天気予報によると、当日の探訪地域の天気は午後から雨が降るということだったので、本日はいつもより早めの8時30分に集合としました。
集合場所はJR八高線および川越線の高麗川駅です。
少し早いですが、雷電號に乗って6時に幕府を出発し、集合時間の前に一部の場所を下見してこようと思います。
まず目指したのは日高市女影(おなかげ)。
日高あたりですと下道で行ってもいいのですが、私は高速道路が通じている場合は高速道路に乗らないと気が済まないので、短い区間ですが高尾山の関から狭山日高の関まで乗ります。
途中、狭山の駅家で休憩して最初の目的地である女影の霞野神社に到着したのは7時25分。
この場所は歴史マニアにとっては面白スポットなのです。
ポイントとしては、まずはこの説明板に書かれている通り、中先代の乱のときの女影ヶ原の古戦場跡ということなのですが、その前に霞野神社自体を散策してみます。
拝殿。
額。
宝物殿もありますよ。
本殿は覆われています。
本殿の裏には境内社が並んでいます。
おや、この石塔は面白いですね。
絶妙なバランスで笠が乗っており、もちろん接着はしているようですが、この形状は半島系の石碑を想像させられます。
この地は古代高麗郡の地で、説明板に書かれている通り霞野神社を創るさいに合祀された神社には白髭神社もありますので、何か半島にゆかりのあるものなのでしょうか。
もしご存知の方がいらっしゃれば教えてください。
拝殿から参道を見ます。
参道の前の道は鎌倉街道上道ですので、行ってみましょう。
鎌倉街道側に立つ鳥居。
街道の北を見ます。
南を見ます。
ここは五差路になっていて、右手に見える土盛は後円部が3段築成で前方部が2段築成の中型の前方後円墳、ではありません。
そんなことはどうでもよく、二股に分かれている右側の道は近世以降は八王子道と呼ばれた道です。
二股の場所には江戸期の道標があるんですよ。
「右 扇町屋 八王子道 左 入間川 所沢道」とあります。
文化年間ですので、江戸後期ですね。
八王子道を八王子方面に少し歩いてみます。
この道は細くて車を止める場所もなさそうなので、この後の探訪では来るのをやめます。
※なお、この日の午後は毛呂山町歴史民俗資料館を探訪したのですが、この地域の中近世の街道について分かりやすい展示があったのでご紹介します。
この図の日高市近辺をズームするとこんな感じ。
分かりづらいかもしれませんが、少し太めの線で描かれているのが鎌倉街道上道で、「(慈光寺道)」と描かれた道と分岐している箇所がちょうどこの辺りだと思います。
「慈光寺道」という名前からして、慈光寺というお寺へ向かう道だということが分かりますが、上の地図でも都幾川村に慈光寺の場所がプロットされています。
慈光寺は都幾山と号する臨済宗の寺院で、寺伝では天武天皇2年(673)の開創で、配流された役小角も修業したと伝わっています。
鎌倉時代には全盛期を迎え、戦国時代には寺は城郭化され、多数の僧兵を有する軍事的寺院となりましたが、太田道灌によって焼き討ちにあいました。
ところが、江戸期になっても栄えていたようで、江戸の庶民の間では慈光寺をゴールとする「慈光寺参り」という寺社巡りが流行したそうです。
そういうこともあり、先ほど見た八王子道は、「慈光寺道」とも呼ばれているわけです。
さて、中先代の乱のときの古戦場の件ですが、1333年に群馬の新田義貞が鎌倉を陥落させた時、新田勢(および足利勢)は鎌倉街道を南下していきました。
軍隊というのは当たり前な話ですが道を通っていきますので、大きな道沿いは常に合戦場になる可能性があるわけです。
鎌倉街道沿いでは、その後も室町・戦国時代と多くの戦いが行われ、しかもそのポイントは河川敷であることが多いです。
神社のすぐ北側には下小畔川が流れています。
現在はこのように細い水路になっていますが、往時はもっと水量が豊富だったと思われますし、この北側の台地の北には小畔川というさらに大きな河川が流れています。
義貞が鎌倉を落とした時、第14代執権を務めたことのある北条高時は東勝寺で自害したのですが、その子時行は生年が不明なものの、おそらく8歳くらいで、鎌倉から脱出して行方をくらましました。
鎌倉を落とした義貞はやがて足利勢力と対立し上洛、鎌倉は尊氏の弟義直(ただよし)が預かります。
さて、行方をくらましていた時行は、後醍醐天皇の政治(建武の新政)の過激さによって世の中に不満をもつ武士が多い事実を知り、建武2年(1335)7月に北条の残党を糾合して挙兵します。
ただ、この時点でも時行はおそらく10歳くらいだったので、武士たちを糾合するほどの能力はないと考え、実際は彼を担いだ信濃の諏訪頼重たちが主導者であったと考えられます。
つまり、時行はお飾りのようなものですね。
ところがこの時行勢は思いのほか強大な勢力に膨れ上がり、鎌倉街道を南下して鎌倉陥落を目指します。
その過程で、ここで合戦が行われたわけです。
鎌倉を護っていた直義は武勇の誉れ高い22歳の渋川義季や元々義貞の配下だった岩松経家らを迎撃に向かわせ、義季らはこの地で時行勢を迎え撃ちます。
結果は時行勢の勝利で、義季と経家は自害。
時行勢は余勢をかって進撃し、義季らの敗北自害を知った直義は驚き、ついに自身が出陣して時行勢を迎撃します。
時行と直義が激突したのは現在の町田市本町田付近で、井出の沢古戦場と呼ばれている辺りです。
※2018年3月15日に探訪しています。
古戦場の説明板は菅原神社の境内にあり、菅原神社は台地上にあって低地部との比高差はご覧の通り。
この戦いでも時行勢は勝利。
直義は政治的才能は抜群なのですが、合戦は不得手なんですね。
それに対して兄の尊氏は内政よりも軍事的才能に溢れていた人物で、戦いの場になると、異様にテンションが上がる人物でした。
結局直義は鎌倉を放棄して逃げますが、そのドサクサに紛れて後醍醐天皇から預けられていた護良親王を殺害してしまいます。
鎌倉を落とした時行ら旧北条の残党たちは喜びに浸りますが、それもつかの間の出来事で、20日後には鎌倉は尊氏に奪還されてしまいます。
この時の一連の戦いは、北条家が治めていた「先代」と足利氏が治めた「後代」の間ということで、「中先代の乱」と呼ばれています。
さて、このように女影は中世の頃も重要な場所だったのですが、古代においても要地であったと考えられます。
日高市内には古代寺院が3か所知られているのですが、そのうちの女影廃寺跡がこの辺りにありました。
もう一度霞野神社前から北方の台地上を見ます。
この台地はこちら側の下小畔川と台地北方の小畔川に挟まれており、若宮遺跡というのが女影廃寺跡です。
ただし、寺院の遺跡は見つかっておらず、奈良の川原寺のものと似た軒丸瓦など、瓦類や須恵器、瓦塔、鉄製品などが見つかっており、それらの遺物は8世紀中頃から10世紀にかけてのものなので、その時代にこの地に寺院があったことは確実視されています。
さらにこちらも遺跡はなく、しかも遺物も無いので推測になってしまいますが、飯能市教育委員会の『掘り起こせ!地中からのメッセージ』では、高麗郡衙もこの辺りにあったのではないかと推測しています。
その場合、中世の鎌倉街道が古代にすでにあって、東山道武蔵路から分岐した道が高麗郡衙へ接続されていたと考えています。
以上見てきたように、女影という場所は歴史的に大変面白い場所なわけですね。
霞野神社境内から下小畔川北方の台地を見ます。
さて、集合時間までもう少し時間があるので、戦後間もない頃に八高線の大事故があった現場へも行ってみます。
ここですね。
南方を見ます。
八王子を発した八高線は、飯能を経て鹿山峠を越えて日高市の市街地へやってきます。
その際、丘陵から下り坂になるわけですが、下った先がちょうど左カーブになっているのです。
八高線の列車事故というと、終戦直後も直後の昭和20年8月24日の朝に起きた、小宮駅と拝島駅との間の多摩川橋梁上での正面衝突事故が有名で、その時は100名以上の方が亡くなっています(実際の死者数は戦後の混乱のため把握できていません)。
その事故に続き、まだ戦後の混乱が収まっていない昭和22年2月25日の朝にも、食糧の買い出しのために定員オーヴァーとなっていた列車が速度超過もあって上述の下り坂を下ってきたあとのカーブで脱線してしまいました。
この時代は、屋根の上にも乗客を乗せるという状態が普通に見られ、この列車の乗客は定員の3倍だったそうです。
ところが脱線と言っても5両の客車をけん引していたC57は高麗川駅に無事に到着します。
どういうことかというと、C57がけん引していた5両の客車のうち、後ろの4両が脱線して飛ばされてしまい、機関士は高麗川駅に着いたときに後ろに客車が1両しか繋がっていないことに気づいたわけです。
この時は184名(あるいは188名)が死亡し、495名(あるいは570名)が負傷し、この時点では史上最悪の列車事故となりました。
現在この場所には慰霊碑が建てられています。
こういった近代の事故も歴史の一つですので、事故の事実を風化させないためにも今日はメンバーをここに連れてこようと思っています。
⇒「文化新聞」のこちらのページに記事があります
それでは、集合場所の高麗川駅へ向かいましょう。
慰霊碑が建っている細い路地から南側の県道262号線に出ますが、ここは危ない。
自動車も事故を起こしそうな場所です。
その路地から右折や左折する際、両側ともカーブになっておりまったくその先が見えないのです。
しかもこういう場所は結構飛ばしてくる車が多く、おそらく右折しようとしてこの路地から飛び出したタイミングにそういう車がやってきた場合、その車はブレーキを踏んでも間に合わないです。
車で走っていて事故が起きても当然だと思われる場所にはたまに遭遇しますが、ここは危険度MAXです。
私は二度と南側から県道に出て右折することはしません。
慰霊碑に来る方もくれぐれも気を付けてください。
さて、高麗川駅に到着しました。
8時半までまだ少し時間があるのでしばらく待つとしましょう。
かつて、まだ雷電號が配備される前は、群馬方面に八高線に乗って行ったりしていましたが、八王子から八高線に乗って高崎を目指すと、ここ高麗川で乗り換えになります。
高麗川から北は非電化区間でディーゼルカーなんですよ。
※左がディーゼルカーのキハ110系(2013年5月5日撮影)
キハ110系のディーゼルエンジンの音がまた良いのです。
乗り換えでは使っても、駅を外から見たのは初めてでした。
「天下大将軍 地下女将軍」の将軍標に挟まれた案内板。
将軍標は朝鮮半島の村落で魔除けのために立てられているものだそうで、日本ではこの形式になっているそうです。
あれれ、雨が降ってきちゃいましたよ。
予報では午後からということでしたが、外れちゃいましたね。
8時半になり、全員集合しました。
それでは雷電號に乗って出発です。
まず最初はさきほのど慰霊碑から。
本日の参加メンバーのうち、オーメンさんと安斉さんは多摩地域の人なので拝島での列車事故は知っていました。
戦後の混乱時には他にも全国各地で鉄道事故は多発したようです。
つづいて、女影の霞野神社へ向かいます。
さきほど下見した内容で説明しますが、やはり「目」の数が増えると新たな発見もありますね。
さっきはこちらは見落としていました。
金子さんが気づいたこの石碑も見落としていました。
女影ヶ原古戦場跡の碑ですね。
おっとダスキンさん!
日曜日もお仕事ご苦労様です!
こんな石碑もありました。
それでは次の場所を目指しましょう。
⇒この続きはこちら
集合場所はJR八高線および川越線の高麗川駅です。
少し早いですが、雷電號に乗って6時に幕府を出発し、集合時間の前に一部の場所を下見してこようと思います。
まず目指したのは日高市女影(おなかげ)。
日高あたりですと下道で行ってもいいのですが、私は高速道路が通じている場合は高速道路に乗らないと気が済まないので、短い区間ですが高尾山の関から狭山日高の関まで乗ります。
途中、狭山の駅家で休憩して最初の目的地である女影の霞野神社に到着したのは7時25分。
この場所は歴史マニアにとっては面白スポットなのです。
ポイントとしては、まずはこの説明板に書かれている通り、中先代の乱のときの女影ヶ原の古戦場跡ということなのですが、その前に霞野神社自体を散策してみます。
拝殿。
額。
宝物殿もありますよ。
本殿は覆われています。
本殿の裏には境内社が並んでいます。
おや、この石塔は面白いですね。
絶妙なバランスで笠が乗っており、もちろん接着はしているようですが、この形状は半島系の石碑を想像させられます。
この地は古代高麗郡の地で、説明板に書かれている通り霞野神社を創るさいに合祀された神社には白髭神社もありますので、何か半島にゆかりのあるものなのでしょうか。
もしご存知の方がいらっしゃれば教えてください。
拝殿から参道を見ます。
参道の前の道は鎌倉街道上道ですので、行ってみましょう。
鎌倉街道側に立つ鳥居。
街道の北を見ます。
南を見ます。
ここは五差路になっていて、右手に見える土盛は後円部が3段築成で前方部が2段築成の中型の前方後円墳、ではありません。
そんなことはどうでもよく、二股に分かれている右側の道は近世以降は八王子道と呼ばれた道です。
二股の場所には江戸期の道標があるんですよ。
「右 扇町屋 八王子道 左 入間川 所沢道」とあります。
文化年間ですので、江戸後期ですね。
八王子道を八王子方面に少し歩いてみます。
この道は細くて車を止める場所もなさそうなので、この後の探訪では来るのをやめます。
※なお、この日の午後は毛呂山町歴史民俗資料館を探訪したのですが、この地域の中近世の街道について分かりやすい展示があったのでご紹介します。
この図の日高市近辺をズームするとこんな感じ。
分かりづらいかもしれませんが、少し太めの線で描かれているのが鎌倉街道上道で、「(慈光寺道)」と描かれた道と分岐している箇所がちょうどこの辺りだと思います。
「慈光寺道」という名前からして、慈光寺というお寺へ向かう道だということが分かりますが、上の地図でも都幾川村に慈光寺の場所がプロットされています。
慈光寺は都幾山と号する臨済宗の寺院で、寺伝では天武天皇2年(673)の開創で、配流された役小角も修業したと伝わっています。
鎌倉時代には全盛期を迎え、戦国時代には寺は城郭化され、多数の僧兵を有する軍事的寺院となりましたが、太田道灌によって焼き討ちにあいました。
ところが、江戸期になっても栄えていたようで、江戸の庶民の間では慈光寺をゴールとする「慈光寺参り」という寺社巡りが流行したそうです。
そういうこともあり、先ほど見た八王子道は、「慈光寺道」とも呼ばれているわけです。
さて、中先代の乱のときの古戦場の件ですが、1333年に群馬の新田義貞が鎌倉を陥落させた時、新田勢(および足利勢)は鎌倉街道を南下していきました。
軍隊というのは当たり前な話ですが道を通っていきますので、大きな道沿いは常に合戦場になる可能性があるわけです。
鎌倉街道沿いでは、その後も室町・戦国時代と多くの戦いが行われ、しかもそのポイントは河川敷であることが多いです。
神社のすぐ北側には下小畔川が流れています。
現在はこのように細い水路になっていますが、往時はもっと水量が豊富だったと思われますし、この北側の台地の北には小畔川というさらに大きな河川が流れています。
義貞が鎌倉を落とした時、第14代執権を務めたことのある北条高時は東勝寺で自害したのですが、その子時行は生年が不明なものの、おそらく8歳くらいで、鎌倉から脱出して行方をくらましました。
鎌倉を落とした義貞はやがて足利勢力と対立し上洛、鎌倉は尊氏の弟義直(ただよし)が預かります。
さて、行方をくらましていた時行は、後醍醐天皇の政治(建武の新政)の過激さによって世の中に不満をもつ武士が多い事実を知り、建武2年(1335)7月に北条の残党を糾合して挙兵します。
ただ、この時点でも時行はおそらく10歳くらいだったので、武士たちを糾合するほどの能力はないと考え、実際は彼を担いだ信濃の諏訪頼重たちが主導者であったと考えられます。
つまり、時行はお飾りのようなものですね。
ところがこの時行勢は思いのほか強大な勢力に膨れ上がり、鎌倉街道を南下して鎌倉陥落を目指します。
その過程で、ここで合戦が行われたわけです。
鎌倉を護っていた直義は武勇の誉れ高い22歳の渋川義季や元々義貞の配下だった岩松経家らを迎撃に向かわせ、義季らはこの地で時行勢を迎え撃ちます。
結果は時行勢の勝利で、義季と経家は自害。
時行勢は余勢をかって進撃し、義季らの敗北自害を知った直義は驚き、ついに自身が出陣して時行勢を迎撃します。
時行と直義が激突したのは現在の町田市本町田付近で、井出の沢古戦場と呼ばれている辺りです。
※2018年3月15日に探訪しています。
古戦場の説明板は菅原神社の境内にあり、菅原神社は台地上にあって低地部との比高差はご覧の通り。
この戦いでも時行勢は勝利。
直義は政治的才能は抜群なのですが、合戦は不得手なんですね。
それに対して兄の尊氏は内政よりも軍事的才能に溢れていた人物で、戦いの場になると、異様にテンションが上がる人物でした。
結局直義は鎌倉を放棄して逃げますが、そのドサクサに紛れて後醍醐天皇から預けられていた護良親王を殺害してしまいます。
鎌倉を落とした時行ら旧北条の残党たちは喜びに浸りますが、それもつかの間の出来事で、20日後には鎌倉は尊氏に奪還されてしまいます。
この時の一連の戦いは、北条家が治めていた「先代」と足利氏が治めた「後代」の間ということで、「中先代の乱」と呼ばれています。
さて、このように女影は中世の頃も重要な場所だったのですが、古代においても要地であったと考えられます。
日高市内には古代寺院が3か所知られているのですが、そのうちの女影廃寺跡がこの辺りにありました。
もう一度霞野神社前から北方の台地上を見ます。
この台地はこちら側の下小畔川と台地北方の小畔川に挟まれており、若宮遺跡というのが女影廃寺跡です。
ただし、寺院の遺跡は見つかっておらず、奈良の川原寺のものと似た軒丸瓦など、瓦類や須恵器、瓦塔、鉄製品などが見つかっており、それらの遺物は8世紀中頃から10世紀にかけてのものなので、その時代にこの地に寺院があったことは確実視されています。
さらにこちらも遺跡はなく、しかも遺物も無いので推測になってしまいますが、飯能市教育委員会の『掘り起こせ!地中からのメッセージ』では、高麗郡衙もこの辺りにあったのではないかと推測しています。
その場合、中世の鎌倉街道が古代にすでにあって、東山道武蔵路から分岐した道が高麗郡衙へ接続されていたと考えています。
以上見てきたように、女影という場所は歴史的に大変面白い場所なわけですね。
霞野神社境内から下小畔川北方の台地を見ます。
さて、集合時間までもう少し時間があるので、戦後間もない頃に八高線の大事故があった現場へも行ってみます。
ここですね。
南方を見ます。
八王子を発した八高線は、飯能を経て鹿山峠を越えて日高市の市街地へやってきます。
その際、丘陵から下り坂になるわけですが、下った先がちょうど左カーブになっているのです。
八高線の列車事故というと、終戦直後も直後の昭和20年8月24日の朝に起きた、小宮駅と拝島駅との間の多摩川橋梁上での正面衝突事故が有名で、その時は100名以上の方が亡くなっています(実際の死者数は戦後の混乱のため把握できていません)。
その事故に続き、まだ戦後の混乱が収まっていない昭和22年2月25日の朝にも、食糧の買い出しのために定員オーヴァーとなっていた列車が速度超過もあって上述の下り坂を下ってきたあとのカーブで脱線してしまいました。
この時代は、屋根の上にも乗客を乗せるという状態が普通に見られ、この列車の乗客は定員の3倍だったそうです。
ところが脱線と言っても5両の客車をけん引していたC57は高麗川駅に無事に到着します。
どういうことかというと、C57がけん引していた5両の客車のうち、後ろの4両が脱線して飛ばされてしまい、機関士は高麗川駅に着いたときに後ろに客車が1両しか繋がっていないことに気づいたわけです。
この時は184名(あるいは188名)が死亡し、495名(あるいは570名)が負傷し、この時点では史上最悪の列車事故となりました。
現在この場所には慰霊碑が建てられています。
こういった近代の事故も歴史の一つですので、事故の事実を風化させないためにも今日はメンバーをここに連れてこようと思っています。
⇒「文化新聞」のこちらのページに記事があります
それでは、集合場所の高麗川駅へ向かいましょう。
慰霊碑が建っている細い路地から南側の県道262号線に出ますが、ここは危ない。
自動車も事故を起こしそうな場所です。
その路地から右折や左折する際、両側ともカーブになっておりまったくその先が見えないのです。
しかもこういう場所は結構飛ばしてくる車が多く、おそらく右折しようとしてこの路地から飛び出したタイミングにそういう車がやってきた場合、その車はブレーキを踏んでも間に合わないです。
車で走っていて事故が起きても当然だと思われる場所にはたまに遭遇しますが、ここは危険度MAXです。
私は二度と南側から県道に出て右折することはしません。
慰霊碑に来る方もくれぐれも気を付けてください。
さて、高麗川駅に到着しました。
8時半までまだ少し時間があるのでしばらく待つとしましょう。
かつて、まだ雷電號が配備される前は、群馬方面に八高線に乗って行ったりしていましたが、八王子から八高線に乗って高崎を目指すと、ここ高麗川で乗り換えになります。
高麗川から北は非電化区間でディーゼルカーなんですよ。
※左がディーゼルカーのキハ110系(2013年5月5日撮影)
キハ110系のディーゼルエンジンの音がまた良いのです。
乗り換えでは使っても、駅を外から見たのは初めてでした。
「天下大将軍 地下女将軍」の将軍標に挟まれた案内板。
将軍標は朝鮮半島の村落で魔除けのために立てられているものだそうで、日本ではこの形式になっているそうです。
あれれ、雨が降ってきちゃいましたよ。
予報では午後からということでしたが、外れちゃいましたね。
8時半になり、全員集合しました。
それでは雷電號に乗って出発です。
まず最初はさきほのど慰霊碑から。
本日の参加メンバーのうち、オーメンさんと安斉さんは多摩地域の人なので拝島での列車事故は知っていました。
戦後の混乱時には他にも全国各地で鉄道事故は多発したようです。
つづいて、女影の霞野神社へ向かいます。
さきほど下見した内容で説明しますが、やはり「目」の数が増えると新たな発見もありますね。
さっきはこちらは見落としていました。
金子さんが気づいたこの石碑も見落としていました。
女影ヶ原古戦場跡の碑ですね。
おっとダスキンさん!
日曜日もお仕事ご苦労様です!
こんな石碑もありました。
それでは次の場所を目指しましょう。
⇒この続きはこちら