⇒前回の記事はこちら
なんだかよく分からない野地久保古墳の次はこの近くにあるという谷地久保古墳を見に行きます。
ノヂの次はヤチ。
でもクボであることに変わりは無い。
先ほどの分岐点まで戻り、雷電號に乗って進めるだけ進みます。
これ以上は無理かなと思う場所で降りて、あとは徒歩で捜索。
しかし、周りを見渡しても墳丘は見えませんね。
どっこにもありません。
困った・・・
あ!
説明板らしきものが遠くに!

近接してみます。

確かに説明板だ。

しかし、墳丘はありません。
そっか、山寄形の古墳か!

山寄形というのは、山の斜面を多少整形して、そこに横穴式石室を構築するタイプで、何しろ築造してから千数百年も経っていますから、形も崩れてしまってなんだかよく分からなくなっている場合がある古墳です。
この石は何でしょう?

説明板を読みます。


古墳時代の終末期(7世紀)になると、その地域の王の墓は、この谷地久保古墳のように山奥にひっそりと佇んでいるケースが良く見られます。
中には、隠されたように構築された古墳もありますが、谷地久保古墳の場合は、谷の奥まった場所にあって、反対に古墳から見下ろすとこの通りの眺望です。

まさに、「王家の谷」ですね。
あの森あたりが野地久保古墳がある場所かな?

ところで、この古墳は終末期どころか、8世紀にはいる可能性があるということですが、さすがに8世紀、つまり奈良時代までは行かないんじゃないでしょうか。
そして興味深いのは野地久保古墳との関係ですね。
いろいろ想像できますが、この古墳はもう少し古い7世紀前半の白河国造の墓であって、この次に築造されたのが野地久保古墳で、そちらには大化改新以後の白河評司が眠っていると私は考えます。
というのは、この「王家の谷」に古墳を築造するとしたら、まず奥の方のこの場所に造り、その次代を少し離れた場所(つまり野地久保古墳の場所)に築造すると考えるからです。
もちろん造る人の趣味趣向までは分からないので、これはあくまでも私だったらそうするという考えの上で仮説を述べているにすぎません。
ところで、石室にはもう入れませんね。

谷地久保古墳は、古墳自体のヴィジュアルは弱いですが、「王家の谷」の景観はいいですね。
でもここもクラツーのお客様をお連れするには難しそうです。
では、次は下総塚古墳へ行きますよ。
⇒この続きはこちら
なんだかよく分からない野地久保古墳の次はこの近くにあるという谷地久保古墳を見に行きます。
ノヂの次はヤチ。
でもクボであることに変わりは無い。
先ほどの分岐点まで戻り、雷電號に乗って進めるだけ進みます。
これ以上は無理かなと思う場所で降りて、あとは徒歩で捜索。
しかし、周りを見渡しても墳丘は見えませんね。
どっこにもありません。
困った・・・
あ!
説明板らしきものが遠くに!

近接してみます。

確かに説明板だ。

しかし、墳丘はありません。
そっか、山寄形の古墳か!

山寄形というのは、山の斜面を多少整形して、そこに横穴式石室を構築するタイプで、何しろ築造してから千数百年も経っていますから、形も崩れてしまってなんだかよく分からなくなっている場合がある古墳です。
この石は何でしょう?

説明板を読みます。


古墳時代の終末期(7世紀)になると、その地域の王の墓は、この谷地久保古墳のように山奥にひっそりと佇んでいるケースが良く見られます。
中には、隠されたように構築された古墳もありますが、谷地久保古墳の場合は、谷の奥まった場所にあって、反対に古墳から見下ろすとこの通りの眺望です。

まさに、「王家の谷」ですね。
あの森あたりが野地久保古墳がある場所かな?

ところで、この古墳は終末期どころか、8世紀にはいる可能性があるということですが、さすがに8世紀、つまり奈良時代までは行かないんじゃないでしょうか。
そして興味深いのは野地久保古墳との関係ですね。
いろいろ想像できますが、この古墳はもう少し古い7世紀前半の白河国造の墓であって、この次に築造されたのが野地久保古墳で、そちらには大化改新以後の白河評司が眠っていると私は考えます。
というのは、この「王家の谷」に古墳を築造するとしたら、まず奥の方のこの場所に造り、その次代を少し離れた場所(つまり野地久保古墳の場所)に築造すると考えるからです。
もちろん造る人の趣味趣向までは分からないので、これはあくまでも私だったらそうするという考えの上で仮説を述べているにすぎません。
ところで、石室にはもう入れませんね。

谷地久保古墳は、古墳自体のヴィジュアルは弱いですが、「王家の谷」の景観はいいですね。
でもここもクラツーのお客様をお連れするには難しそうです。
では、次は下総塚古墳へ行きますよ。
⇒この続きはこちら