


太田天神山古墳は墳丘長210mを誇る東日本最大の前方後円墳で、被葬者はヤマト王権の王族の可能性もあります。



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*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
群馬県太田市内ケ島
現況
古墳
史跡指定
国指定史跡
出土遺物が見られる場所
太田市立新田荘歴史資料館
2.諸元
築造時期
5世紀前半
墳丘
形状:前方後円墳
墳丘長:210m
墳高:
段築:前方部・後円部ともに3段
葺石:あり
埴輪:あり
主体部
竪穴系
長持形石棺
出土遺物
周堀
二重(中堤と外堀は消滅)
3.探訪レポート
2015年11月4日(水)
この日の探訪箇所
八幡山古墳 → 大光院 → 金龍寺 → 金山城 → 太田天神山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 女体山古墳
金山城跡を出てガイダンス施設を見学し、途中お昼ご飯を食べに食堂に寄ったりしたため、太田天神山古墳の森が見えたときには時刻は14時45分となっていました。

でかいですねえ。
前方部のエッヂ部分に出てきました。

後円部方向、つまり長辺を眺めます。

エッヂ部分。

前方部底辺の周堀を見ます。

さて、この大きな古墳はどうやって見ればいいのでしょうか?
ひとまず後円部側へ行ってみましょう。
後円部側の県道2号線にやってきました。

後円部側の周堀。

先ほどいた前方部方面を見ますが、広いですねえ。

後円部墳丘の裾に来ました。

向こうには女体山古墳が見えます。

では、墳丘に取り付きます。
葺石だ。

太田天神山古墳は後円部も前方部も3段築成で、今でも段築の跡は明瞭に残っています。

県道を見下ろします。

後円部の先端部分は県道によって少し削られていますが、道路を造るときに墳丘の破壊が最小限に食い止められて良かったです。
後円部墳頂。

結構えぐられていて、盗掘された形跡なのでしょう。
墳丘は思っていたよりボコボコです。
後円部から前方部を見ると、左側に神社の社殿が見えて、神社を造ったときだと思いますが、かなりえぐられています。

前方部が細尾根のような形になっていますが、削り残された部分が往時のくびれ部分から前方部にかけての墳頂部分です。
しかし前方部の幅もかなり広がっておりダイナミックですよ。

鞍部あたりから後円部側を見ます。

さらに前方部側へ向かい、前方部側から後円部側を見ます。

前方部も損傷が激しく、まるで塚のようなものがあったり、神社へ向かうための道の形跡のようなものもあります。


参道の階段を降りて外へ向かいます。

説明板はここにあるんですね。

つづいてA陪塚へ向かいます。
再び後円部に来ましたが、後円部側の周堀の跡は、道路の形で分かります。

現在道路となっているラインは中堤があったラインじゃないかと思います。
おそらく中堤の跡に造られたと思われる道路から後円部を見ます。

(つづく)
2017年4月2日(日)
この日の探訪箇所
女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → 円福寺茶臼山古墳および新田荘遺跡 円福寺境内・十二所神社境内 → 生品神社 → 中溝・深町遺跡 → 岩宿博物館 → 岩宿遺跡および岩宿ドーム → 前二子古墳 → 中二子古墳 → 後二子古墳 → 小二子古墳 → M-4古墳 → M-1古墳 → お富士山古墳 → 高崎市歴史民俗資料館 → 元島名将軍塚古墳 → 八幡遺跡20号墳 → 観音塚考古資料館 → 八幡観音塚古墳 → 八幡二子塚古墳 → 平塚古墳
⇒前回の記事はこちら
女体山古墳とA陪塚を見て天神山古墳へやってきました。
太田天神山古墳は女体山古墳と同じ方向を向いており、女体山古墳側から歩いて行くと、後円部側から近接することになります。
後円部側の周溝跡は、今も往時の周溝に沿ってきちんと道路が丸くなっていることでよく分かります。


現在の周溝跡を見ると一重ですが、往時は中堤を挟んで二重になっていたのです。

周溝を含めるとその長さはなんと364mになり、その大きさには驚きを禁じ得ません。
周溝跡をぶった切っている道路を渡り、後円部麓にある標柱の前に来ました。

私はここから直登してしまいますが、左手に巻いて行くと階段でラクラク登ることができますよ。
登る途中には葺石が残っています。

後円部から前方部を見ます。

太田天神山古墳は墳丘長210mを誇る、東日本で最も大きな古墳ですので、前方部が遠くの方に見えます。

後円部墳頂に来ました。

小さな祠があります。

太田天神山古墳は5世紀前半の築造ですが、この巨大な古墳にはいったい誰が葬られているのでしょうか。
東日本で一番大きな古墳ですから、5世紀前半に東日本、もしくは関東地方全体を治めていた強大な権力を持った王が葬られていたと考えることもできますが、考古学的に見ると、上毛野は古墳時代を通じて群雄割拠状態で、ましてや関東地方全体を治めることができる権力体が存在した可能性は低いです。
ただ、上毛野各地の王たちから共立された連合のリーダーのような存在が葬られた可能性はあると思います。
しかし私は、『古代上毛野の地勢と信仰』で関口功一氏が述べる説が非常に魅力的に思えます。

関口氏の説では、古代、毛野という国があったのが、ヤマトの政策によって上と下に分割されて、その分割政策を担ったヤマトから派遣されてきた将軍が葬られているというのです。
太田天神山古墳の位置は、確かに上毛野でも東寄りで、下毛野を合わせると真中くらいになりますね。
そして、その将軍が具体的に誰かと言うと、この系図を見てください。

※『東国の古代氏族』(関口功一著)所収の系図を合成
『日本書紀』を参照して、東国に派遣された皇族を見てみると、その嚆矢は第10代崇神天皇の子・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)です。
ただ、トヨキイリヒコに関してはそれ以上分からず、果たして東国へ赴いたのかどうかは不明です。
つぎに、トヨキイリヒコの孫、彦狭島命(ひこさしまのみこと)も東国へ派遣されたのですが、赴任する途中で亡くなってしまって、東国へは行っていないことになっています。
そのため、ヒコサシマの子の御諸別命(みもろわけのみこと)が実際に東国へ行って上述した毛野の分割を実施したのではないでしょうか。
もし太田天神山古墳の被葬者が毛野を分割したとしたら、築造時期から考えて、その人物は西暦400年ころにその事業を為したと考えられます。
そうすると、世代的にミモロワケがちょうどいいのです。
実際のところはこの説を完璧に証明することはできないと思いますが、このように考えてみることは、まさしく古代史のロマンではないでしょうか。

「目塚 天満宮」とありますね。

太田天神山古墳の名前の元になっている天神様ですね。

私は「目塚」というのが気になります。
本当は「女塚」じゃないでしょうか。
そうすると、さきほどの話をさらに発展させることができます。
ミモロワケは毛野へやってきたら当然地元の有力者の娘を嫁にしますよね。
そのため、実は「女塚」と呼ばれた太田天神山古墳の被葬者は地元有力者の娘で、婿であるミモロワケの方が女体山古墳に葬られているのではないかと考えてみたのです。
そうすれば、フェミニストの方々の支持を得ることができるかもしれません。

古墳一つを見てもこのようなストーリーを考えることができてとても楽しいですね。
前方部は前回来た時に歩いたので今日はいいでしょう。

でかすぎて、結構引いても全体が収まらない・・・

お、東武線!

やっと全身が入った。

南側の周溝の境は良く分からないですね。

それでは、同じ太田市内にある円福寺茶臼山古墳へ行きますよ。
⇒つづきはこちら
2017年4月8日(土) CT 1回目「日本列島旧石器時代発見の地・岩宿遺跡と東日本最大の前方後円墳・太田天神山古墳 日帰り」
この日の探訪箇所
元島名将軍塚古墳 → 高崎市歴史民俗資料館 → 女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → みどり市岩宿博物館 → 岩宿遺跡B地点(岩宿ドーム) → 岩宿遺跡A地点
2016年4月にクラツーと契約した後、自分で企画したツアーを何本か出したのですがなかなか催行が決定せず、座学を始めたりしていろいろやっているうちに、契約から1年後のこのツアーはいきなり満席となりました。
これ以降、ようやくクラツーの仕事が軌道に乗りましたし、バスを使った日帰りの古墳ツアーとしては初めての催行したツアーということもあり個人的にも思い入れ深い古墳です。
2017年5月4日(木)東国を歩く会
この日の探訪箇所
野本将軍塚古墳 → 女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → 保渡田八幡塚古墳 → 井出二子山古墳 → かみつけの里博物館
東国を歩く会の番外編で訪れました。

写真のみ掲載します。









2017年12月9日(土)CT 2回目
この日の探訪箇所
元島名将軍塚古墳 → 高崎市歴史民俗資料館 → 女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → みどり市岩宿博物館 → 岩宿遺跡B地点(岩宿ドーム) → 岩宿遺跡A地点
2018年7月21日(土)CT 3回目
この日の探訪箇所
元島名将軍塚古墳 → 高崎市歴史民俗資料館 → 女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → みどり市岩宿博物館 → 岩宿遺跡B地点(岩宿ドーム) → 岩宿遺跡A地点
2018年8月21日(火)CT 4回目
この日の探訪箇所
元島名将軍塚古墳 → 高崎市歴史民俗資料館 → 女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → みどり市岩宿博物館 → 岩宿遺跡B地点(岩宿ドーム) → 岩宿遺跡A地点
2018年12月9日(日)CT 5回目
この日の探訪箇所
元島名将軍塚古墳 → 高崎市歴史民俗資料館 → 女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → みどり市岩宿博物館 → 岩宿遺跡B地点(岩宿ドーム) → 岩宿遺跡A地点
2019年5月29日(水)CT 6回目
この日の探訪箇所
元島名将軍塚古墳 → 高崎市歴史民俗資料館 → 女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → みどり市岩宿博物館 → 岩宿遺跡B地点(岩宿ドーム) → 岩宿遺跡A地点
2019年6月2日(日)CT 7回目
この日の探訪箇所
元島名将軍塚古墳 → 高崎市歴史民俗資料館 → 女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → みどり市岩宿博物館 → 岩宿遺跡B地点(岩宿ドーム) → 岩宿遺跡A地点
2019年11月17日(日)CT 8回目
この日の探訪箇所
元島名将軍塚古墳 → 高崎市歴史民俗資料館 → 女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → みどり市岩宿博物館 → 岩宿遺跡B地点(岩宿ドーム) → 岩宿遺跡A地点
2020年1月12日(日)CT 9回目
この日の探訪箇所
元島名将軍塚古墳 → 高崎市歴史民俗資料館 → 女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → みどり市岩宿博物館 → 岩宿遺跡B地点(岩宿ドーム) → 岩宿遺跡A地点
2020年3月1日(日)CT 10回目
この日の探訪箇所
元島名将軍塚古墳 → 高崎市歴史民俗資料館 → 女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → みどり市岩宿博物館 → 岩宿遺跡B地点(岩宿ドーム) → 岩宿遺跡A地点
2020年9月26日(土)CT 11回目
この日の探訪箇所
女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → 前二子古墳 → 中二子古墳 → 西堀M-4号墳 → 後二子古墳 → 小二子古墳 → 西堀M-1号墳 → 井出二子山古墳 → 保渡田八幡塚古墳 → 保渡田薬師塚古墳
2020年10月17日(土)CT 12回目
この日の探訪箇所
女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → 前二子古墳 → 中二子古墳 → 西堀M-4号墳 → 後二子古墳 → 小二子古墳 → 西堀M-1号墳 → 井出二子山古墳 → 保渡田八幡塚古墳 → 保渡田薬師塚古墳
2020年11月7日(土)CT 13回目
この日の探訪箇所
女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → 前二子古墳 → 中二子古墳 → 西堀M-4号墳 → 小二子古墳 → 後二子古墳 → 西堀M-1号墳 → 井出二子山古墳 → 保渡田八幡塚古墳 → 保渡田薬師塚古墳
2020年11月29日(日)CT 14回目
この日の探訪箇所
女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → 前二子古墳 → 中二子古墳 → 西堀M-4号墳 → 小二子古墳 → 後二子古墳 → 西堀M-1号墳 → 保渡田八幡塚古墳 → 井出二子山古墳 → かみつけの里博物館
2020年12月12日(日)CT 15回目
この日の探訪箇所
女体山古墳 → 太田天神山古墳A陪塚 → 太田天神山古墳 → 前二子古墳 → 中二子古墳 → 西堀M-4号墳 → 小二子古墳 → 後二子古墳 → 西堀M-1号墳 → 保渡田八幡塚古墳 → 井出二子山古墳 → かみつけの里博物館
4.補足
※管理人用メモ
目塚1号墳(137) 形状不明、直径約21m、主体部は未調査、周堀から円筒埴輪・動物埴輪
天神山古墳A陪塚(374)円墳、直径約35m、主体部は未調査、周堀から円筒埴輪、器材形埴輪、家形埴輪、土師器
661 半壊
910~915 湮滅
953~960 湮滅
5.参考資料
・現地説明板
一番大きな古墳ですし、まだはっきり分からないからさらにロマンが広がります。
太田の山の所かな?と思ったらまた平野部なので新らしいですし、近畿の古墳に比べたら結構早い方でなおかつ大きいとは凄い技術力ですね。
昨日台風でしたけど卑弥呼の講演会には相当たくさんの方がいらしていたので興味ある分野でしょうから稲用さんマーケットはかなり大きいですよ、先があるお仕事安心ですね。ロボットでは出来ない仕事ですし、ブランド化も、安泰ですよ。
で視点が同じです。毛野も二つ上下にされてますね。吉備なのかな?あそこは三つに前中後です。そこに人間の意図ありそうですね。上総下総はどうかな?ただ以前調べた時は毛野と吉備は分けられたのは古いと認識してます。
で関わるには入彦さんの家系、茨城と千葉には祭神となっている神社が結構あるんで歴史の中の方がこっちまででびっくりした事あります。
で金山っていうのも父のキーワードなんですけど私も婿の代名詞みたいに感じてますので金山城が近くにあって大きなお墓っていうと婿っぽいですね。崇神の系統が来ているように思います。
昨日の講演会でも大きい墓っていうのはちょっと自己主張っぽいも感じるイメージだと、古墳の歴史も当初それぞれ独自の型にはまらずがそのうち巨大化してくる事でも権威の誇張をするように、元から人望あればしなくても十分なはずです。で古墳はその後から棺などに工夫や思いを込めるようになってくるんでしたよね。ちょうど関東で巨大化しないといけない時期だったんでしょうね。
で別件で茨木氏や丹比氏が気になっていて御諸別命調べたら葛原氏も出てきたんでかなり大阪奈良京都とも関係出てきそうに思います。大和から行った時にすでに栄えていた可能性もありますね。
大和が全国に乗り出したあたりでしょう、そここそ歴史が見えない部分、参加者もロマン持ってまた質問等もどんどん専門性を持っているはずで大変でしょうけど、誠実にさえ答えていれば大丈夫でしょう。お人柄も考えも幅がとても広いので。
その地何度も行ける役得いっぱい得て下さいね、みなさま感じる事大事に出来る世で良かったですね。1371