日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

高麗神社|埼玉県日高市 ~謎多き高麗王若光を祀る~ 【歴史を歩こう協会 第2回歩く日 その2】

2019-03-04 14:09:20 | 歴史探訪
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 面白歴史スポットである女影から本日の企画においてメインの場所と目される高麗(こま)神社へやってきました。

 ここにも将軍標がありますね。



 せめて雨がシトシトと降っているのであれば風情もありますが、結構普通の雨です。



 それでも参拝客は多いですね。

 周りの参拝客がみな渡来系に見えてしまいます。

 ちなみに私はある夜、飲み屋でカウンターの隣に座った男性から「君にはペルシャ人の血が流れている!」としきりに言われたことがあります。

 その方はそう言いつつ私の股間を触ってきましたが、私のは純国産です。

 では、境内図を見てみましょう。



 それほど広いわけではないようですね。

 ふと、掲示された寄付者の名前を見てみると、あらまあ、有名人だらけじゃないですか。

 太宰だ!



 おっと、仮面ライダーも!



 ※帰ってから気づきましたが、米沢の上杉家の方の名前もあります。

 私も沢山本を読ませていただいている鈴木靖民先生も。



 女優の南果歩さんも並んでいますね。

 喜多郎さんもいる。



 高麗神社の由来も関係してか、韓国の方の名前も多くありますが、総理経験者などの政治家の名前もたくさんありますね。

 これだけで結構エキサイトしてしまいました。

 多分、有名人の名前を探して話しているとそれだけで30分くらいは余裕で使いそうなので、この辺りで切り上げて参拝に行きましょう。



 由緒に関して簡単に説明されています。



 神社の名前は「高麗(こま)」ですが、ここに書いてある通り、祭神は「高句麗(こうくり)」の王族といわれている若光で、中世の「高麗(こうらい)」という国とは違いますよ。

 我が国では昔から、高句麗のことも「高麗」ということが多かったのでごっちゃになっている感があります。

 朝鮮半島の歴史書である『三国史記』によれば、高句麗の初代の王は朱蒙(東明聖王)と言って、紀元前37年に国を建てたとされますが、初期の頃の歴史はあまりはっきりしたことが分かりません。

 我が国で卑弥呼が活躍していた時代の2~3世紀に関しては『三国志』に記載があって、169年に高句麗の王・伯固は後漢の玄菟(げんと)太守耿臨(こうりん)の討伐を受け中国の支配下に入ります。

 その後、189年に公孫度(こうそんたく)が遼東郡の太守として赴任してくると、公孫度は辺境において自立の道を歩むのですが、伯固やその子の伊夷模(いいも)は公孫度の配下になってはいるものの、隙を見ては遼東郡で略奪行為に及んだため、公孫度の子の公孫康が高句麗を討伐しました。

 この時代、卑弥呼を共立していた倭国の人たちにとってもボスは公孫氏です。

 やがて時代が下って、日本人にはなじみの深い広開土王(好太王)が391年に即位し、広開土王碑の碑文によると彼は395年に北西の稗麗(契丹の部族)を撃破すると、翌年には百済を攻撃し、百済の王都漢城を落とす勢いを見せます。

 398年には東北の粛慎を攻撃して従属関係に貶め、倭と結んだ百済を攻めたのですが、ここからが日本人にとっては興味深い展開になっていきます。

 つまり、同碑文によると、当時新羅の王都には倭兵が充満しており、それを400年に広開土王が攻めていって新羅の王都を開放させたというのです。

 まるで神功皇后が新羅をやっつけた話と符合しているかのようですね。

 そして広開土王は撤退する倭の軍勢に追い打ちをかけ、半島南部の任那加羅まで進撃し、倭と安羅の兵を討ち、404年に半島に逆襲を掛けてきた倭を撃退しました。

 つづいて、407年には百済と戦い、410年には東扶余と戦った、という内容が刻されているわけですが、これはもちろん広開土王を顕彰する内容なので、多少は誇張があるにしても、広開土王が傑物であった可能性は高いです。

 しかもその跡を継いで79年もの治世を保った長寿王の代には、さらに勢力を伸ばして高句麗の全盛期を現出させます。

 長寿王の時代は倭国では「倭の五王」の時代で、大阪に超巨大古墳がつぎつぎと築造された時代です。

 高句麗も倭も中国の王朝に対して朝貢して位を下賜してもらっていたわけですが、倭の王はついに高句麗の王よりも高い位をもらうことができませんでした。

 中国の皇帝を中心とした当時の「世界」では高句麗は倭国よりも偉かったんですね。

 さて、拝殿へ向かいましょう。



 額。



 この拝殿の賽銭箱の上には参拝者の名刺がたくさん置かれています。

 多分、こういうのって見たことがないと思います。

 高麗神社は出世の神様となっているのですが、それと関係するんでしょうか?

 神様に名前を覚えてもらいたくて置いてあるのであればそれは無駄なことですので意味がないですよ。

 どなたか、名刺を置く意味をご存知の方がいらっしゃれば教えてください。

 社殿の裏に行ってみましょう。

 裏側から本殿が見えます。



 おや、古民家がありますよ。



 高麗家住宅です。



 今日はお雛祭りの日ということもあってか、お人形さんが飾ってあります。



 魔除けでしょうか。



 残念ながら中には入れないようになっています。



 蚕部屋はないようですね。



 それでは、そろそろ次の場所へ行きましょう。

 おや、立派な石碑がありますよ。



 高麗神社に関連する『続日本紀』の記事が2本刻されています。

 最初のは文武天皇の大宝3年(703)4月4日の条で、「従五位下の高麗若光に王(こにきし)という姓を賜った」という内容です。

 高麗神社の祭神となっている若光のことが書かれているのですが、従五位下というのは律令制の官人制度のなかで貴族の部類の最低ランクに入ります。

 その彼が王という姓を賜ったというのは、実際に高句麗の王の家系だったからだと考えられますが、『続日本紀』では、若光についてはそれ以外に記録がありません。

 ただし、『日本書紀』の天智天皇5年(666)10月26日の条によると、高句麗から日本に派遣された使節の一員に玄武若光の名がみえるので、もしかすると同一人物かも知れません。

 高麗神社宮司(現在は60代目)家に伝わる系図によると、若光は高句麗最後の王である宝蔵王の子とされていますが、今のところ私は他の史料でそれを裏付けることができていません(ご存知の方いればご教示ください)。

 当時の朝鮮半島の情勢は、660年には百済が滅び、663年に倭国は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に負け、非常に新羅の勢いが盛んな時代で、高句麗も存亡の危機に立たされていました。

 そのため、高句麗は倭との連携を強めて新羅やその背後の唐と戦うことを決めていたはずで、その際の使節として王族の若光がやってきて、その直後の668年に高句麗が滅んでしまったため、故郷に帰れなくなった若光はそのまま倭国の官人として生活していたものと考えることができます。

 なお、同じく滅亡した百済の王族も、倭国内では百済王(くだらのこにきし)という姓を授かって活躍しています。

 もう一つの文は、2年前に「高麗郡建郡1300周年」としてこちらでは多くの催しが開催されたとおり、高麗郡建郡の記事ですね。

 元正天皇の霊亀2年(716)5月16日の条によると、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七ヶ国にいる高麗人1799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を置きました。

 現在の日高市や飯能市をメインとしたエリアで、この地域は元々は入間郡の領域に入っていたのですが、それを分けて高麗郡を置いたというわけです。

 伝承ではこのとき神奈川県の大磯の高麗山にいた若光がそのリーダーとして選ばれ、高麗郡の初代郡司となりました。

 遺跡の発掘の結果、この時代に関東各地から土器が持ち込まれていることが分かっているので、『続日本紀』に記された高麗郡建郡の記事は考古学からも裏付けが取れています。

 ちなみに、高麗郡として確保された地域は、我が国に稲作が広がって以降の人間の足跡が非常に乏しい場所で、ほとんど人の住んでいない水田耕作の難しい場所を高麗人は与えられたということになります。

 その代わり、森林資源は豊富ですから、そういったもので生計を立てることは可能だったと考えられますし、水田耕作ができるように努力したことでしょう。

 それでは、高麗若光と関連する聖天院へ行ってみますよ。

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