神原神社古墳は、景初3年(239)銘の三角縁神獣鏡が出土し、発見当初は卑弥呼の鏡出土!と騒がれた一辺30mほどの方墳で、出雲の古墳時代の幕開けを探る上で重要な古墳です。
発見容易
竪穴式石室の移築
景初3年銘三角縁神獣鏡が出土
説明板あり
お勧め度:
*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
島根県雲南市加茂町神原
現況
神原神社横に竪穴式石室を移築
史跡指定
出土品は国指定重要文化財
出土遺物が見られる場所
2.諸元
築造時期
4世紀
墳丘
形状:方墳
大きさ:南北27~30m、東西22~26m(リーフレットより)
墳丘高:6.9m(周溝底より)
主体部
全長:5.8m
割竹形木棺
出土遺物
景初3年銘三角縁神獣鏡
多量の鉄製品
土器
周堀
北側を除く3辺に幅3~7mの周溝
3.探訪レポート
2018年10月3日(水)
この日の探訪箇所
稲用城跡 → 出雲大社 → 古代出雲歴史博物館 → 西谷墳墓群 → 出雲弥生の森博物館 → 荒神谷遺跡 → 加茂岩倉遺跡 → 神原神社古墳 → 松本古墳群
加茂岩倉遺跡を見た後は、前方後方墳がある松本古墳群へ行くつもりでしたが、加茂岩倉遺跡のガイダンス施設の方から近くにある神原神社古墳をお勧めされたので、それを見てから松本古墳群へ行ってみることにします。
教わった通りに車を走らせると、赤川沿いにそれらしい場所を見つけました。
さっそく車を止めて見に行ってみます。
お、これですね。
竪穴式石室がここに移築されています。
予備知識なしで来たので、まずはこれが何なのかが知りたいですね。
手元にはさきほど加茂岩倉遺跡ガイダンスでいただいたリーフレットがあります。
石室の覆屋には写真も展示してあるので、リーフレットと写真を合わせながら見ていくと、もともと古墳の上に神原神社の本殿が建っていたのですが、神社のすぐ北側を流れる斐伊川の支流・赤川の河川改修に際して、神原神社の境内地が新たに作られる堤防内に含まれるため、昭和47年8月に墳丘の発掘調査を行いました。
発掘してみたところ、狭長な竪穴式石室が見つかり、前期古墳であることが分かったのです。
すごいですね。
奈良の黒塚古墳の展示室で見られるような感じで、ちゃんと「石室」になっています。
※黒塚古墳展示館にある黒塚古墳の竪穴式石室の原寸大レプリカ
石室の底部はU字形に丸く窪んでいることから、前期古墳で良く見られる割竹形木棺だったことが分かります。
石室の隣には埋納抗があり、土器が見つかりました。
副葬品には多量の鉄製品が含まれ、当時は全国で2例目となる景初3年銘の三角縁神獣鏡もありました。
景初3年(239)というと卑弥呼が中国の魏へ使者を送った年とされており、その時に魏の皇帝からお土産として持たされた「銅鏡100枚」が三角縁神獣鏡だったという説が以前は根強かったことがあり、この被葬者は「銅鏡100枚」のうちの1枚を卑弥呼から下賜されたといわれたこともありました。
でも、三角縁神獣鏡自体は今では300枚以上見つかっており、三角縁神獣鏡の研究自体がかなり混乱しているように見え、私自身も自分なりの話ができる段階まで到達していません。
そのため、今のところ無暗な発言はしませんが、どう考えても景初3年銘の三角縁神獣鏡の価値とそれが出土した神原神社古墳の価値が低くなることはないでしょう。
リーフレットによると、石室は完全発掘した後、現在地を買収して移設しました。
説明板がありました。
ここに書かれている通り、出土品に関しては三角縁神獣鏡はもちろんのこと、やはり鉄製品が多いということが一つの特徴になると思います。
この古墳が築造されたであろう4世紀(もしくは3世紀後半か)はまだ鉄製品を素材作りからすることはできず、素材は朝鮮半島から買い付けていたわけですが、出雲は半島へのアクセスが良いため、鉄素材を入手するにあたっては優位でした。
ところで、神社の方ですが、神様にご挨拶しないまま立ち去るのは申し訳ないので、境内も少し散策してみます。
神原神社は式内社ですよ。
扁額。
参道。
関係は無いと思いますが、参道はこれから行こうと思っている松本古墳群の方向へ延びています。
鳥居。
付近の案内図。
神社の裏の赤川を見に行ってみましょう。
堤の上の道から周囲の景色を見てみます。
移築とはいえ、竪穴式石室が見られる場所は珍しいため、ここは貴重ですね。
良い場所を教えていただきました。
それでは、当初の予定に戻り、本日最後の探訪地になるであろう松本古墳群へ向かいますよ。
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4.補足
5.参考資料
・現地説明板
・リーフレット 島根県雲南市教育委員会/編
・『古代出雲を歩く』 前島己基/編著 1997年