてよいでしょう。
実態がほとんど分からないのにこんなことを言うのは怒られそうですが、以上のことから、私は八王子市にも群集墳は存在したと結論します。
・・・と言っておきながら、ちょっと弱気になります。
群集墳は「墳」が付いている以上、墳墓の集まりですよね。
最近思うのは、石室だけ見つかった場合、研究者は元々は墳丘があったが削平されたと決めつけることが多いですが、墳丘がなくて石室だけのものもあったのではないかと考えます。
実際、全長が1mくらいの小さな石室だけが見つかることもあるのです。
もし仮に、石室のみの墓も構成要素として見た場合は、それを古墳群と呼んでよいのでしょうか。
古代の墓制はもしかしたら私たちの想像の斜め上を行くバラエティさがあったのかもしれませんよ。
では、川口古墳へ向かいましょう。
⇒この続きはこちら